養宜館(やぎやかた)

養宜館の基本情報

通称・別名

大土居城、大土居、御土居

所在地

兵庫県南あわじ市八木養宜中

旧国名

淡路国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

細川師氏

築城年

興国元年〔南朝〕/暦応3年〔北朝〕(1340)

主な改修者

不明

主な城主

細川氏

廃城年

永正16年(1519)

遺構

土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(養宜館跡)

再建造物

石碑

周辺の城

白巣城(兵庫県洲本市)[8.8km]
洲本城(兵庫県洲本市)[10.6km]
郡家城(兵庫県淡路市)[18.0km]
池ノ前台場(和歌山県和歌山市)[19.1km]
土佐泊城(徳島県鳴門市)[20.4km]
撫養城(徳島県鳴門市)[21.5km]
木津城(徳島県鳴門市)[25.0km]
鈴江城(徳島県徳島市)[30.5km]
木本城(和歌山県和歌山市)[30.8km]
勝瑞城(徳島県板野郡)[31.6km]

養宜館の解説文



養宜館(やぎやかた または やぎのやかた)は、兵庫県南あわじ市八木養宜中にあった居館、日本の城(平城)。

概要 

淡路国守護の居館があったとされている養宜館跡は、現在の八木養宜中に所在している。館は南北に250m、東西に120mの規模で[1]四周に土塁と堀を巡らした長方形の構えをしていたと推定される。近畿地方では同規模の居館跡が少ないが、その中でも比較的遺構が残っている重要な遺跡である。この一帯は三原平野の東端にあたり、東、北、南の三方は山地、丘陵に囲まれ、西方向だけが三原平野に向けて開けている。西方には成相川が、北方には養宜川が外堀状に流れ、河岸段丘上に位置している。居館跡は三原平野の標高40m、比高0mの高所に位置し、現在の館跡の内部は水田、墓地、宅地化し、南西部の土塁は明治時代以後に破壊され、第二次世界大戦後残存土塁も分断、開墾され、昭和後半でも土塁の切り崩し、堀の埋め立てなどの破壊が続いた。1971年(昭和46年)4月1日兵庫県指定史跡に指定されている。

沿革 

鎌倉時代以来、淡路国守護の居館の所在地がはっきりとはしていないが、養宜館が守護の居館であったということが淡路の郷土史誌の通説となっている[2]。ただ、古館地を後世まで存営したのか、旧館を改造して新館を築いたのか、また旧館を破壊してまったく新しい館が造営されたのか、明確な史料はない。

1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)足利尊氏が京で敗れ、九州に敗走する時に細川氏を四国に派遣した。細川和氏は期待に応え、地盤を固め戦功によって阿波国、淡路国の守護となった。その後の1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)足利尊氏は細川師氏に淡路国の平定を命じた。細川師氏は現在の南あわじ市賀集周辺で南朝連合軍を破り、養宜館に入城し守護の座についた。細川師氏の後には細川氏春が守護となった。1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)挙兵した南朝軍と円鏡寺原で戦いとなったが、1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)細川氏春は南朝軍に降伏し、京、和泉国、四国で戦っている。その後細川氏春も降伏して再び北朝方となった。1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)和泉国にわたり土丸城攻めにも参戦している。細川氏春の後は細川満春が淡路国の守護を継いだ。1391年(南朝:元中8年、北朝:明徳2年)京で反乱をおこした山名氏軍と戦闘の上、勝利し幕府方を勝利に導いた。1399年(応永6年)応永の乱がおこり、堺城に籠る大内義弘を海上より攻め込み討ち取った。細川満春が没後は細川満俊、細川持親、細川成春と継いでいく。

細川成春は弓術に秀でていたらしく犬追物を許可されていた。養宜館の西方と南方に「犬の馬場」「射の馬場」と呼ばれる小字地があると言われ、犬追物を催したと伝わっている。1467年(応仁元年)応仁の乱がおこり、管領細川勝元に与し活躍するが、京にあった細川成春の居館が焼かれてしまった。乱後、細川成春は淡路国にあった観音霊場に戦死者の霊を弔うため歴拝したと言われている。

