都於郡城(とのこおりじょう)
都於郡城の基本情報
通称・別名
- 浮船城、浮舟城
所在地
- 宮崎県西都市大字荒武、鹿野田
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 伊東祐持
築城年
- 建武2年(1335)
主な改修者
- -
主な城主
- 伊東氏、鎌田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(都於郡城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
佐土原城(宮崎県宮崎市)[4.7km]
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宮崎城(宮崎県宮崎市)[11.0km]
倉岡城(宮崎県宮崎市)[12.1km]
都於郡城の解説文
[引用元:Wikipedia「都於郡城」の項目]
都於郡城(とのこおりじょう)は現在の宮崎県西都市にある山城。国の史跡[1]。築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。伊東四十八城の一つ。別名、浮船城。
また、都於郡城本丸は「高屋山上陵」(たかやのやまのえのみささぎ、穂穂出見命(ホホデミノミコト・山幸彦)の陵墓)宮内庁伝承地でもある。
歴史
都於郡城は南北朝時代から安土桃山時代にかけて日向国に割拠した伊東氏の城の一つ。
1335年(建武2年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の伊東祐持による築城といわれ、後にこの都於郡城を本拠として、勢力を拡大することになる。
高さ約100メートルの丘陵に本丸(約3500坪)、二ノ丸(約1200坪)、三ノ丸(約600坪)、奥ノ城(約600坪)、西ノ城(約600坪)の5つの曲輪が築かれている。その外側には10以上もの帯曲輪や腰曲輪が配されている。東西約400メートル、南北約260メートルの広さで、地元では五城郭の通称が用いられている。ちなみに中世の南九州の城は曲輪の名称を「○○丸」ではなく、「○○城」と称することが多い。
五城郭と峰続きに1.3キロメートル東方に日隠城という出城があり、また東ノ城(約450坪)、泉ノ城、南ノ城(約1500坪。高城ともいう)、向江ノ城(約600坪。後に廃される)、向ノ城(約900坪。初めは前ノ城と称された)、中尾城といった出城がある。7つの出城はいずれも丘陵の先端に築かれており、物見櫓のような建物の存在や、主要な往来に配置されているので番所的機能も有していたものと推定される。さらに総延長約4キロメートルもの水堀や池が、五城郭や侍屋敷、寺社地、町人地など取り囲むように巡らされており、中世式城郭の典型的な様式である。大規模な城域(惣構え)は東西約2キロメートル、南北約1キロメートルに及び、築城当時の西国では指折りの威容を誇った。
城の外堀として三財川が利用されており、別名を浮船城と称された。川面に城壁が映り、そのため鮎がここから上流へはさかのぼれなかったという伝承もある。伊東家の黄金期を築いた十代当主伊東義祐は、「春は花 秋は紅葉に 帆をあげて 霧や霞の 浮船の城」と詠んで、城の風雅を讃えた。
城下の要所に多数の神社仏閣を集めて、非常時の際の防衛拠点として活用することは定石だが、都於郡城も同様だった。城下には8つの神社と20もの寺院があった。神社は若宮権現、滝ノ天神跡、荒武神社、岩崎稲荷、都於郡稲荷、原向稲荷、塩竃社跡、慶部権現である。寺院は大安寺(総昌院)、光照寺、黒貫寺、岳惣寺跡、安養寺跡、梅林寺跡、養壽院跡、伝守院跡、長持(大中)寺跡、本永寺跡、円光院跡、大用寺跡、欣浄寺(昭覚院)跡、定徳院跡、大祐(徳翁)寺跡、徳泉寺跡、花立寺跡、一乗院跡、東興庵跡、常楽院跡が確認されている。
祐持の子・伊東祐重の代に大修築が加えられた。『日向記』によれば、「夫より都於郡を経営せんとて弥(いよいよ)家風を定む。大形の指図様体究って、先普請に可入。具足或(あるいは)鍛冶番匠を召集め夜を日に続て急ぎけり。弥精力を励まし吉日を撰て御移住なり。其外、先規の如く馳集(つどい)て門前に市をなす。近習、外様、馬廻以下の屋敷割有しかばさしもに広き山上山下も更になかりけり」とある。
城は戦乱や失火によって4度も火災にみまわれたが、1504年(永正元年)3月21日、城中からの失火によって城外まで延焼し、建物器物の大半を焼失したこともあった。
伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊東四十八城と呼ばれる48の城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として繁栄する。 1577年(天正5年)に伊東氏が島津氏の侵略により一時的に衰退すると都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、豊臣秀吉により島津氏は根白坂の戦いで完敗し日向国から放逐され、都於郡城は戦後廃城となった。伊東氏は那珂郡の飫肥城(宮崎県日南市)を本拠とし、飫肥藩主として繁栄した。1615年(元和元年)、江戸幕府の一国一城令により都於郡城は正式に廃城となった。
現在
2000年(平成12年)9月6日に国の史跡に指定され、2001年(平成13年)より整備に伴う遺構確認調査が実施されている。また、都於郡城にて生誕した伊東マンショ(祐益)を記念し「伊東満所像」が設置されている。
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都於郡城の口コミ情報
2022年01月23日 くぽっちパパ摂政
都於郡城
北の大友氏と南の島津に挟まれながら飫肥城を落として絶頂を極めた伊東48城を従えた頃の巨大な伊東氏の勢力を感ずることのできる名城に匹敵する城です。本丸には天正遣欧使節となった伊東マンショの銅像が建てられており、三之丸からは、霧島連山を望める雄大な絶景が広がります。
2021年05月05日 島津中書
都於郡城
伊東氏本拠地である都於郡城。大きな古墳を利用し作られている土塁の広い敷地には数々の防衛の工夫が。
2021年01月21日 島津中書
トイレ[都於郡城 トイレ]
数台の駐車場に併設されたトイレがあります。
2018年07月18日 織田上総介晃司
都於郡城
本丸の近くに駐車場とトイレがあります。
土の城としての規模は最大級で各曲輪を高い土塁と大きな堀切(空堀)で隔ててる様は曲輪ではなく、それぞれ独立した城の集合体といった感じ。
2013年08月09日 主税允ぼくぜん
都於郡城
北は山形、南は宮崎まで数々の山城をリアルで攻め、リアルで攻め落として来ましたが、これほど見事な"土の城跡"はなかなかありません。
確実に3本の指に入ります。
各曲輪の広さ、堀切の見事さは言う事なし!!
各曲輪の連絡が土橋でないのが新鮮でした!!
自分はまだまだ知らない事が沢山あるのだと実感しました。
2012年08月19日 大宰少弐ためぞう
都於郡城
本丸に伊東マンショの銅像があります。
2011年02月07日 クック矢沢匠守
都於郡城
この城に 伊藤 マンショは幼年期を過ごし 島津軍に追われ 伊藤一族は豊後大友宗林を頼り、山道を逃げたそうです、