養宜館(やぎやかた)

養宜館の基本情報

通称・別名

大土居城、大土居、御土居

所在地

兵庫県南あわじ市八木養宜中

旧国名

淡路国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

細川師氏

築城年

興国元年〔南朝〕/暦応3年〔北朝〕(1340)

主な改修者

不明

主な城主

細川氏

廃城年

永正16年(1519)

遺構

土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(養宜館跡)

再建造物

石碑

周辺の城

叶堂城(兵庫県南あわじ市)[5.9km]
洲本城(兵庫県洲本市)[10.6km]
柳澤城(兵庫県淡路市)[16.5km]
池ノ前台場(和歌山県和歌山市)[19.1km]
土佐泊城(徳島県鳴門市)[20.4km]
撫養城(徳島県鳴門市)[21.5km]
木津城(徳島県鳴門市)[25.0km]
鈴江城(徳島県徳島市)[30.5km]
木本城(和歌山県和歌山市)[30.8km]
勝瑞城(徳島県板野郡)[31.6km]

養宜館の解説文



養宜館(やぎやかた または やぎのやかた)は、兵庫県南あわじ市八木養宜中にあった居館、日本の城(平城)。

概要 

淡路国守護の居館があったとされている養宜館跡は、現在の八木養宜中に所在している。館は南北に250m、東西に120mの規模で[1]四周に土塁と堀を巡らした長方形の構えをしていたと推定される。近畿地方では同規模の居館跡が少ないが、その中でも比較的遺構が残っている重要な遺跡である。この一帯は三原平野の東端にあたり、東、北、南の三方は山地、丘陵に囲まれ、西方向だけが三原平野に向けて開けている。西方には成相川が、北方には養宜川が外堀状に流れ、河岸段丘上に位置している。居館跡は三原平野の標高40m、比高0mの高所に位置し、現在の館跡の内部は水田、墓地、宅地化し、南西部の土塁は明治時代以後に破壊され、第二次世界大戦後残存土塁も分断、開墾され、昭和後半でも土塁の切り崩し、堀の埋め立てなどの破壊が続いた。1971年(昭和46年)4月1日兵庫県指定史跡に指定されている。

沿革 

鎌倉時代以来、淡路国守護の居館の所在地がはっきりとはしていないが、養宜館が守護の居館であったということが淡路の郷土史誌の通説となっている[2]。ただ、古館地を後世まで存営したのか、旧館を改造して新館を築いたのか、また旧館を破壊してまったく新しい館が造営されたのか、明確な史料はない。

1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)足利尊氏が京で敗れ、九州に敗走する時に細川氏を四国に派遣した。細川和氏は期待に応え、地盤を固め戦功によって阿波国、淡路国の守護となった。その後の1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)足利尊氏は細川師氏に淡路国の平定を命じた。細川師氏は現在の南あわじ市賀集周辺で南朝連合軍を破り、養宜館に入城し守護の座についた。細川師氏の後には細川氏春が守護となった。1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)挙兵した南朝軍と円鏡寺原で戦いとなったが、1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)細川氏春は南朝軍に降伏し、京、和泉国、四国で戦っている。その後細川氏春も降伏して再び北朝方となった。1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)和泉国にわたり土丸城攻めにも参戦している。細川氏春の後は細川満春が淡路国の守護を継いだ。1391年(南朝:元中8年、北朝:明徳2年)京で反乱をおこした山名氏軍と戦闘の上、勝利し幕府方を勝利に導いた。1399年(応永6年)応永の乱がおこり、堺城に籠る大内義弘を海上より攻め込み討ち取った。細川満春が没後は細川満俊、細川持親、細川成春と継いでいく。

細川成春は弓術に秀でていたらしく犬追物を許可されていた。養宜館の西方と南方に「犬の馬場」「射の馬場」と呼ばれる小字地があると言われ、犬追物を催したと伝わっている。1467年(応仁元年)応仁の乱がおこり、管領細川勝元に与し活躍するが、京にあった細川成春の居館が焼かれてしまった。乱後、細川成春は淡路国にあった観音霊場に戦死者の霊を弔うため歴拝したと言われている。