細川成春の後、細川尚春が淡路国守護となり、永正の錯乱以降細川氏の抗争に巻き込まれることになる。細川尚春は当初細川澄元に与し、1511年(永正8年)芦屋河原の合戦で鷹尾城を攻め落したが、船岡山合戦で細川澄元軍が敗れると、今度は細川高国方に与したようである。このためか1517年(永正14年)三好之長が養宜館に攻め込んできた。細川尚春はこの戦に敗れ和泉国に逃れた。細川尚春は間もなく帰国できたようだが、1519年(永正16年)5月阿波国の高津で三好之長よりついに殺された。養宜館はこの時に廃城となったものと考えられている。その三好之長も翌1520年(永正17年)細川高国との合戦で敗れ、細川尚春の子細川彦四郎が、処刑を要請し仇を討ったと言われている。細川彦四郎は淡路国守護となったようであるが、本国に帰国する事は無かった。

なお、1979年(昭和54年)兵庫県教育委員会により、トレンチ調査が実施されたが細川氏以前の土器が出土しており、養宜館の築城年に対しては検討の余地が残されている。

城郭 

養宜館の存在期間は南北朝時代-戦国時代ということになっており、中世城館としては後期に属するが、現存している遺構から手が加えられないとすると、養宜館は中世初期の平地単濠単郭方形館をそのまま使用されていることになる。しかし、ここが細川氏代々の守護館とすると、長方形の平地単濠単郭方形館だけではなかったと思われている。土塁上には櫓台らしきものが描かれた絵図もあり、曲輪内の各所にも改良が加えられ、それでも防備が不十分の面は他の場所と連携をはかり、戦国時代に適応した配備がなされたものと考えられている。

館内にある水田間にはいくつかの段差が確認でき、これに伴いいくつかに区分、分割されていた可能性が高い[3]。ただ、現在の公民館周辺から北側、50m×100mほどの広がりがありこちらには段差がない。北側には祠が祀られていたことなどにより、この区域に居館の中心地があった可能性が指摘されている。土塁は東辺が完存し、北辺の大半、西辺北隅の一部が残されている。土塁の規模は高さ3m、基底辺幅は7-8m、上端部は1-1.5mになる。ただ、基底辺幅は両側から切り崩しがあるため、旧状は少し広いものと考えられている。堀に関しては1977年(昭和52年)まで東堀が完存し、高さ2m以上、幅7-8mという規模であったが、農道建設に伴い破壊されてしまった。その他には、城内には井戸、南側には竜神が祭られている湧水があり、養宜館周辺は豊富に水が湧くことが知られている。

現在養宜館の遺構としては土塁だけである。しかし、北側には「武田土居」、「中野土居」、「弥五郎土居」等、西側には「奥野土居」、「喜兵衛土居」、「上野土居」等の小字名が集まっており、養宜館を中心に500mの範囲に点在しており屋敷町の構成を想像できる。侍屋敷や町家も取り入れた惣構えが完成されていたと推察されている。

江戸時代に書かれた史料によると、「中八木館構にて堅固ならず故に事有ん時柿の木谷、上田の両峯に物見狼煙を置守護職は成相に本陣を構へんとの企也」(『味地草』)とあり、養宜館は防備面で不備があり、館構え不完全さを補うために詰めの丸があったと記されており、馬廻りの地や他の城郭を紹介している。養宜館の南側には三つの山が壁を作っており、成相川の右岸東側には前山城が、その奥、川を挟むように西側に上田城が、東側に柿の木谷城がある。上田城は山頂部に数段の曲輪台があり、北方からの侵入に備えていた。柿の木谷城は、山頂東端部に主郭があり、西方向に曲輪が連続している。これら山城を養宜館の別峰城郭群として位置付けるならば、大規模な城郭配備であったと考えられている。

居館内部は、江戸時代には阿波藩の直轄地となり立ち入りが禁じられ良好に景観が保存されていたが、近代になると民地となり開発があり破壊が進んでしまった。

城跡へのアクセス 

  • 車でのアクセス
    • 神戸淡路鳴門自動車道 西淡三原IC → 兵庫県道31号 → 兵庫県道477号 → 兵庫県道478号 → 兵庫県道126号
    • 公民館前に無料駐車場有り

