先達城(せんだつじょう)

先達城の基本情報

通称・別名

小東城

所在地

長野県諏訪郡富士見町境先達(常昌寺)

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

武田信虎

築城年

享禄元年(1528)

主な改修者

主な城主

多田常昌(武田氏家臣)

廃城年

遺構

曲輪、土塁?

指定文化財

町史跡

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

笹尾砦(山梨県北杜市)[5.6km]
谷戸城(山梨県北杜市)[8.7km]
深草館(山梨県北杜市)[8.9km]
古宮城(山梨県北杜市)[14.0km]
若神子城(山梨県北杜市)[14.8km]
獅子吼城(山梨県北杜市)[16.9km]
能見城(山梨県韮崎市)[18.3km]
比志城(山梨県北杜市)[18.4km]
藤沢城(長野県伊那市)[18.6km]
朝倉山城(長野県茅野市)[19.1km]

先達城の口コミ情報

2023年12月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
城の尾根陣場[先達城  周辺城郭]



城の尾根陣場は先達城の西方約6.0km、武智川南岸(左岸)、標高約928mの丘陵地緩斜面上平場に立地したとの伝承が残る陣場です。北麓の武智川からの比高は40m位でしょか。南西、標高2116.7mの釜無山、その前衛山塊から続く北方裾野でもあり、裾野が河岸台地に消える短冊状の先端部が「城の尾根」の小字が残る該地だ。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…ちなみに近くに辿り着いても該地の特定に難儀すると思う。

「瀬沢の戦い」に因む伝承地の一つ、戦いについては個別に説明すんのが面倒なんで同じ先達城のリア攻めマップにある瀬沢合戦跡を参照して下さい。戦いの概ねの場は城の尾根陣場から北東に約1.5kmて感じっす。

「長野県町村誌」には単に、「…砦を設し所と見ゆ。」とあり、誰が陣を置いたのかはそもそも不明である。又、天正十年(西暦1582年)、天正壬午の乱の際、大門峠を越えて徳川勢と対陣した北条勢は「城の尾根」に陣城を築いて「小沼小屋(木間小屋)」と呼んだ(「寛永諸家系図伝」、「寛政重修諸家譜」、「譜牒余録後編二十六」)らしく、伝承地とはいえ「瀬沢の戦い」における陣所に加えて、後に北条勢によって再び陣場となった稀有な場所である。

陣場の現況は…原野、雑木林、耕作地、耕作放棄地等となっている。城域も不明だし改変も著しいんだろうけど、そもそも論でファジー過ぎてよく判らん。「城の尾根」の東側には「沼の神」の小字が残り(小さな沼があるらしいが藪過ぎて未見…)、西側は「ねずみ久保」の小字を残す窪地となっている。「ねずみ」は「不寝見」に通じるので物見の場だろうか。但し、低地で物見するよりは「城の尾根」に上がった方が遥かに見通しは良い。あくまで現況と立地から感じた個人的な推測に過ぎないが、道押さえの砦の類いとして既にあったものを陣場として拡張し二次利用に及んだものではないだろうか。低地の物見場は番所としての「不寝見」とも考えられる。

該地周辺は地味ながらも交通の要衝であり、鎌倉道、もしくはそれに準ずる間道が通っていたと推測される。道筋は東方、甲斐の下蔦木から古宿、横吹を経て該地の木之間、観音坂を登り、武智川沿いを進んで若宮に至る。木之間からは北行して乙事に通じる他、横吹から南行すれば休戸(やすみど)に至る。天正壬午の乱における徳川勢と北条勢による「乙事対陣」はこれ等道筋を中心として繰り広げられた事は容易に想像が付く。

余談だが、日本武尊東征の際の推定復路の一つに諏訪を通ったとするものがあり、前述の「休戸」は文字通り日本武尊が休息した場所と伝えられる。日本武尊の「御通路」は文献によって違いがある上に伝承、伝説の域を脱しないものだが、古代より何らかの道筋が周辺地域に存在した事の証左には十分成り得ると思う。