細川成春の後、細川尚春が淡路国守護となり、永正の錯乱以降細川氏の抗争に巻き込まれることになる。細川尚春は当初細川澄元に与し、1511年(永正8年)芦屋河原の合戦で鷹尾城を攻め落したが、船岡山合戦で細川澄元軍が敗れると、今度は細川高国方に与したようである。このためか1517年(永正14年)三好之長が養宜館に攻め込んできた。細川尚春はこの戦に敗れ和泉国に逃れた。細川尚春は間もなく帰国できたようだが、1519年(永正16年)5月阿波国の高津で三好之長よりついに殺された。養宜館はこの時に廃城となったものと考えられている。その三好之長も翌1520年(永正17年)細川高国との合戦で敗れ、細川尚春の子細川彦四郎が、処刑を要請し仇を討ったと言われている。細川彦四郎は淡路国守護となったようであるが、本国に帰国する事は無かった。

なお、1979年(昭和54年)兵庫県教育委員会により、トレンチ調査が実施されたが細川氏以前の土器が出土しており、養宜館の築城年に対しては検討の余地が残されている。

城郭 

養宜館の存在期間は南北朝時代-戦国時代ということになっており、中世城館としては後期に属するが、現存している遺構から手が加えられないとすると、養宜館は中世初期の平地単濠単郭方形館をそのまま使用されていることになる。しかし、ここが細川氏代々の守護館とすると、長方形の平地単濠単郭方形館だけではなかったと思われている。土塁上には櫓台らしきものが描かれた絵図もあり、曲輪内の各所にも改良が加えられ、それでも防備が不十分の面は他の場所と連携をはかり、戦国時代に適応した配備がなされたものと考えられている。

館内にある水田間にはいくつかの段差が確認でき、これに伴いいくつかに区分、分割されていた可能性が高い[3]。ただ、現在の公民館周辺から北側、50m×100mほどの広がりがありこちらには段差がない。北側には祠が祀られていたことなどにより、この区域に居館の中心地があった可能性が指摘されている。土塁は東辺が完存し、北辺の大半、西辺北隅の一部が残されている。土塁の規模は高さ3m、基底辺幅は7-8m、上端部は1-1.5mになる。ただ、基底辺幅は両側から切り崩しがあるため、旧状は少し広いものと考えられている。堀に関しては1977年(昭和52年)まで東堀が完存し、高さ2m以上、幅7-8mという規模であったが、農道建設に伴い破壊されてしまった。その他には、城内には井戸、南側には竜神が祭られている湧水があり、養宜館周辺は豊富に水が湧くことが知られている。

現在養宜館の遺構としては土塁だけである。しかし、北側には「武田土居」、「中野土居」、「弥五郎土居」等、西側には「奥野土居」、「喜兵衛土居」、「上野土居」等の小字名が集まっており、養宜館を中心に500mの範囲に点在しており屋敷町の構成を想像できる。侍屋敷や町家も取り入れた惣構えが完成されていたと推察されている。

江戸時代に書かれた史料によると、「中八木館構にて堅固ならず故に事有ん時柿の木谷、上田の両峯に物見狼煙を置守護職は成相に本陣を構へんとの企也」(『味地草』)とあり、養宜館は防備面で不備があり、館構え不完全さを補うために詰めの丸があったと記されており、馬廻りの地や他の城郭を紹介している。養宜館の南側には三つの山が壁を作っており、成相川の右岸東側には前山城が、その奥、川を挟むように西側に上田城が、東側に柿の木谷城がある。上田城は山頂部に数段の曲輪台があり、北方からの侵入に備えていた。柿の木谷城は、山頂東端部に主郭があり、西方向に曲輪が連続している。これら山城を養宜館の別峰城郭群として位置付けるならば、大規模な城郭配備であったと考えられている。

