高鍋城(たかなべじょう)

高鍋城の基本情報

通称・別名

舞鶴城、財部城

所在地

宮崎県児湯郡高鍋町大字上江字嶋田

旧国名

日向国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

三階櫓[3重/築年不明/破却]

築城主

土持氏

築城年

平安時代後期

主な改修者

秋月種長

主な城主

土持氏、落合氏(伊東氏家臣)、川上忠智(島津氏家臣)、秋月氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

高城(宮崎県児湯郡)[5.4km]
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高鍋城の解説文

高鍋城(たかなべじょう)は宮崎県児湯郡高鍋町にあった日本の城。

旧称は「財部(たからべ)城」。地形が羽ばたく鶴に似ていることから「舞鶴(まいづる)城」とも呼ばれる。高鍋町の西方に位置し、面積は7haに及ぶ。

概要
築城は2つの説がある。
・柏木左衛門が、神亀(じんき)4年(727年)に築城。
・県(あがた[現在の宮崎県延岡市])を支配していた土持影綱の弟、秀綱(ひでつな)が財部に居住した斉衡(さいこう)年間(854~857年)に築城(有力説)。
以降約600年の間土持氏の居城となる。

歴史・沿革
康正2年(1456年)10月、当時の城主土持高綱(たかつな)は県の土持宣綱(のぶつな)と謀り、都於郡(現在の宮崎県西都市)城主の伊東祐堯を討とうとするが敗れた。以降約120年の間伊東氏の居城となる。

天正5年(1577年)、城主の伊東義祐(よしすけ)は島津領(現在の鹿児島県)への南進を企てるが、敗走、以降約10年の間、財部城は島津氏の管理下におかれた。

弘治3年(1557年)、筑前(現在の福岡県西部)の秋月種方(たねかた)は豊後の大友宗麟に敗死。息子の秋月種実(たねざね)と孫の種長(たねなが)は島津氏と協力し、大友氏の包囲を企てるが、天正15年(1587年)、大友氏の頼る豊臣秀吉の九州征伐軍により降伏、種実は名器「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の茶器と「国俊(くにとし)」の刀を献上することで許容され、後に財部に移封される。財部の初代種長は以降明治まで約280年間秋月氏の居城となった。

延宝元年(1673年)、三代種信が「財部」を「高鍋」に改めたことから以降「高鍋城」と呼ばれる。

明治2年(1869年)、政府による「版籍奉還」が行われ、高鍋藩十代藩主種殷(たねとみ)は先だって先祖代々の土地を奉還した。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により高鍋藩は高鍋県となり、種殷は知藩事を命ぜられ、高鍋城本丸は高鍋県政庁と改められ、県政の場となった。

同年11月に美々津県が設置されると高鍋県は廃止され、高鍋城も取り壊された。

現在では憩いの場として、四季折々に移りゆく城跡の景色を楽しみに足を運ぶ客も多い。春には桜まつり、秋には灯籠まつりが行われ、かつてそこにあった盛況の高鍋藩にも勝る賑わいを見せている。

情報提供:高鍋町役場社会教育課

高鍋城の口コミ情報

2019年06月01日 能登守あるて
高鍋城



虎口下から物見台方面。
個人的に高石垣よりもこのアングルの風景が好きです。

2019年03月14日 本田左衛門尉家吉
高鍋城

本丸登上前に城跡内にある歴史資料館に寄ると、詳しく高鍋城、高鍋藩のことや城主・藩主だった秋月氏のことや薩摩・島津氏や飫肥藩主伊東氏との関係、関わりなど日向の歴史を詳しく丁寧に説明してくれました。(資料館入館料大人210円)時間がある方は、是非寄って下さい。戦国期~江戸期の日向の勢力争いが理解できます。

2013年06月30日 上杉鷹山公
高鍋城

高鍋藩六代藩主秋月種実の子二男松三郎、後の上杉鷹山公です。

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