※写真①は縄張図における通称1郭っす。

※写真②は堀切っぽく見えるけど遺構なんてある訳が無い。

※写真⑦は物見場と推測される「ねずみ久保」の小字が残る場所、低地なんで逆に見えない気がする。

※写真⑧は上段、町道から撮影した「城の尾根」の方向、近景として撮ったつもりだったけど、確認したら城域は写っていなかった…

2023年12月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
登矢ヶ峰城(瀬沢城)[先達城  周辺城郭]



登矢ヶ峰城(瀬沢城)は先達城の西方約4.9km、釜無川北岸(左岸)、立場川西岸(左岸)、標高約948mの登矢ヶ峰山頂部に立地したとの伝承が残る陣所です。南麓の釜無川からの比高は145m位でしょか。東方には釜無川と立場川の合流点を控える他、山稜の東西を乙貝川と武智川が南北に流れて釜無川に合流する。南麓からは登るのも難しい急崖が立ちはだかるが、北麓からは河岸台地上の丘陵地を介するために比較的なだらかであり、徒歩で登る比高も50mを超えない。

行き方は…びっくりする事にGoogleマップに遠州の城友さんが位置登録しているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北麓からで、判り難い道筋が一応付いてるけど適当登っても全然大丈夫っす。伝承地とはいえ城跡として山頂まで登った人間は信濃のお城の神も含めて3人だけだと思う。

「瀬沢の戦い」に因む伝承地の一つ、諏訪頼重が陣所を置いた場所と伝わる。戦いについては個別に説明すんのが面倒なんで同じ先達城のリア攻めマップにある瀬沢合戦跡を参照して下さい。戦いの概ねの場は登矢ヶ峰城から北北東に約1.1kmて感じっす。

伝承地ながら登矢ヶ峰の尾根からは兜の錣(しころ)が出土した事もあるんだそう。合戦、陣所の存在の証左に成り得るのか知らんけど、該地は天正十年(西暦1582年)、天正壬午の乱の際に北条勢が陣所とした小沼小屋(木間小屋とも。)にも比定されているらしい。何れにせよ甲州から諏訪郡に入る関門の地の一つであり、軍勢を動かせば無視は出来ない地勢て事なんだろう。

お城の現況は…殆ど地山、てか地山だよ。山頂部には巨石がごろごろ…古代の祭祀場みたいな趣きもあるが決して意味のあるものとして受け取ってはならない。ランドマークとしてひっそりと小祠が鎮座、但し、恥ずかしがり屋さんなのか藪に正面を向いてしまい横と後ろからしか写真を撮る事が出来ない。北東麓には「木戸口」の小字が残る。

周辺には諏訪頼重の伝承地が幾つか残る。即ち、石関係なら「頼重の鞍掛石」、「頼重の休み石」、水関係なら「頼重の杖突水」、他には矢を作った場所、「矢作戸(やはぎど)」なんてのもある。時間もあったので位置を全て特定しよかなとか思ったけど、考えてみたら途方も無い作業になるのは目に見えてるんであっさりと諦めた。

※「木戸口」は「城戸口」かと推測されているが、諏訪郡への関門として甲州との境目に設けられた純粋な「木戸口」の可能性も残る。

※文中でも説明したが、現況と伝承からすれば陣城と呼ばれるのも憚れる陣所である。

※写真⑥は要るのか知らんけど横吹集落から撮影した遠景っす。横吹には鎌倉道、もしくはそれに準ずる間道が通っていたと推測される。

2023年12月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
瀬沢合戦跡[先達城  寺社・史跡]



さて、今回の口コミは今後の色物物件を語る上で必ず必要になるために作成した謂わゆる業務用口コミっす。ぱっと終わらせようと思ったけど色々調べてしまい長くなるのは毎度の事…そしておいらにとっては珍しい分類の口コミでもある。

瀬沢合戦跡は先達城の西北西約4.8km、立場川西岸(左岸)、標高約857mの河岸台地上平場を中心に存する合戦場の跡です。該地は現在の国道20号、通称甲州街道沿いである。又、立場川は戦国時代以前に甲信国境であった「堺川」に比定される(「堺川」は現在存在しない。)。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ランドマークとして説明板が立っている。天下の甲州街道とはいえ車はその辺に捨てられる。てか時間掛かりまてん…

