櫛間城(くしまじょう)
櫛間城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 宮崎県串間市大字西方字上ノ城
旧国名
- 日向国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 野辺忠盛
築城年
- 建武年間(1334〜1336)
主な改修者
- -
主な城主
- 野辺氏、伊作氏、島津氏、秋月氏
廃城年
- 慶長9年(1604)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
志布志城(鹿児島県志布志市)[12.4km]
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櫛間城の解説文
[引用元:Wikipedia「櫛間城」の項目]
櫛間城(くしまじょう)は、宮崎県串間市西方(日向国那珂郡櫛間院)にあった日本の城(平山城)。
歴史
築城年代は明らかではないが、鎌倉時代後期頃、関東から鎌倉御家人として当地に下向した地頭職の野辺久盛が本拠地として築城したと云われる。
南北朝時代には野辺盛忠の本拠地で島津貞久や畠山直顕ら歴代の守護に抵抗したが、1339年(延元4年/暦応2年)に陥落した。盛忠以後は、盛房が城主となり、盛仁の代まで7代に渡り野辺氏が居城したが、足利義昭事件を契機に野辺氏は衰退し、櫛間城をあとにする。
室町時代後期には島津氏の影響下に入り、同氏の一族である伊作家が伊作城から櫛間城に転封された。伊作久逸は伊東祐国と結んで反乱を起こすが、伊東祐国が戦死すると降伏して伊作に戻され、代わりに同じ島津氏の一族である豊州家が入った(飫肥城主を兼ねる)。その後、島津氏・肝付氏・伊東氏による攻防が繰り広げられるが、豊臣政権の九州国分によって筑前国秋月氏がこの地に移された。秋月種長が一時居城としたが、関ヶ原の戦い後に財部城を新たな本拠としたため、1604年(慶長9年)に廃城となった。
東側に福島川、西側に天神川が流れる南北に伸びたシラス台地の丘陵上にあり、南北1.2キロメートル・東西0.4キロメートルの区画に13もしくは14の曲輪があり、1991年(平成3年)以降発掘調査が行われている。その結果、建物の遺構のみならず、中国や東南アジアなどからの輸入品を含む陶磁器をはじめ、銭貨・石製品・小刀などが発掘されている。
参考文献
- 「日本歴史地名大系第46巻・宮崎県の地名」(平凡社、1997年11月12日初版第1刷)ISBN 4-582-49046-8 P493「櫛間城跡」
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櫛間城の口コミ情報
2023年06月05日 順☆散歩征夷大将軍508+23
櫛間城
縄張図を見ると城域はかなり広く、確かにその半分以上は破壊されてしまっているものの、工業団地の北側を中心にそこそこ広範囲に遺構が残っていることが航空写真や地形図でもある程度は確認することができます。
で、実際に訪城してみるとですね、「遺構の宝箱やー!」と叫びたくなるほどの、郭・土塁・堀・切岸の数々で、自分の想像を遥かに超える良物件でした。
いろんな意味で工業団地側からだと入り込めそうな場所がほぼなく、表面的に少ししか遺構を見ることができません。がっつり見るには、ぐるーっと回って北側の森林組合があるほうから侵入するのがお手軽です。森林組合の敷地と農地の間に作業道がありますからそこを進み、突き当たりの薮に突撃していただきますと…
すぐに大きな堀切があり、感動で悶えることができます。そしてその堀切の奥はめっちゃ広い横堀(ここも堀切と言えば堀切ですが)となり、どこまで続いてんの?ってくらい長ーく続いています。凄すぎて全米が泣くレベルです。
そして堀切や横堀の周辺にはいくつかの郭があり、その郭はさらに2~3の高さの異なる区画から構成されていたりするので探索していて変化があって楽しい。最初の堀切の右側の郭の奥には高さ2~3mの、左側の郭の奥には3~4m以上ありそうな土塁が残っており土塁ファン大歓喜。
正直それなりに薮化しているのであまり写真映えしませんし万人にもオススメできませんが、素敵すぎる遺構に出会えますから薮なんかヘーキって方にはぜひ生で見てもらいたいです。実物は写真で見るより薮度は高いですけど百戦錬磨のメグラーさんなら無問題。物理的に行くのを躊躇われるところもあったので自分は全てのエリアを散策できたわけではありませんが、それでも広大な薮の中を1時間歩き回りました。西林院の辺りも城域ですし、城域全てを見ようとすると2時間以上かかっちゃうかもしれません。
ちなみに、1974~1978年に撮影されたという航空写真(ネットですぐ見られます)を見ると、郭がほぼ全てそのまま残っているのがわかります。つまり櫛間城は比較的最近になって破壊されているわけで、保存・整備されていればなぁと残念ではありますが仕方ないですね。残ってる部分だけでも十分堪能できますよ。