参考文献 

  • 朽木史郎・橘川真一編著『ひょうごの城紀行』下、神戸新聞総合出版センター、1998年12月、248-258頁。
  • 素川恒男編著『みはらの文化』三原町教育委員会、1992年3月、20-21頁。
  • 都道府県教育委員会『都道府県別日本の中世城館調査報告書集成』4兵庫・和歌山、東洋書林、2003年4月、372-373頁。
  • 村田修三編著『図説中世城郭事典』第二巻 近畿2・中国・四国・九州、新人物往来社、2004年12月、60頁。
  • 高田徹編著『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、272-273頁。
  • 菊川兼男「養宜館」『兵庫県の歴史』第23号、兵庫県史編集専門委員会、兵庫県、1987年3月、82-83頁。
  • 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、422-425頁。
  • 今谷明『戦国三好一族』洋泉社、2007年4月、61頁。
  • 南あわじ市役所生涯学習文化振興課「県指定文化財(http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/05a3a8fd4970c1312d8b3ddce0abe13b/)」南あわじ市役所生涯学習文化振興課。

養宜館の口コミ情報

2024年03月02日 ショウちゃん
叶堂城[養宜館  周辺城郭]

1595年に志知城主の加藤嘉明が伊予国に転封になり、豊臣秀吉の直轄領となったため、石川紀伊守が派遣され叶堂城を築城。三原川の河口に築かれ、豊臣水軍の根拠地として機能。1600年の関ヶ原合戦において、石川紀伊守は西軍に与し敗走。叶堂城は廃城。1621年に蜂須賀氏の保護を受けて城跡に感応寺が再建されました。ナビだと表に着きますが、裏側の川沿いに行くと感応寺の駐車場があります🎵⁡

2023年07月23日 織田上総介晃司
叶堂城[養宜館  周辺城郭]

叶堂城跡に建立の松帆山感応寺境内の隅っこに停車。感応寺の移築の際に使用した叶堂城の石垣の一部と穴太衆の石垣が城の名残り。御朱印を集めている方には残念ですが、感応寺では御朱印はしてないとの事です。淡路島は玉ねぎの島。直売所で買うほうが大きくて量もありお得です。

2023年07月23日 織田上総介晃司
養宜館

平成病院の北側にあります。駐車場はありません。公民館の隅っこあたりに邪魔にならないよう停車。

田畑の東と北に土塁があるのみ。

2023年03月13日 生駒讃岐守江現蔵20日九州
中の子城[養宜館  周辺城郭]



中の子城は、淡路島の南あわじ市にある、標高292mの中の子山の頂上にあります。淡路十人衆に数えられる島田市の詰城で、戦に備えた戦国期の砦を持つ城郭です。平時の居館は北側の栗原城になります。

3月の暖かな城攻め日和の午前中、阿波と土佐の城友さんと訪城。阿波の城友さんは何度か取り口場所を下見してくれていて、満を持しての登城となりました。

周囲の山に囲まれた一番奥の円錐型の山で、情報も少なく、1人で行くには不安ですが、皆んなで行くと怖くない!地元の人に「中の子山に行くの?誰も行かないよ。」と言われても、頼りになる城友さんが一緒なので、へっちゃらです。

最初は砂防ダムの横から直登ですが、城友さんがロープを出してくれたので、直登もラクラク。
曲輪、堀切、テニスコートぐらいの広い主郭があり、眺望も抜群、思っていた以上に遺構が残っていて感動でした。

帰りも城友さんのロープが出てきて直登もラクに降りれました。何事も準備が大切。2時間半の楽しい山歩きでした。

2023年01月25日 RED副将軍
養宜館



7代に渡り約80年間淡路国を支配した細川氏の居館跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1340年、細川師氏により築城。
細川師氏は、足利尊氏に淡路平定を命じられ、立川瀬の戦いで南朝方の宇原兵衛を破り、養宜館に入り守護大名となったとされます。
その後も細川氏は南朝方と戦いながら約80年間7代にわたり守護として淡路を支配しました。
1519年、7代当主の細川尚春は阿波で三好之長により謀殺。その後、養宜館は廃城となった様です。

見所
東側から北側にかけて高さ約2mの土塁L字型に残っています。
往時は南北200m、東西150mの土塁囲みで外側に水濠も巡っていた様です。

2022年01月14日 RED副将軍
叶堂城[養宜館  周辺城郭]



豊臣水軍の拠点であった城跡

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1595年に志知城主の加藤嘉明が伊予国に転封になり、豊臣秀吉の直轄領となったため、石川紀伊守が派遣され叶堂城を築城。三原川の河口に築かれ、豊臣水軍の根拠地として機能。1600年の関ヶ原合戦において、石川紀伊守は西軍に与し敗走。叶堂城は廃城。1621年に蜂須賀氏の保護を受けて城跡に感応寺が再建されました。