「瀬沢の戦い」て知ってます?実はおいらも初耳、当日別物件を訪ねた帰りに偶然発見して初めて知ったんすわ…武田勢の関わる合戦はほぼ全てがインプットされてるおいらのIQOS1万超えの頭脳なんだけどねぇ…あ、IQOS…加熱式電子煙草の事でしたわ…IQね、IQ…嘘だと思ったらこっそりスカウターで測定してみて下さいな。今でもおもちゃ屋さんで売ってるのか知らんけど。

戦いの詳細は…現地説明板に全てが書いてあるんでそれ読んで下さい。でも投げっぱなしは許されない感じなんで一応説明しとく。説明板の写真も小ちゃいしね。

時は天文十一年(西暦1542年)三月、場所は信濃国瀬沢、参加者は小笠原長時、木曽義康、諏訪頼重、武田晴信、村上義清、戦いは前年に実父信虎を駿河に追放し家督を奪った武田晴信の領国経営が盤石でない事を見て取った信濃勢が合力して甲斐に攻め寄せた事に端を発する。結果としては瀬沢にて休息する同勢を武田勢が襲いこれを退けたが、何と武田勢は信濃勢、千六百二十一人!を討ち取ったんだそう。この時期における武田氏の推定軍役人数を鑑みれば、たぶん三人に一つ位の割合で首を取った計算になる凄まじい激戦だ。当時の合戦における死傷者の大半は追い討ちによるものなので逃げまくる信濃勢を相当しつこく追ったんだろう。「晴信を舐めんじゃねーよ、当たると痛いよ。」みたいな感ぢ?

…ところがこの戦い、まともな記述があるのは「甲陽軍鑑」のみらしい。軍鑑の記述を全く否定するものではないが信憑性に欠けるのは確かだ。諏訪氏方の一次史料にも記述が無く合戦の存在自体が相当に疑問視されている。

但し、合戦場跡には「九ッ塚」と呼ばれる塚の存在があったそうで、明治の初頭から洪水等により流失しながらも昭和三十四年(西暦1959年)まで最後の1基が残っていた(伊勢湾台風の災害復旧のために掘り取られたんだそう。)らしい。討死した者を弔ったものなんだろうけど、「瀬沢の戦い」とは別にして、晴信の家督継承、頼重の関東管領家への独断的接近以降関係の悪化した甲信国境で何らかの小規模な衝突が好発していた可能性は十分考えられる。そうでなければ別の戦いとの混同であろうか。

戦いに纏わる伝承が数多く残されている地域でもある。諏訪勢と武田勢の陣所跡の他、小笠原長時が布陣し戦いが行われた「血河原」、諏訪勢と武田勢による激戦が繰り広げられた「武血川」、逃げる諏訪頼重が休息した際に水を求めた「頼重の杖突水」等の伝承地が残る。口碑が伝えられるのは類似する事象が実際にあったからこそであろう。「瀬沢の戦い」として纏める事は難しくとも何らかの合戦が行われた事は十分に考えられる。

※中世において甲信を結ぶ往還(原道、逸見路等)は意外にも道筋がはっきりしていない。「瀬沢の戦い」が実際に行われたとすれば、中世にも甲斐路(大道)等に通じる鎌倉道、もしくはそれに準ずる間道が該地周辺に依然健在であった事は確実だと思うのだが…諏訪氏を滅ぼした武田氏が軍道、「棒道」の整備をまず行ったのは当時まともな往還の存在自体が無かったからなのかもしれない。

※該地には「九ッ塚」の石碑が建つが、塚自体は現在地よりも北側に位置していたらしい。近傍には宝篋印塔の笠と相輪1基が残り、古老の言うところによれば大正時代の初期頃まで甲州から墓参に来ていたんだそう。

※本当は「瀬沢合戦場跡」とするのが正解なんだろうけど名称は現地説明板に準じた。

2023年11月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
城官屋敷(円見山の屋敷)[先達城  周辺城郭]



城官屋敷(円見山の屋敷)は先達城の東北東約0.9km、甲六川西岸(右岸)、標高約977mの河岸台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。謂わゆる甲六川に面する崖端の屋敷であり、周辺は古道が同川を渡る場所でもあったと推測されている。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…東京電力甲信幹線No.288鉄塔上段の耕作地と2枚か3枚の水田が「城官屋敷」の小字で呼ばれた該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは原氏と伝わるがはっきりしない。

