松山塁
松山塁([高城 周辺城郭])
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松山塁の口コミ情報
2025年09月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
宮崎県児湯郡の川南町にある【松山塁】♪耳川の戦いは大友氏VS島津氏の戦いとして、余りにも有名で、九州において非常に重要な戦いです。この戦いの際に大友軍は、木城方面を押さえる為に、この松山塁に布陣。この耳川の戦いは、天正6年(1578年)島津氏と大友氏の間で行われています。当時、九州は三強時代に突入しており、豊後大友氏、薩摩島津氏、肥前龍造寺氏となっていました。この戦いは九州の覇権を巡る争いの転機となり、島津氏の躍進と大友氏の衰退を決定付けた、重要な戦いであります。木崎原の戦いで、伊東氏に勝利した島津氏。しかし依然、日向国に置ける支配権は伊東氏のままでした。そこでいよいよ、島津氏は日向へ侵攻を開始します。島津領国の大半の領主を率いて進軍した事で、見る見る内に伊東氏の諸城は降伏していきました。伊東氏を圧迫する環境はやがて、九州三強の一角である、大友宗麟に助けを漕ぐこととなります。薩隅日と三州を統一した島津氏と、押し込まれた伊東氏です。これにより、九州三強の二強が激突していくのでありました。大友宗麟は伊東義祐の救援要請を大義名分とし、島津討伐という目的の為。また当時、キリスト教にお熱だった宗麟は、南蛮貿易港である飫肥の油津、外之浦を島津氏から取り返す為にも、本格的に日向侵攻を開始します。両者は高城を、そして切原川や小丸川を境目として、激しく衝突しました。天正6年(1578年)小丸川沿いにある石城で、伊東氏旧臣が決起したのを受け、大友軍は南下し、島津家臣・山田有信が守備する高城を包囲しています。島津義久はコレにより出陣し、佐土原城に入城し、対する大友軍5万の兵は、松山塁を始めとする5つの陣を構築し、高城を攻め立てました。この時に築かれた大友方陣城の1城なのであります。小丸川流域に出陣した島津氏は、大友方の5つの陣城を攻略する為に、敵を誘き出す為の小隊を出撃させ、松山塁にいる大友方の兵を誘い出しては、包囲し、殲滅させ、松山塁を焼き払いました。島津氏のお家芸である、釣り野伏です。川原陣にいる大友軍は、降伏を申し入れています。ただ、全体的に降伏をしたという訳ではなかった様です。一時休戦した、翌日…大友方の田北鎮周は独断で小丸川を渡り、島津勢に襲い掛かかっています。不意を衝かれた島津勢は、一時的に怯むものの、島津義弘らはこれを迎撃。それを機に他の島津勢も大友方の軍勢、陣城に一気に逆襲し、大友方は総崩れとなり、耳川方面へ退却する事となっています。この戦いにより、田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鎮伸など3000騎が撃たれたと伝わります。島津勢は退却する大友方を耳川まで追い、日向国を完全に制圧する事になりました。この頃、縣の務志賀にいた大友宗麟は、豊後に撤退しています。高城・耳川の合戦は、島津方の圧勝という結果となっています。
さて、松山塁ですが、大友軍の陣城として機能した陣ではありますが、陣にしては余りにも技巧的で、土木量も素晴らしく、完全に城といった性格に感じます。大友軍が陣を張る以前に、何か城郭があったのでは無いか?と疑ってしまう位に、城です。島津軍の家臣・山田有信が籠る高城の東、約500M、切原川を挟んだ丘陵上に位置し、土塁と横堀で囲まれた郭のピークを主郭とします。主郭の北側には、削り残した大土塁を配置して、台地続く北側を防御しています。北面それぞれの郭の高さは、台地とさほど変わらない為に、群郭式の城郭にも見えなく無いと云う点が、在地の城郭をそのままに、陣を引いた様に見えた訳です。横堀は10m近くあり、場所によっては、二重に、三重になる箇所もあります。主に台地の続く北面に、防御遺構を残し、寄手を牽制しています。また、台地の北側1番外の堀は、堀の中に堀を入れていて(横堀と更に浅い堀で構成)コレは、二重掘と云うよりは、排水要素を持たせた掘り込みであると思われます。現に水が落ちやすい様に、河原石を敷き詰めている箇所も見受けられます。
高城側の南面は急斜面となり、郭や動線?の様に造り込みます。ほぼ自然の地形を利用したのが、南側です。当時の、切原川の川の流れはもっと松山塁の下を流れていたので、天然の濠となっていました。より堅固な城は当時の地形から読み取る事が出来ました。
また、石組みの個所、石垣の個所もあり、特に石垣の個所は穴太積みになっています。コレは、後の対島津戦(根白坂の戦い)の際に陣を張った豊臣軍(秀長)の手が入ったのでしょう。また、台地北側にあり、国指定である宗麟原供養塔。耳川の戦いの戦没者を敵味方関係なく供養する為に、建立されました。この六地蔵塔は、島津氏が建立したと伝わります。供養塔は、清武産の凝灰岩が使われています。明治の廃仏毀釈の際には破却され、供養塔の東にある地蔵谷に捨てられていました。現在は、地域の方々の手によって手厚く守られています。
2024年12月20日 昌幸近江守更に吉
切原川に突き出た舌状台地の先端に築かれた松山塁。直線距離で600メートル西にある島津軍の高城攻撃の拠点として二度使われました。
一度目は天正6年(1578)耳川の戦い(高城川合戦)で佐伯惟教(宗天)率いる大友軍本隊が駐屯しました。そしてここに日本初の大砲「国崩し」を据え付けました。実際は射程距離の関係で届かなかったらしいです。
二度目は天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐で、弟の秀長が最前線として利用しました。
縄張りは3つの郭を深い堀または二重堀で区切った城で、陣城の域を越えた大がかりなものとなっています。郭2はスロープなど削平されているところがあり後世に改変されている可能性があります。
そして激ヤブ城ということもお伝えさせていただきます。三つ目の郭は行けませんでした。島津軍の最前線である高城があれだけ整備されているのに、かたや大友軍の最前線がこれとは…と悲しくなってきます。
車は宗麟原供養塔(リア攻めマップ参照)に停め、そこから南に徒歩5分です。造園の敷地を通り、目の前のヤブに意を決して突入してください。
【写真の説明】
①突入して現れた郭2の堀。郭2を抜けるまではこんな状態でヤブ漕ぎ必須。
②郭1-郭2間の堀
③郭1まわりの複雑な堀。写真左奥が郭3だが行けず。
④郭1まわりの堀の合流地点
⑤郭1隅部
⑥郭1土塁
⑦郭1内の凹部。虎口か?
⑧遠景