見所
現在は感応寺の境内となっています。寺社移転の際に南面隅部と西面の石垣の一部を残して改修されたとのことです。

2021年01月13日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



「千本塔婆綱異祭」の発端となった
庄田城主 船越定氏の伝説

淡路国三原郡倭文荘庄田
文明3年(1471)6月20日
領内松帆の笥飯野(慶野)に在る、潜洲ヶ淵(くぐすがふち)と言う池に大蛇が住み着いた。
人民牛馬を襲う大蛇の退治を、領民が願い出る。
仁 孝 武威の名高い定氏は、領民の訴えに応え、
庄田八幡に7日祈祷し、雁又の大矢を授かる。
重藤の弓、二本の矢を携え、八人の配下を従えて池へと向かう。
大音声に池の主を呼び出すと、大蛇は襲い掛かってくる。
顎から頬へと射抜くと、大蛇は怒り狂い、その勢いに定氏の馬が暴れだす。
仕方なく逃げ帰るが、道中配下の一人が櫟田(いちだ)の一本松で亡くなる。
更に、残りの配下も明神池近くで力尽きる。
やっと屋敷にたどり着き、門を閉ざし振り返ると、今にも門を乗り越えようとする大蛇が居る。
もう一本の矢で喉を射抜くと、とうとう大蛇も力尽きる。
しかし、大蛇の吐いた毒気にあたり定氏も数日後には亡くなってしまう。
いくつかの話が伝わっているが、おおよそこんな話です。

写真は
定氏が祈ったと言う【倭文八幡神社由緒】
(庄田八幡神社)
1人目が亡くなった【一本松明神之由来】
・この上に小さな祠が在る。
配下が皆亡くなった【七之明神御由緒】
・明神池のほとり
今も続く祭り【千本塔婆綱異祭】
・「味地草」「淡路国名所図絵」他、色んな書物に紹介される、大蛇供養、豊作祈願の祭
・毎年1月11日に行われる。


2021年01月12日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



庄田城主 船越定氏には伝説が有ります。
文明3年6月20日。領民の訴えに応え、大蛇を退治します。
しかし、大蛇の祟りか、不作が続くようになります。
大蛇を供養しようということになり、それから毎年1月11日に「千本塔婆綱異祭」が行われています。

倭文小学校の児童達が参加し、藁で作った蛇を担いで練り歩き、千本地蔵に塔婆を収め、最後は元庄屋の家へ、そして、庄屋宅前のムクの木にその年の恵方へ向けて巻き付けます。

元は少々荒っぽい奇祭であったようですが、
今では、小さな小学生が頑張っている、ほのぼのとして、可愛らしい、ちょっと変わった祭です。

2020年12月30日 歩律淡路守彦蔵馬楠
細川忠若丸供養碑[養宜館  碑・説明板]



淡路国守護細川氏の七代目細川尚春の孫
細川忠若丸(と乳母)の供養碑
乳母の供養碑(木製)は墨の文字が読める
その上段奥(石製)は文字等確認できない

1521年、三好勢に養宜館を追われ、鮎屋の滝まで逃げてくるが、「鮎屋五之瀬の戦い」に於いて、討たれる。(この周辺の田畑の灌漑用に、滝の上流に取水のための堰が一之瀬から五之瀬まで在った)

2020年12月30日 歩律淡路守彦蔵馬楠
松尾山感応寺[養宜館  寺社・史跡]



叶堂の感応寺(松帆山感応寺)の元のお寺です。再建されて、松尾山感応寺・松帆山感応寺両方在ります。ご本尊が、飛んで炎から逃れたと言う、西の松帆の砂浜が遠望出来ます。

天気が良ければ、環八州見渡せたそうです。南西から時計回りに、阿波国、讃岐国、備前国、播磨国、摂津国、河内国、和泉国、紀伊国。

写真は
【松尾山から西の松帆山を望む】
現 感応寺山 (松尾山感応寺)から西 現 松帆慶野(松帆山感応寺)を正面に撮ってみました。
【松尾山感応寺説明板】

2020年12月30日 歩律淡路守彦蔵馬楠
養宜館



江戸時代には阿波藩直轄地として立入を禁止され、よく保存されていたそうですが、現在、残存遺構としては、土塁が東と北に残っているのみです。西と南は田畑になっています。

