叶堂城跡の碑
叶堂城跡の碑([養宜館 碑・説明板])
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叶堂城跡の碑の口コミ情報
2020年11月29日 歩律淡路守彦蔵馬楠
現在、叶堂城跡とされている松帆山感応寺は、昭和59年に移築されたものです。
叶堂城が在ったのは、この碑が在る辺りです。
先の昭和54年9月から10月の台風で、周辺地域が大被害を被った水害の対策として、河川改修により、三原川(と倭文川)及び、大日川の流れを変えるため、川口を広げる、合流の向きを変える工事を行っています。
(川口部は河川名 三原川、大日川どちらの表記もあります。御原橋の欄干には「三原川」とあります。)
感応寺と叶堂城
感応寺から東に約7km 感応寺山(278)山頂に、松尾山感応寺 行基により開山。天平の頃。
室町時代元中五年 全山堂塔伽藍焼失。
運良く(都合良く?)現在の感応寺近くの砂浜に本尊が逃れていたのだとか。(山上から良く見える古津路の海へ飛んで火から逃れた)
松尾山から松帆と名をとり「松帆山感応堂」(叶堂観音)とよぶ。
現在再建された、「松尾山」「松帆山」両方の「感応寺」がある。
一方、秀吉の代官として置かれた二人の内、石川紀伊守。ちょっと評判が悪い。
地震で水軍の城として使えなくなった志知城を廃城。叶堂の松帆山感応寺を北の松原に〈追い出す〉。
感応寺の在った小山を利用し総石垣の三連曲輪の叶堂城を築城。
関ケ原の戦いで、石川氏は西軍に付き、叶堂城は廃城。21年後に、追い出された感応寺は、叶堂城跡に帰って来る。
石川氏は播磨に移る際、感応寺の〈鐘を奪って行った〉ので、仏罰に悩まされたそうな、で、この鐘を〈海に捨てる〉。これが、漁師の網に掛かったとかで、叶堂の感応寺に帰って来たそうだ。
で、この総石垣の感応寺。河川改修でまた追い出される。
川口を狭くしている小山を削り、川幅を約2倍に。
石垣は捨てられる所だったのを、残すことになり規模は小さくなったものの、土を盛り、石を積み、再現されて、今の感応寺となりました。
【叶堂城跡地の碑】
【広くなった三原川河口】
この半分が小高い叶堂城だった
【再現された穴太積み石垣】
この上に、現在の松帆山感応寺 観音堂