居館内部は、江戸時代には阿波藩の直轄地となり立ち入りが禁じられ良好に景観が保存されていたが、近代になると民地となり開発があり破壊が進んでしまった。

城跡へのアクセス 

  • 車でのアクセス
    • 神戸淡路鳴門自動車道 西淡三原IC → 兵庫県道31号 → 兵庫県道477号 → 兵庫県道478号 → 兵庫県道126号
    • 公民館前に無料駐車場有り

参考文献 

  • 朽木史郎・橘川真一編著『ひょうごの城紀行』下、神戸新聞総合出版センター、1998年12月、248-258頁。
  • 素川恒男編著『みはらの文化』三原町教育委員会、1992年3月、20-21頁。
  • 都道府県教育委員会『都道府県別日本の中世城館調査報告書集成』4兵庫・和歌山、東洋書林、2003年4月、372-373頁。
  • 村田修三編著『図説中世城郭事典』第二巻 近畿2・中国・四国・九州、新人物往来社、2004年12月、60頁。
  • 高田徹編著『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、272-273頁。
  • 菊川兼男「養宜館」『兵庫県の歴史』第23号、兵庫県史編集専門委員会、兵庫県、1987年3月、82-83頁。
  • 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、422-425頁。
  • 今谷明『戦国三好一族』洋泉社、2007年4月、61頁。
  • 南あわじ市役所生涯学習文化振興課「県指定文化財(http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/05a3a8fd4970c1312d8b3ddce0abe13b/)」南あわじ市役所生涯学習文化振興課。

養宜館の口コミ情報

2023年07月23日 織田上総介晃司
養宜館

平成病院の北側にあります。駐車場はありません。公民館の隅っこあたりに邪魔にならないよう停車。

田畑の東と北に土塁があるのみ。

2023年03月13日 生駒和泉守江現蔵
中の子城[養宜館  周辺城郭]



中の子城は、淡路島の南あわじ市にある、標高292mの中の子山の頂上にあります。淡路十人衆に数えられる島田市の詰城で、戦に備えた戦国期の砦を持つ城郭です。平時の居館は北側の栗原城になります。

3月の暖かな城攻め日和の午前中、阿波と土佐の城友さんと訪城。阿波の城友さんは何度か取り口場所を下見してくれていて、満を持しての登城となりました。

周囲の山に囲まれた一番奥の円錐型の山で、情報も少なく、1人で行くには不安ですが、皆んなで行くと怖くない!地元の人に「中の子山に行くの?誰も行かないよ。」と言われても、頼りになる城友さんが一緒なので、へっちゃらです。

最初は砂防ダムの横から直登ですが、城友さんがロープを出してくれたので、直登もラクラク。
曲輪、堀切、テニスコートぐらいの広い主郭があり、眺望も抜群、思っていた以上に遺構が残っていて感動でした。

帰りも城友さんのロープが出てきて直登もラクに降りれました。何事も準備が大切。2時間半の楽しい山歩きでした。

2023年01月25日 RED副将軍三遠オフ初参戦
養宜館



7代に渡り約80年間淡路国を支配した細川氏の居館跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1340年、細川師氏により築城。
細川師氏は、足利尊氏に淡路平定を命じられ、立川瀬の戦いで南朝方の宇原兵衛を破り、養宜館に入り守護大名となったとされます。
その後も細川氏は南朝方と戦いながら約80年間7代にわたり守護として淡路を支配しました。
1519年、7代当主の細川尚春は阿波で三好之長により謀殺。その後、養宜館は廃城となった様です。

