庄田城

庄田城([養宜館  周辺城郭])

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庄田城の口コミ情報

2021年01月13日 歩律淡路守彦蔵馬楠


「千本塔婆綱異祭」の発端となった
庄田城主 船越定氏の伝説

淡路国三原郡倭文荘庄田
文明3年(1471)6月20日
領内松帆の笥飯野(慶野)に在る、潜洲ヶ淵(くぐすがふち)と言う池に大蛇が住み着いた。
人民牛馬を襲う大蛇の退治を、領民が願い出る。
仁 孝 武威の名高い定氏は、領民の訴えに応え、
庄田八幡に7日祈祷し、雁又の大矢を授かる。
重藤の弓、二本の矢を携え、八人の配下を従えて池へと向かう。
大音声に池の主を呼び出すと、大蛇は襲い掛かってくる。
顎から頬へと射抜くと、大蛇は怒り狂い、その勢いに定氏の馬が暴れだす。
仕方なく逃げ帰るが、道中配下の一人が櫟田(いちだ)の一本松で亡くなる。
更に、残りの配下も明神池近くで力尽きる。
やっと屋敷にたどり着き、門を閉ざし振り返ると、今にも門を乗り越えようとする大蛇が居る。
もう一本の矢で喉を射抜くと、とうとう大蛇も力尽きる。
しかし、大蛇の吐いた毒気にあたり定氏も数日後には亡くなってしまう。
いくつかの話が伝わっているが、おおよそこんな話です。

写真は
定氏が祈ったと言う【倭文八幡神社由緒】
(庄田八幡神社)
1人目が亡くなった【一本松明神之由来】
・この上に小さな祠が在る。
配下が皆亡くなった【七之明神御由緒】
・明神池のほとり
今も続く祭り【千本塔婆綱異祭】
・「味地草」「淡路国名所図絵」他、色んな書物に紹介される、大蛇供養、豊作祈願の祭
・毎年1月11日に行われる。


2021年01月12日 歩律淡路守彦蔵馬楠


庄田城主 船越定氏には伝説が有ります。
文明3年6月20日。領民の訴えに応え、大蛇を退治します。
しかし、大蛇の祟りか、不作が続くようになります。
大蛇を供養しようということになり、それから毎年1月11日に「千本塔婆綱異祭」が行われています。

倭文小学校の児童達が参加し、藁で作った蛇を担いで練り歩き、千本地蔵に塔婆を収め、最後は元庄屋の家へ、そして、庄屋宅前のムクの木にその年の恵方へ向けて巻き付けます。

元は少々荒っぽい奇祭であったようですが、
今では、小さな小学生が頑張っている、ほのぼのとして、可愛らしい、ちょっと変わった祭です。

2020年12月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠


藤原氏の出、船越氏の館、庄田城。
文和元年・正平7年(1352)船越定春築城。鎌倉から戦国まで淡路国三原郡倭文荘庄田に館を構え、周辺を治めた。室町時代には城主船越景直は、淡路国守護細川氏の下に、細川氏が三好氏に滅ぼされると三好氏に、更に織田信長、羽柴秀吉に仕える。景直の父 景綸は【淡路国十人衆】の一人。

城跡は、石碑が建てられているのみ。畑のなかにあり、サイロで隠れて見つけにくいかもしれない。ただ、東の安住寺川には「御土居橋」「中道橋」「追手橋」等の名前が残っている。

地図(航空写真)には堀の跡も割りと分かりやすい。安住寺から慶野までかなり広域を支配下にしていた。城主の大蛇退治の伝承やその碑や祭りが残っている。

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