高鍋城(たかなべじょう)
高鍋城の基本情報
通称・別名
- 舞鶴城、財部城
所在地
- 宮崎県児湯郡高鍋町大字上江字嶋田
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- 三階櫓[3重/築年不明/破却]
築城主
- 土持氏
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- 秋月種長
主な城主
- 土持氏、落合氏(伊東氏家臣)、川上忠智(島津氏家臣)、秋月氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
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高鍋城の解説文
高鍋城の口コミ情報
2024年09月24日 織田上総介晃司
高鍋城
麓に舞鶴公園駐車場があります。
夏は本丸政庁も夏草が茂りモチベーションが下がるかもしれませんが、ここは踏ん張ってさらに上を目指して進んで行きましょう。
2024年05月04日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
高鍋城
高鍋城は麓に無料駐車場があるので訪れやすいですし、資料館も併設されています。
高城川(耳川)の合戦の前に島津義弘が着陣し軍議を開いた城の1つみたいです。
その後豊臣秀吉による九州征伐の後に秋月氏が入城しています。
麓にある神社から登っていくと山城へと登城出来ます。階段等が整備されていたりするので登山のような装備は必要ありません。
破城の跡も観ることができ、名護屋城を少し思い出しました。
そして山の地形が関係していると思いますが、縄張りが肥後人吉城に似ていました。
城域も広くそれなりの兵数が駐屯出来そうです。
一部石垣もありましたが、どちらかというと土の城という感じでした、元々なのか破城のためかはよく分かりませんでした。ひょっとしたらそうした事も資料館に行くとわかるかもしれません。
麓にある萬歳亭も趣があり武家屋敷が好きな方は気にいるかもしれません。
麓からは本丸は見えにくいので、登ると何度かまだ上があると感じました。守る側から考えるとそうした点は攻め手の気力を削ぐのに役立っているように思いました。
2024年02月12日 RED副将軍
高鍋城
麓の近世城郭と山上部の中世城郭が味わえる土岐氏、伊東氏、島津氏、秋月氏が支配した居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
斉衡年間(854年〜857年)に財部土持氏によって築かれたと云われます。
財部土持氏は宇佐八幡宮の神官の一族で、日向北部に勢力を奮った土持七頭のひとつで筆頭ともされました。しかし1457年に財部土持高綱は伊東祐尭との小浪川合戦で討死し滅亡。
その後、財部城には伊東氏家臣である落合民部少輔が入城。伊東氏四十八城のひとつとなります。
1577年、財部城主の伊東義祐は島津領への侵攻を図るも敗走し、以降は島津氏の属城となりました。
1587年に豊臣秀吉による九州征伐において島津氏が降伏すると秋月種実が財部に移封となります。1604年、秋月種長は串間城から財部城に居城を移すと1607年から近世城郭へと改修を実施。実質的な天守である三重櫓も設けられました。
1673年、三代城主の秋月種信は財部から高鍋に地名・城名を改め、明治に至るまで約280年もの間秋月氏の治世が続きました。
見所
北に小丸川、西に宮田川、東に日向灘に囲まれた丘陵上に築かれています。
麓には三の丸、その南に二の丸、その上に本丸と奥御殿が配された近世城郭があり、特徴的なのは本丸の上にかつての中世城郭である詰め城が階層的に重なっています。
詰めの丸の上には三重櫓があったとされる郭があり、野面積の高石垣の上に築かれています。高石垣は冬でもヤブに覆われており、一番の見所ですが残念です。さらに高台には太鼓櫓跡があり東側にも郭が築かれ土塁も残ります。
現在、舞鶴神社となっているのが三の丸で資料館となっているのが二の丸とされ、近世的な石垣が残りますが公園化も含めて大きく改変を受けています。
現在は舞鶴公園として整備されており、駐車場も完備しています。
2022年11月06日 薩摩安房守義弘維新斎
高鍋城
別名を舞鶴城といい、今は城跡が舞鶴公園として親しまれてるようです。公園の駐車場から岩坂門跡を行くと二の丸跡で、更に登城階段を上がると長峰門跡があり、そこを通過すると本丸跡です。本丸跡は、建物がなく礎石等が散見。また、石垣等も残っているため、公園を散策するとそこが城跡だと理解できます。
2022年03月20日 うっきー
高鍋城
高鍋駅から歩いて30分ほどです。高石垣は感動しました。
2019年06月01日 能登守あるて
高鍋城
虎口下から物見台方面。
個人的に高石垣よりもこのアングルの風景が好きです。
2019年03月14日 本田左兵衛尉家吉
高鍋城
本丸登上前に城跡内にある歴史資料館に寄ると、詳しく高鍋城、高鍋藩のことや城主・藩主だった秋月氏のことや薩摩・島津氏や飫肥藩主伊東氏との関係、関わりなど日向の歴史を詳しく丁寧に説明してくれました。(資料館入館料大人210円)時間がある方は、是非寄って下さい。戦国期~江戸期の日向の勢力争いが理解できます。
2013年06月30日 上杉鷹山公
高鍋城
高鍋藩六代藩主秋月種実の子二男松三郎、後の上杉鷹山公です。
旧称は「財部(たからべ)城」。地形が羽ばたく鶴に似ていることから「舞鶴(まいづる)城」とも呼ばれる。高鍋町の西方に位置し、面積は7haに及ぶ。
概要
築城は2つの説がある。・柏木左衛門が、神亀(じんき)4年(727年)に築城。
・県(あがた[現在の宮崎県延岡市])を支配していた土持影綱の弟、秀綱(ひでつな)が財部に居住した斉衡(さいこう)年間(854~857年)に築城(有力説)。
以降約600年の間土持氏の居城となる。
歴史・沿革
康正2年(1456年)10月、当時の城主土持高綱(たかつな)は県の土持宣綱(のぶつな)と謀り、都於郡(現在の宮崎県西都市)城主の伊東祐堯を討とうとするが敗れた。以降約120年の間伊東氏の居城となる。天正5年(1577年)、城主の伊東義祐(よしすけ)は島津領(現在の鹿児島県)への南進を企てるが、敗走、以降約10年の間、財部城は島津氏の管理下におかれた。
弘治3年(1557年)、筑前(現在の福岡県西部)の秋月種方(たねかた)は豊後の大友宗麟に敗死。息子の秋月種実(たねざね)と孫の種長(たねなが)は島津氏と協力し、大友氏の包囲を企てるが、天正15年(1587年)、大友氏の頼る豊臣秀吉の九州征伐軍により降伏、種実は名器「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の茶器と「国俊(くにとし)」の刀を献上することで許容され、後に財部に移封される。財部の初代種長は以降明治まで約280年間秋月氏の居城となった。
延宝元年(1673年)、三代種信が「財部」を「高鍋」に改めたことから以降「高鍋城」と呼ばれる。
明治2年(1869年)、政府による「版籍奉還」が行われ、高鍋藩十代藩主種殷(たねとみ)は先だって先祖代々の土地を奉還した。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により高鍋藩は高鍋県となり、種殷は知藩事を命ぜられ、高鍋城本丸は高鍋県政庁と改められ、県政の場となった。
同年11月に美々津県が設置されると高鍋県は廃止され、高鍋城も取り壊された。
現在では憩いの場として、四季折々に移りゆく城跡の景色を楽しみに足を運ぶ客も多い。春には桜まつり、秋には灯籠まつりが行われ、かつてそこにあった盛況の高鍋藩にも勝る賑わいを見せている。