見所
東側から北側にかけて高さ約2mの土塁L字型に残っています。
往時は南北200m、東西150mの土塁囲みで外側に水濠も巡っていた様です。

2021年01月13日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



「千本塔婆綱異祭」の発端となった
庄田城主 船越定氏の伝説

淡路国三原郡倭文荘庄田
文明3年(1471)6月20日
領内松帆の笥飯野(慶野)に在る、潜洲ヶ淵(くぐすがふち)と言う池に大蛇が住み着いた。
人民牛馬を襲う大蛇の退治を、領民が願い出る。
仁 孝 武威の名高い定氏は、領民の訴えに応え、
庄田八幡に7日祈祷し、雁又の大矢を授かる。
重藤の弓、二本の矢を携え、八人の配下を従えて池へと向かう。
大音声に池の主を呼び出すと、大蛇は襲い掛かってくる。
顎から頬へと射抜くと、大蛇は怒り狂い、その勢いに定氏の馬が暴れだす。
仕方なく逃げ帰るが、道中配下の一人が櫟田(いちだ)の一本松で亡くなる。
更に、残りの配下も明神池近くで力尽きる。
やっと屋敷にたどり着き、門を閉ざし振り返ると、今にも門を乗り越えようとする大蛇が居る。
もう一本の矢で喉を射抜くと、とうとう大蛇も力尽きる。
しかし、大蛇の吐いた毒気にあたり定氏も数日後には亡くなってしまう。
いくつかの話が伝わっているが、おおよそこんな話です。

写真は
定氏が祈ったと言う【倭文八幡神社由緒】
(庄田八幡神社)
1人目が亡くなった【一本松明神之由来】
・この上に小さな祠が在る。
配下が皆亡くなった【七之明神御由緒】
・明神池のほとり
今も続く祭り【千本塔婆綱異祭】
・「味地草」「淡路国名所図絵」他、色んな書物に紹介される、大蛇供養、豊作祈願の祭
・毎年1月11日に行われる。


2021年01月12日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



庄田城主 船越定氏には伝説が有ります。
文明3年6月20日。領民の訴えに応え、大蛇を退治します。
しかし、大蛇の祟りか、不作が続くようになります。
大蛇を供養しようということになり、それから毎年1月11日に「千本塔婆綱異祭」が行われています。

倭文小学校の児童達が参加し、藁で作った蛇を担いで練り歩き、千本地蔵に塔婆を収め、最後は元庄屋の家へ、そして、庄屋宅前のムクの木にその年の恵方へ向けて巻き付けます。

元は少々荒っぽい奇祭であったようですが、
今では、小さな小学生が頑張っている、ほのぼのとして、可愛らしい、ちょっと変わった祭です。

2020年12月30日 歩律淡路守彦蔵馬楠
細川忠若丸供養碑[養宜館  碑・説明板]



淡路国守護細川氏の七代目細川尚春の孫
細川忠若丸(と乳母)の供養碑
乳母の供養碑(木製)は墨の文字が読める
その上段奥(石製)は文字等確認できない

1521年、三好勢に養宜館を追われ、鮎屋の滝まで逃げてくるが、「鮎屋五之瀬の戦い」に於いて、討たれる。(この周辺の田畑の灌漑用に、滝の上流に取水のための堰が一之瀬から五之瀬まで在った)

2020年12月30日 歩律淡路守彦蔵馬楠
養宜館



江戸時代には阿波藩直轄地として立入を禁止され、よく保存されていたそうですが、現在、残存遺構としては、土塁が東と北に残っているのみです。西と南は田畑になっています。

堀跡は、四方とも全て道路になっています。しかし、自動車、特にバス等が隣を走っていると、その土塁の幅、高さをよく実感出来るでしょう。

2020年12月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



藤原氏の出、船越氏の館、庄田城。
文和元年・正平7年(1352)船越定春築城。鎌倉から戦国まで淡路国三原郡倭文荘庄田に館を構え、周辺を治めた。室町時代には城主船越景直は、淡路国守護細川氏の下に、細川氏が三好氏に滅ぼされると三好氏に、更に織田信長、羽柴秀吉に仕える。景直の父 景綸は【淡路国十人衆】の一人。

