清武城(きよたけじょう)
清武城の基本情報
通称・別名
- 清瀧城、清滝城
所在地
- 宮崎県宮崎市清武町上加納字城内
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 清武祐行
築城年
- 康暦元年(1379)
主な改修者
- -
主な城主
- 清武祐行、伊東祐堯、伊集院久宣、伊東氏、河崎氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
曽井城(宮崎県宮崎市)[3.0km]
蓬莱山城(宮崎県宮崎市)[5.6km]
石塚城(宮崎県宮崎市)[7.3km]
田野城(宮崎県宮崎市)[8.1km]
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宮崎城(宮崎県宮崎市)[11.3km]
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高岡城(宮崎県宮崎市)[13.6km]
清武城の解説文
[引用元:Wikipedia「清武城」の項目]
清武城(きよたけじょう)は、宮崎県宮崎市清武町加納甲776・777にあった日本の城(山城)。宮崎市指定史跡。南北朝時代に「清瀧城」と呼ばれていた城を、1379年(天授5年)に伊東(清武)祐行が増改築して「清武城」となった。伊東四十八城の一つ。
概要
清武川左岸の丘陵上に立地し、城域は南北380メートル、東西に320メートルに及ぶ。本丸・二の丸・台丸などで主郭を構成し、その西~南側に数メートルの段差によって区分される曲輪群を形成する。
周辺の丘陵上に郭、城館、寺院を置くなど都於郡城に似た構造となっているのは築城者が伊東一族である故なのか。詳しくは分からない。
城跡は宮崎自動車道によって南が一部分断されている。城跡一帯は畑や宅地となっていて、遺構は見つけにくいが、各曲輪の平坦面は残存しており、本丸には碑が建てられている。城跡への上り口は城山北西にある。
歴史
1485年(文明17年)には飫肥城攻めの後詰として伊東祐堯が入城(のち同城で死去)。伊東四十八城のひとつとなり城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔などが務めた。1577年(天正5年)伊東氏衰退後、島津氏武将・伊集院久宣が入城した。1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐後、伊東祐兵が飫肥・曾井・清武を秀吉に宛がわれ稲津掃部助重政が城主となる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際、稲津掃部助は東軍方として西軍高橋元種の持城である宮崎城を攻略したが(城代は権藤種盛)、直前に高橋氏が東軍に寝返っていたため、その責を負い孤立。やがて罪状を得て、1602年(慶長7年)10月18日、藩主伊東祐慶に清武城を攻められ誅殺された(稲津の乱)。
その後、河崎駿河守が城主となったが、1615年(元和元年)、一国一城令によって廃城。なお、清武には1637年(寛永14年)3月15日に改めて、清武地頭が置かれて駿河守の次男河崎大學助祐信が就任する。
1970年(昭和45年)7月23日、宮崎市指定史跡(指定当時は清武町)となった。
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清武城の口コミ情報
2020年08月16日 【若鯉】頂上突撃
清武城
近くに城主だった稲津掃部助さんのお墓もあります
2017年05月31日 まるき〜陸中守
清武城
宮崎市立加納小学校の北側から坂を登り4〜500m行くと左手足元に小さな案内が見えます『清武城址⇨』と表示されていて案内に従い進み分かれ道を右に取り回り込むと右側が本丸跡?草木が茂り地面は見えませんが…
その上辺りに城址碑と城説明。
伊東氏四十八城の一つらしいです。
この辺りの城説明で伊東氏がよく出てきますな
途中土塁で囲まれた場所に養蜂をしている所がありました、もしかしたらそこも曲輪かも知れません。
2011年02月06日 クック矢沢匠守
清武城
眼下に宮崎高速道路が通っています、遺構は わかりません、