穂北城(ほきたじょう)
穂北城の基本情報
通称・別名
- 上野城
所在地
- 宮崎県西都市大字穂北
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 伊東氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 長倉氏(伊東氏家臣)、平田宗張(島津氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
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穂北城の口コミ情報
2025年09月13日 龍馬太閤【第一義】
穂北城
宮崎県西都市の大字穂北字古城にある【穂北城】♪城めぐに歴史詳細が無い為、記載します♪眼下には一ッ瀬川が南流します。茶臼原と呼ばれる、広大な台地の南西端に築かれた城郭です。台地を空堀で分断し、堀、または動線とし、郭を島状にして防御する。南九州に多い城郭の造り方と言えるでしょう。最大の防御施設である空堀は、地形地図からもハッキリと確認する事が出来ます。それぐらい深く掘り込まれているのです。北面のみ茶臼原台地と繋がり、東西面は谷を巡らし、南面は一ッ瀬川に臨み、断崖となります。
この茶臼原台地には、前方後円墳3基・円墳52基で構成された国指定・茶臼原古墳群が所在し、台地南側斜面には、横穴式石室を有する国指定・千畑古墳や千畑横穴墓群、そして数十基の横穴墓群が群在します。また穂北城からも、縄文土器・弥生土器・土師器・青磁・染付・磁器・陶器・古銭・石器(石鏃・石包丁など)が出土していて、中でも弥生土器が多量に出土しており、古来から適地として生活が営まれていた事が分かっています。
築城年等、不明ですが、南北朝の頃に伊東氏の一族が築いたものと思われます。伊東四十八城の1城である穂北城は、天文・永禄年間(1532年〜1570年)頃は、伊東氏の重臣である長倉藤七(洞雲斎)が城主であります。
天正5年(1577年)伊東義祐が島津氏に敗れ、豊後落ちの際に、財部城の城主・落合民部少輔に阻まれました。穂北城主・長倉藤七(洞雲斎)は、島津勢を食い止め、伊藤義祐は米良を経て、豊後に落ちる事に成功したと云われています。豊後にて大勢を整え、大友氏の力を借り、日向を取り戻そうとした伊東氏ですが、結果叶わず。その後、島津氏が日向に入った後は、平田新左衛門宗張が城主となっています。
穂北城は榎ノ木城、西ノ城、中ノ城、東ノ城など6つの郭から成ります。郭間は空堀や堀切で遮断し、堀底道を形成します。虎口もまた明瞭に残り、特に西ノ城は、直線的に造られますが、坂となり、寄手の勢いを断つ事が出来ます。直線的な虎口は、織豊系の技術が浸透していない証拠である為、非常に貴重な遺構であります。
2022年10月16日 気分爽快丹波守
穂北城
事前に調査していたが、確かに城への道が分かりにくい。畜産施設を通り過ぎて、牛舎の牛の熱い視線を感じながら登城。藪化が激しく、まともに見れたのは曲輪2と曲輪6のみ。
以下、写真の説明。
①曲輪2の内部
②曲輪1と曲輪2の間の堀切。進入断念。
③曲輪2を北から
④曲輪6内部
⑤曲輪6の土塁
⑥曲輪5と曲輪6の間の土橋
⑦曲輪3を西から
⑧曲輪3と曲輪5の間の堀切