城跡は、石碑が建てられているのみ。畑のなかにあり、サイロで隠れて見つけにくいかもしれない。ただ、東の安住寺川には「御土居橋」「中道橋」「追手橋」等の名前が残っている。

地図(航空写真)には堀の跡も割りと分かりやすい。安住寺から慶野までかなり広域を支配下にしていた。城主の大蛇退治の伝承やその碑や祭りが残っている。

2020年06月11日 西市正紫雲
柿ノ木谷城[養宜館  周辺城郭]



むしろこっちの方が楽しいかも③

上月城①来島城②ときまして、今日は養宜館です。基本的に、私の居城から日帰りの距離となっております。
遠い所よりお越しになられた方々には、参考にしていただければ、と思いますが、
養宜城詰めの「柿ノ木谷城」は
山中目七難科八苦属の方専用城です。そんな平の土塁の草なんか喰ってられるかっ、俺は山中を駆け抜ける鹿だぜ、という方、根性みせてくださいね!
さて柿ノ木谷城は、守護細川氏の養宜館の詰めの城として、南東約3km標高291mの山上にあります。名前は谷なんですけどね…。そんなに険しい山ではないのですが、どうも登山道が無いっぽい。

自力でルート開拓しないと気がすまない冒険者の方は、読み飛ばして下さい。
達成感が違いますからね!
あ、そんな人は口コミ読まないか。

私の場合、どうしたもんかと、ぐるぐるしてたら、偶然北西の小さな四角形の溜め池付近に「淡路安国寺跡」を見つけました。
後で知ったのですが、守護細川師氏が居宅を改めて安国寺としたそうで、阿波補陀寺(土成町)の住寺であった大道一以を招いて開山したそうです。養宜館の詰め城という性格から、守護の居宅跡を登城ルートにするのはごく自然っぽいので、ここから山上を目指すのは正解でしょう、たぶん、きっと。
とりつくポイントが決まれば、あとはどうにか登るだけ。廃山道があったりなかったりですが、うまくいけばヤブヤブシダシダを少なく回避できます。まぁ、運です。ルート覚えてません。
途中、見晴らしのいい場所もあり、養宜館方面を一望できます。
山上には、淡路国最大クラスの遺構があり、帯曲輪からの切岸、土塁、
主郭は高く、段曲輪も広い。
守護の詰め城を三好氏が大改修しているみたいですね。
三好氏らしく、切岸中心で虎口はちょっとひねり。
竪堀、堀切は、ほとんど無しです。
さすが三好!どこからでもかかってこいよ!という三好の風を感じながら、
ぜひ山中をしかと駆けめぐってくださいね~。






2016年05月31日 まるき〜出雲守
養宜館

ぶっちゃけあまり期待して行くような所ではないかもしれません
現地に行くと あ〜なるほど…
「土塁に囲まれてるね」
と思える空間…ただそれだけの事で
普通にどこにでもある田畑の真ん中?というイメージの場所でした!
土塁内部は集落、畑 、石碑、説明書き、社、お墓?集会所があり車通りが少ないのでそこに一時的に停車できそうです。

個人的な感想として…
歴史を知らないが故ココの重要性がわからないだけかもしれない
何だかひっそりとしていて早くこの場から立ち去りたい気分になる場所でした。

場所的にはイングランドの丘の西側辺りになります、道路上に案内の標識あり

探索時間 約10分(笑
ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

2014年10月04日 能登守あるて
養宜館

写真は東側の土塁です。
北側の土塁は養宜川沿いに残存していますが、遺構はホントに土塁だけです。
集会所近くは曲輪のおもかはありますが、淡路島であれば素直に洲本城に行くのが吉ですね^^;

養宜館の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 細川忠若丸供養碑(碑・説明板)

 柿ノ木谷城(周辺城郭)

 庄田城(周辺城郭)

 勝間城(周辺城郭)

 中の子城(周辺城郭)

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