堀跡は、四方とも全て道路になっています。しかし、自動車、特にバス等が隣を走っていると、その土塁の幅、高さをよく実感出来るでしょう。

2020年12月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠
庄田城[養宜館  周辺城郭]



藤原氏の出、船越氏の館、庄田城。
文和元年・正平7年(1352)船越定春築城。鎌倉から戦国まで淡路国三原郡倭文荘庄田に館を構え、周辺を治めた。室町時代には城主船越景直は、淡路国守護細川氏の下に、細川氏が三好氏に滅ぼされると三好氏に、更に織田信長、羽柴秀吉に仕える。景直の父 景綸は【淡路国十人衆】の一人。

城跡は、石碑が建てられているのみ。畑のなかにあり、サイロで隠れて見つけにくいかもしれない。ただ、東の安住寺川には「御土居橋」「中道橋」「追手橋」等の名前が残っている。

地図(航空写真)には堀の跡も割りと分かりやすい。安住寺から慶野までかなり広域を支配下にしていた。城主の大蛇退治の伝承やその碑や祭りが残っている。

2020年11月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠
叶堂城跡の碑[養宜館  碑・説明板]



現在、叶堂城跡とされている松帆山感応寺は、昭和59年に移築されたものです。
叶堂城が在ったのは、この碑が在る辺りです。
先の昭和54年9月から10月の台風で、周辺地域が大被害を被った水害の対策として、河川改修により、三原川(と倭文川)及び、大日川の流れを変えるため、川口を広げる、合流の向きを変える工事を行っています。
(川口部は河川名 三原川、大日川どちらの表記もあります。御原橋の欄干には「三原川」とあります。)

感応寺と叶堂城

感応寺から東に約7km 感応寺山(278)山頂に、松尾山感応寺 行基により開山。天平の頃。
室町時代元中五年 全山堂塔伽藍焼失。
運良く(都合良く?)現在の感応寺近くの砂浜に本尊が逃れていたのだとか。(山上から良く見える古津路の海へ飛んで火から逃れた)
松尾山から松帆と名をとり「松帆山感応堂」(叶堂観音)とよぶ。
現在再建された、「松尾山」「松帆山」両方の「感応寺」がある。
一方、秀吉の代官として置かれた二人の内、石川紀伊守。ちょっと評判が悪い。
地震で水軍の城として使えなくなった志知城を廃城。叶堂の松帆山感応寺を北の松原に〈追い出す〉。
感応寺の在った小山を利用し総石垣の三連曲輪の叶堂城を築城。
関ケ原の戦いで、石川氏は西軍に付き、叶堂城は廃城。21年後に、追い出された感応寺は、叶堂城跡に帰って来る。
石川氏は播磨に移る際、感応寺の〈鐘を奪って行った〉ので、仏罰に悩まされたそうな、で、この鐘を〈海に捨てる〉。これが、漁師の網に掛かったとかで、叶堂の感応寺に帰って来たそうだ。

で、この総石垣の感応寺。河川改修でまた追い出される。
川口を狭くしている小山を削り、川幅を約2倍に。
石垣は捨てられる所だったのを、残すことになり規模は小さくなったものの、土を盛り、石を積み、再現されて、今の感応寺となりました。

【叶堂城跡地の碑】
【広くなった三原川河口】
この半分が小高い叶堂城だった
【再現された穴太積み石垣】
この上に、現在の松帆山感応寺 観音堂

2020年11月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠
湊城[養宜館  周辺城郭]



戦国時代中期に築城された居館。淡路の水軍、安宅(あたぎ)氏の城。城主は、安宅八家衆の 安宅次郎。弓の名手であったとか。秀吉の淡路侵攻で廃城となる。

廃城後は、安宅次郎の一族 菊川氏が庄屋として代々住まわれている。

小山の東斜面に在る。上中下三段の曲輪を備え、上(西)の山側にはコの字形の空堀が残っている。(17世紀中頃の絵図には青く色付けされているので、その頃水があったのかもしれない。)各段毎に土塁で囲み、最上段には天尊台、矢倉台がある。