「諏訪史蹟要項十五 富士見町境編」、「城官屋敷と城官シタ」の項には、「円見山部落の西南甲六川畔に熊野社がある。この熊野社に近い田甫に古来城官屋敷と称する屋敷があって、今は田となっている。何人が住居したかは伝わっていない。この田の用水を往古から城官シタと呼ぶ。」とあるんだそう。

更に同書では、「円見山の邸趾」として、「武田晴信の従臣原下総守ノ居地ト云ヒ伝フ、今尚古石碑アリ、補ニ云フ、原下総守ハ其出自 汎々決シ難キモ一ニ信濃伊那郡高遠領ノ産トモ云フ、天正十一年未年三月十一日天目山下ニ於テ勝頼ニ殉ス、子息惣六郎モ同シク殉シス 而シテ円見山ハ原氏ノ領地ニシテ茲ニ居住セシカ里人御地頭様ノ屋敷跡トテ下構ヲナセリ、今氏神社ヲ鎮斉ス、」とあるんだそう。

村の口碑では、原伊豫守と名乗る豪族が円見山に往古から居住していたと言っているんだそう。但し、そもそも論で城官屋敷と円見山を同一に捉えてよいものなのかもはっきりしない。

天文廿一年(西暦1552年)十月六日、宛先不明武田晴信朱印状には、「従甲府諏方郡へ之路次之事、致勧進可作之、同雖何方之山、剪木可懸橋者也、仍如件、」とあり、武田晴信は甲府から諏訪郡への道を勧進(資金を集めて…)して作るよう指図し、何処の山といえども木を伐り出して橋を架けるよう求めている。即ち、これが武田氏によって整備が進められた軍道、「棒道」の事と推測され、道筋については諸説あって決着が付かないが、その内の一説によれば、隣村の先達村は「下の棒道」の道筋に当たる。そうでなくとも古来から何らかの古道が甲斐国大井森から通っていた可能性が高く、城官屋敷はこれ等道筋を押さえる屋敷地であったとも考えられる。又、「殿」とも呼ばれず「官」と呼ばれるのは当地の領主ではなかったとの推測も成り立つ。

屋敷の現況は耕作地、水田等となっていて旧態は全く不明だ。屋敷地の東側下段、甲六川の谷筋には熊野社の小祠が鎮座する。往時の川の流れは想像も出来ないが橋を架けなくても渡渉は十分可能だったかもしれない。

該地の円見山村は天正十八年(西暦1590年)の太閤検地によれば、総石高は僅か八十九石に過ぎず、隣村の先達村に至っては約五十四石でしかない。八ヶ岳連峰から流れ出る豊富な自然流水の恩恵を受けている地域だが、人家に乏しく中世の開発から取り残されていた事がその理由なのかもしれない。

※写真①、背景の山塊が南八ヶ岳っす。

※写真⑥は要るのか知らんけど近景っす。写真向かって送電線の鉄塔左側の辺りが該地となる。

※写真⑦は熊野社の小祠、城官屋敷を訪ねなかったら見る事はなかったろう。

※写真⑧は甲六川、甲信国境である。

2023年11月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
先達城



さて、今回の口コミはおいらの反省を込めてアプリの登録城である先達城っす。信濃の全城館制覇を生涯お城目標に掲げてるくせに、恥ずかしながら先達城が位置する場所を山梨県北杜市小淵沢町の内だとずっと思ってやした。此処、長野県諏訪郡富士見町境じゃないすか〜痛恨の凡ミス、今まで平気で素通りしてた事を激しく後悔、先達城申し訳ねぃ…頑張って口コミすっから許しておくれ…

…言い訳すっとおいらが勘違いしたのにも理由がちゃんとあるのれす。読めば解ると思うので境目のお城ファンは付いて来てね。

先達城(小東城・城村城)は甲六川西岸(右岸)、鹿ノ沢川東岸(左岸)、東西を両川に挟まれた標高約925mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地する要害です。西麓の鹿ノ沢川からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地に建つ常昌寺(先達公民館)の境内が主郭と推測されている。駐車場も付いてるので車も堂々捨てられる。

