根白坂砦
根白坂砦([高城 周辺城郭])
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根白坂砦の口コミ情報
2025年09月15日 龍馬備中守【】
宮崎県木城町の椎木にある【根白坂砦】♪別名を目白坂砦とも呼びます。根白坂の戦いは、豊臣秀吉による天下統一の為の九州平定戦における、局地戦となります。根白坂砦は、茶臼原台地の北側中央端付近の椎木にあり、豊臣秀吉軍の宮部継潤が築いています。現在周りは長閑な畑が広がります。この場所は、西都と木城を繋ぐ間道があり、椎木坂と呼ばれるピーク付近を城塞化しています。とは言っても、簡易的な土塁と土木を行って、この場所で戦闘する為に築いた砦なのです。小字名に陣ノ内とあり、如何にも戦をイメージさせる地名が残ります。
天正6年(1578年)耳川の戦いによって、豊後国・大友宗麟は薩摩国・島津氏との戦いに敗れ、北部九州における求心力を失いました。当時の九州は三強の時代であり、豊後国・大友宗麟、薩摩国・島津4兄弟に、肥前国・龍造寺隆信が争っていました。
耳川の戦いにより大友氏は没落するのですが、この耳川の戦いと、秀吉による九州平定の間に、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍により、撃破されています。島津氏はいよいよ、九州制覇を目前としていました。
が、大友宗麟は、中央政権である豊臣秀吉に助けを求め、秀吉は九州平定に乗り出すのでありました。
築城は天正15年(1587年)豊臣軍の宮部継潤によって、築かれました。根白坂砦の左右の高台にも陣を構えた様で、それぞれに計一万五千程の兵を配備し、島津軍との戦いに備えたと云われます。
天正14年(1586年)立花山城で島津軍の包囲に対し徹底抗戦した立花宗茂は、豊臣軍の救援を待ち、何とか籠城戦を生き抜いています。
その後、豊臣軍の援軍が来ると言う報を受けた島津氏は、九州制覇を目前に退却すると、退却戦の最中に次々と、九州の大名や国衆が、豊臣軍に準じていきました。筑前の平定、肥後の平定、豊前の平定と、島津方の城郭は次々に豊臣軍の旗の下に集結していくのです。大友宗麟の援軍として九州へ攻め入った豊臣秀吉軍は、肥後方面と日向方面の二手に分かれ、島津氏の薩摩を目指して侵攻しました。日向方面は秀吉の弟・豊臣秀長を総大将として南下し、豊前、豊後を経て日向入りしています。豊臣軍の豊臣秀長は、川南町で陣を敷きました(松山塁)。耳川の戦いも含めて、この場所がいかに島津方にとって大事な境目だったかが、よく分かりますね。島津軍は、高城城主である山田新介有信の奮闘により、高城は落城せずに、持ち堪えます。九州三強の一角である大友氏を破り、局地では戦闘(戸次川の戦いなどなど)しては退却するなど、粘りを見せる島津軍です。その後の高城ですが、引き続き松山塁に布陣した豊臣秀長軍により、鉄砲や矢による攻勢を受けたり、苦戦を強いられるも、堅固に守っている状況が続いています。この高城が陥落すると、島津氏は九州制覇の野望を断たれ、まさに瀬戸際に立たされる状況となる為、島津義弘、義久により、本領薩摩から二万人の精鋭を引きつれてこの根白坂を夜襲しました。宮部継潤は、あらかじめ部下に命じ、多数の人夫を使い、深さ二間(約3.6m)幅三間(約5.4m)程に堀を広げ、その堀の際に土塁を盛って、二間程の木や竹の柱を立て柵を作り、その中に鉄砲隊を組織し、厳重な体制で戦いに望んでいます。島津軍はこの柵を倒すべく抵抗を試みましたが、苦戦を強いられ、遂に柵を突破できず、約300人程の犠牲者を出し、残りの兵を率いて退却せざるを得ませんでした。
この戦いで島津氏は大打撃を被ったにも関わらず、高城は陥落せずに抵抗を続けていましたが、豊臣秀吉に屈服した島津義久の説得により、城主の山田新介有信は開城し、九州内における天下分け目の戦いはようやく終結します。その後、まもなく、関東北条氏を征伐した事で、秀吉は天下統一を成し遂げる事になりました。
椎木坂のピークは、街道に合わせて、武者隠し状の土塁を配置。削平地と仕切り土塁かな?ハッキリ確認出来ます。椎木坂は、堀底道を形成しながら、折れを持ちながら残っています。周囲には削平は甘いが、郭の様な部分も幾つか見る事が出来ました。