湊城跡の碑、安宅次郎を祀った祠の在る方から見ると、コの字の土塁の両角は台状に高く成っている。

三原川河口、西、北の海を見張って居たのだろうか?
南には、菅(野口)氏の「志知城」が在る。幾度か争ったという話しもある。

2020年11月28日 歩律淡路守彦蔵馬楠
志知城[養宜館  周辺城郭]



本丸の東、外堀と大日川の間に、志知城主野口孫五郎(菅長宗)建立の伊勢神社が在ります。
加藤嘉明が、水軍を率いて出陣の際に、戦勝祈願していきました。
内堀外直ぐに鳥居、真っ直ぐ参道?(馬場)が外堀を貫き、川そばの神社まで繋がっています。
車で神社境内に入るのは、道が細いのでお勧めしません。

野口則守 【淡路国十人衆】の一人
野口弘宗 則守の子
野口長宗 弘宗の子
弘宗若しくは長宗は、養子入りした、三好長慶の末弟冬長であるらしい。



2020年11月19日 歩律淡路守彦蔵馬楠
志知城[養宜館  周辺城郭]



志知城本丸の南、内堀と大日川のあいだに声明寺が在ります。この境内に寺の由来について書かれた石碑があるのですが、ここに少し志知城についても書かれています。

志知城主 菅氏(野口氏)の菩提寺です。

2020年11月18日 歩律淡路守彦蔵馬楠
志知城[養宜館  周辺城郭]



城に駐車場はありません。停めるには、近くのスーパーマルナカ(道挟んで城の北側)が良いかも?城の周辺は細い道が多く誤侵入すると(脱輪等)危険です。マルナカの駐車場脇には、外堀の一部がチョビットだけ残っています。樹木、竹藪鬱蒼としわかり辛いです、曲輪や堀の形は本丸に有る案内図で脳内補完して下さい。宅地や畑になっている部分が多いです。薮蚊も多いです。写真は北側内堀。東側外堀。南側内堀。北側内堀②。
マルナカの更に北、川の蛇行部、三日月湖状の地形と、付近に真っ直ぐの水路在り。船溜りであったようです。

後に、川口の叶堂に城を移します。
川口から約3kmも内陸で、「こんな不便な水軍の城はなくなって当然」「加藤嘉明はなぜ不便な内陸の水城を使い続けたの?」等の声もあります。
土地が低く、満ち潮で川を遡上出来ました。
内陸で十分な土地も確保出来ます。
守るべき領民や田、城下町もありました。
三原平野は流れ寄りで、内海があり船の航行に不便はなかったようです。地震で浅く成るまでは。

志知城に使われていた石垣の石も、叶堂城に使われたそうです。
叶堂城の、復元石垣のその石も、ひょっとしたら、志知城の石垣だったのかも知れませんね。

2020年11月17日 歩律淡路守彦蔵馬楠
志知城[養宜館  周辺城郭]



菅氏の城。後に本拠地の地名「野口」を名乗る。鎌倉時代館を建てる。室町幕府、淡路国守護細川氏に従うが、秀吉の淡路攻めで、黒田孝高、加藤嘉明と城主が変わり、九州、小田原、朝鮮と水軍出兵の拠点となる。
後、加藤嘉明が戦功により、加増転封 伊予に移ると、秀吉の直轄となり、代官三宅丹波守、次いで、石川紀伊守を置く。
地震に因り、大日川の水深が浅くなり、より川口に近い「叶堂」に城を移す。


写真は
本丸の下北側から。【裏門跡地】より内堀内
〔設置された案内板によると〕
平地は二の丸。案内看板の在るところは本丸・二の丸の境界あたり。
案内板の右に少し見える林、竹藪は本丸。
向こう(左と奥)の竹藪は二の丸と内堀の境。
本丸と二の丸は内堀に囲まれています。
【案内板】
【裏門から二の丸②】

2020年07月28日 take
叶堂城[養宜館  周辺城郭]

昔の叶堂城跡は御原橋の北詰付近にありその上に感応寺がありました。昭和59年の治水工事の時に、感応寺は現在の位置に移転。旧叶堂城跡は一部が残っています。

2020年06月11日 西市正紫雲
柿ノ木谷城[養宜館  周辺城郭]



