飫肥城(おびじょう)

飫肥城の基本情報

通称・別名

舞鶴城

所在地

宮崎県日南市飫肥10-1

旧国名

日向国

分類・構造

平山城

天守構造

建造されず

築城主

土持氏

築城年

戦国時代前期

主な改修者

伊東祐兵

主な城主

土持氏、新納氏、伊東氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

石垣

指定文化財

国重要伝統的建造物群保存地区(日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地区)、市史跡(飫肥城)

再建造物

御殿、櫓門、門、塀、石碑、説明板

周辺の城

酒谷城(宮崎県日南市)[4.7km]
郷之原城(宮崎県日南市)[6.9km]
南郷城(宮崎県日南市)[8.9km]
櫛間城(宮崎県串間市)[19.7km]
紫波洲崎城(宮崎県宮崎市)[21.7km]

飫肥城の解説文

飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市)にある城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えた。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。

歴史・沿革
戦国時代
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。

戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ新納氏が治めていた。1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。

だが、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配に復帰した。

伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加した功により、再び飫肥の地を与えられることとなった。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。

祐国が飫肥に侵攻した1484年から祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、日本の戦史において稀有な例と言えよう。

現代
近年では1978年に大手門が復元されたほか、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられている。

NHK連続テレビ小説わかばのロケ地になったことでも有名である。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(96番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

飫肥城の口コミ情報

摂津守@Dr.stop酒様[2017年07月26日]
宮崎市内から海岸沿に車を走らせ、日南市内手前で内陸に向かい、1時間少しで飫肥城駐車場(無料)に到着。

飫肥城は蛇行する酒谷川に面した小丘陵の上に築かれた平山城、城域は周囲2.5kmにも及ぶ広さと、本丸・中の丸・西の丸等の周囲を空堀で囲んでいたとか。

駐車場から武家屋敷や資料館が両側にある広小路を通ると目の前に復元された白壁櫓門式の大手門。
その前の土橋左右に空堀が一部残ってます。

大手門を潜ると飫肥石の切込ハギで築かれた石垣と塀に囲われた桝形虎口に、左手の小高い場所に松尾の丸があります。
大手門から松尾の丸、旧本丸に至る道は飫肥杉と苔に、石段と石垣、城壁が重なり、伊東氏と島津氏の攻防戦が繰り広げられた舞台を感じさせつつ、落ち着きのある雰囲気です。

江戸時代初期に3度の地震で本丸が今の飫肥小学校敷地に移ったのも、その場所が時代に合わせた変遷を表してます。
旧本丸跡は松尾の丸北側に残っており、そこに至る石段と虎口、石垣、それを取り囲む土塁も残っています。
旧本丸は、復元された北門とともに、飫肥杉の林に苔の絨毯が真夏でも涼しさ、そして癒される場所でした。

五瓜ニ唐花紋大納言や〜きみ様[2017年05月08日]
城下町も城跡もいいですね。
鹿児島側から回ってくると何十キロも町のない山道走った挙げ句に飫肥の町がある印象でした。
正直ガソリンはヒヤヒヤでしたが。

ここは観光客沢山でした。
駐車場あり。
お土産屋さんも食事も充実してるし、地元の食べ物もいいです。

土佐守土佐っ子様[2016年12月20日]
大手門の前に立ち、左右を眺めると空堀。かつては二倍の深さがあったようです。
大手門を過ぎて左に折れ、階段を登ります。階段には荷の上げ下ろしのため板?を渡すための溝が二本掘ってあります。よく見てみてください。
そこを上がると正面に石垣。この石垣は輪を描くように組まれており、大変珍しいです。
そこから左側に明治期に植えられた杉並木。苔とのコントラストが素晴らしいです。さらにその上が島津時代に使われた本丸。ここも同様に杉並木&苔。
伊東時代の本丸はその反対側で現在小学校になっています。ここにあった書院は豫章館という城下にある施設に移築され現存しています。
苔といえば城下に服部植物研究所というところがあり、苔の研修者で有名な方が開いた施設があり、見学無料です。
城下の石垣もよく残っており、電信柱も埋設するなど雰囲気はとても良いです。ゆっくり時間を取って城下町の町並みも堪能したい城跡です。

鎌倉又兵衛《》弾正少弼様[2015年09月26日]
やはり飫肥城の一番の名物は、本丸で学ぶ礼儀正しい小学生たち!平日の登下校時の城攻めをお薦めします!(*^^*)

【鯉人】なおちゃん日向守様[2015年08月10日]
食べ歩きの厚焼き卵はお勧めです( ・∇・)

June02様[2013年01月06日]
約2年ぶりとなる飫肥城でしたが、『鯉の泳ぐ通り』がある御徒町が変わってました。
昨年から、鯉ヘルペス?により放流を見合せている様子。
当面は、放流中止の継続だそうです。
やっぱり、雰囲気が違います。鯉が泳ぐ、泳がないのでは…。
城下町の風情を担う?鯉の遊泳復帰を願っております。

朝日浴びる旧本丸虎口と大杉、美しかったですよ。
その写真をアップします。写りは、イマイチですけど。

大宰少弐ためぞう様[2012年08月19日]
城、城下町、「食べ歩き」を全部回ると結構な量を歩きます。8月に回ったため、汗だくに…

はとがや日向守様[2012年08月19日]
日本100名城のスタンプは本丸にある歴史資料館の入口で押せます。スタンプは受付の人が保管しているので、声をかけて出してもらいます。ちなみに資料館に入場しなくてもスタンプは押せますが、必見の資料が展示されていますので、ぜひ見学してください!

初代征夷大将軍天下一の号様[2012年02月11日]
城下町の「食べあるき・町あるき」というお得なシステムや四半的の試射も出来て楽しめる♪

ブイシカ太政大臣様[2011年08月27日]
南九州の奥地に、思ったより大規模な縄張りにまず驚かされる。石垣も巨大強固で、後世の天下普請の城にひけをとらない。島津との対立から明治維新まで国境に兵力を展開し続けた伊東家の飫肥領に対する強い意志が飫肥城には感じられる。
藩財政を潤す特産品となった巨大な飫肥杉が林立する旧本丸は地面の苔と相俟って、旅の疲れを癒やしてくれる。

June02様[2011年02月13日]
個人的に好きな城下町のひとつで、7年ぶり4度目です。飫肥城の見所は櫓門(大手門)ですが、参道正面視より、空堀を含めた斜視の方が復元とはいえ、重厚さを感じます。お気に入りは、櫓門から中の丸に至る迄の登城(資料館裏手)で、癒されてしまいます。
本丸跡は小学校校庭であり、休み時間ともなれば賑やかになり現実に引き戻され、また、桝形虎口のある旧本丸跡は、大杉が林立して、一層静寂感を与えてくれます。
城下町は、小さいですが町割りよろしく楽しめます。
写真は熟考の末、御城下徒町の鯉の泳ぐ通りにしました。

真田左衛門佐信繁様[2010年06月30日]
城跡もさることながら、町並みもかなりイイ雰囲気です

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