むしろこっちの方が楽しいかも③

上月城①来島城②ときまして、今日は養宜館です。基本的に、私の居城から日帰りの距離となっております。
遠い所よりお越しになられた方々には、参考にしていただければ、と思いますが、
養宜城詰めの「柿ノ木谷城」は
山中目七難科八苦属の方専用城です。そんな平の土塁の草なんか喰ってられるかっ、俺は山中を駆け抜ける鹿だぜ、という方、根性みせてくださいね!
さて柿ノ木谷城は、守護細川氏の養宜館の詰めの城として、南東約3km標高291mの山上にあります。名前は谷なんですけどね…。そんなに険しい山ではないのですが、どうも登山道が無いっぽい。

自力でルート開拓しないと気がすまない冒険者の方は、読み飛ばして下さい。
達成感が違いますからね!
あ、そんな人は口コミ読まないか。

私の場合、どうしたもんかと、ぐるぐるしてたら、偶然北西の小さな四角形の溜め池付近に「淡路安国寺跡」を見つけました。
後で知ったのですが、守護細川師氏が居宅を改めて安国寺としたそうで、阿波補陀寺(土成町)の住寺であった大道一以を招いて開山したそうです。養宜館の詰め城という性格から、守護の居宅跡を登城ルートにするのはごく自然っぽいので、ここから山上を目指すのは正解でしょう、たぶん、きっと。
とりつくポイントが決まれば、あとはどうにか登るだけ。廃山道があったりなかったりですが、うまくいけばヤブヤブシダシダを少なく回避できます。まぁ、運です。ルート覚えてません。
途中、見晴らしのいい場所もあり、養宜館方面を一望できます。
山上には、淡路国最大クラスの遺構があり、帯曲輪からの切岸、土塁、
主郭は高く、段曲輪も広い。
守護の詰め城を三好氏が大改修しているみたいですね。
三好氏らしく、切岸中心で虎口はちょっとひねり。
竪堀、堀切は、ほとんど無しです。
さすが三好!どこからでもかかってこいよ!という三好の風を感じながら、
ぜひ山中をしかと駆けめぐってくださいね~。






2016年05月31日 まるき〜出雲守
養宜館

ぶっちゃけあまり期待して行くような所ではないかもしれません
現地に行くと あ〜なるほど…
「土塁に囲まれてるね」
と思える空間…ただそれだけの事で
普通にどこにでもある田畑の真ん中?というイメージの場所でした!
土塁内部は集落、畑 、石碑、説明書き、社、お墓?集会所があり車通りが少ないのでそこに一時的に停車できそうです。

個人的な感想として…
歴史を知らないが故ココの重要性がわからないだけかもしれない
何だかひっそりとしていて早くこの場から立ち去りたい気分になる場所でした。

場所的にはイングランドの丘の西側辺りになります、道路上に案内の標識あり

探索時間 約10分(笑
ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

2016年05月30日 まるき〜出雲守
叶堂城[養宜館  周辺城郭]

元々の城址に現在は感応寺(かんのうじ)が移転してきたそうです。お寺の住職さんに話を聞きました。

お寺自体大事にされていたわけでも無いらしく何度も住職が変わっているようで城に関する資料等も乏しいという事であまり詳しくは知らないとの事。

叶堂城は石川紀伊守が淡路の沖を通る海賊等を監視する目的で建築していたが石川氏は関ヶ原の合戦で西軍に属していたためその後に蜂須賀氏の所領になった事で廃城になり幻の城となったらしいです

取り壊した城の石を使ってお寺の一部と碑が建てられているのだが、それが穴太
衆によるものだとか…それ以外は遺構らしい物は見つけられませんでした。感応寺に3〜40台くらい車を置けるスペースがあり、住職に声を掛ければ駐車OK

2014年10月04日 能登守あるて
養宜館

写真は東側の土塁です。
北側の土塁は養宜川沿いに残存していますが、遺構はホントに土塁だけです。
集会所近くは曲輪のおもかはありますが、淡路島であれば素直に洲本城に行くのが吉ですね^^;

養宜館の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 叶堂城跡の碑(碑・説明板)

 細川忠若丸供養碑(碑・説明板)

 柿ノ木谷城(周辺城郭)

 志知城(周辺城郭)

 湊城(周辺城郭)

 庄田城(周辺城郭)

 勝間城(周辺城郭)

 中の子城(周辺城郭)

 叶堂城(周辺城郭)

 松尾山感応寺(寺社・史跡)

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