築城年代は享禄元年(西暦1528年)、築城者は武田信虎だと推測されている。諏訪氏方の史料である「神使御頭之日記」、享禄元年の条には、「此年甲州武田ト執合ニ付テ八月二十日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候…」とある。但し、日記の記述から信虎が取立てた新五郎屋敷を先達城の場所とする確証は無い。町史跡にも指定されているが、肝心の「富士見町誌」ですら答えを出していない。又、説明板には城主の一人として甲州の臣、多田淡路守常昌を挙げているが、伝承の域(同名は「長篠の戦い」で討死したんだそう。長篠の墓碑銘から写し取った墓石が残っているらしいが…)であるらしくはっきりした事は判らない。

かつて「先達村(廃村)」は「城村」とも呼ばれていたそうなので該地に城館が築かれていた事は間違い無いんだろう。先達城の周辺には、「城の家」、「城の前」、「広見」、「広見木戸」、「南木戸」の小字が残っていたんだそう。「南木戸」の位置には村落間を結ぶ間道が通っていたらしい。

該地を含む周辺には今も「境(堺)」の地名が残る。甲六川と立場川(堺川)に挟まれた地域であり古来から甲斐国に属していたが、天文九年(西暦1540年)十一月二十九日、武田信虎の息女、禰々が諏訪頼重に輿入れの際に堺の十八ヶ村が化粧料として諏訪氏に割譲されたとの伝承が残る。又、戦国時代、武田氏二代に仕えた知見寺(蔦木)盛次の父、盛正(「上田原の戦い」で討死している。)は「寛政重修諸家譜」によると「甲斐国武川蔦木」に住んだとあり、盛次自身も武川衆としての活動が見られる。蔦木郷は郷域が不明だが、立場川以東から甲六川にかけての広域が推測され、即ち、小東、先達の地を含む。

お城の現況はグラウンド、一般住宅とその敷地、寺院等となっている。遺構としては土塁が残っているが、正直、後世の削平残土とも見て取れる。又、城域北端、長野県道・山梨県道17号、茅野北杜韮崎線の切通しを堀形の拡張とする事にも疑問を抱く。南木戸を通った間道が何処へ抜けるのかにもよるが、西向きの縄張であるならば尚更である。城域内には山王、鳳凰山大権現の小祠が鎮座、阿弥陀堂の跡も残る。ちなみに常昌寺の裏手には古い手引きの消防ポンプが原型を留めて放置されており、博物館にでも置いといた方がよいとさえ思える程の状態だ。

諏訪郡富士見町の中世は殆ど不明である。その最大の理由は何と言っても在地領主が不在な事にある。武士の居住は認められても村落の規模が極端に小さく、交通の要衝であっても開発領主等の簒奪の対象にならなかったとも考えられる。国境である事も勿論だが、西北、八ヶ岳の裾野には諏訪社上社の神野(こうの、上社の神事である御射山御狩の祭場であった。)である広大な「原山」を控え、神人以外の立ち入りが厳しく制限されていた事もその理由の一つなのかもしれない。

※写真①は南木戸、こにちわ〜みたいな感ぢ?舗装道路脇に纏められているが名残りが見られる。

※写真⑧は北西から撮影した近景、結構な要害地ではある。

2022年05月28日 mootze
先達城

お城の遺構は、わかりませんでした。説明板と石碑がありました

2017年08月06日 みのみの美濃守@流浪人
先達城

追記

駐車場は併設されており、24台分駐車可能です。

トイレは、城郭内に公民館(?)があり、そちらにはあると思われますが、施錠されており使用できません。外にも設置されてはないため、事前に用を足しておく事をお勧めします。

2017年08月06日 みのみの美濃守@流浪人
先達城

小淵沢インターより車で約7〜8分で到着できます。インターを出てすぐ左折をし、道なりに走り「久保」の交差点(信号あり)を右折。あとは道一本です。

遺構ですが、天然の沢(?)を利用した堀と小さな郭(?)があるのみです。

しかし現在において、郭と思われる場所は地元地区の方々の墓地として使われている模様です。

道路を隔てて反対側には、堀の一部と石垣の一部が残り、城郭としての面影を残します。

あとは「先達城」を示す石碑があるだけです。

先達城の周辺スポット情報

 城跡碑と説明板(碑・説明板)

 先達城趾碑(碑・説明板)

 鼻戸屋狼煙台(花鳥屋)(周辺城郭)

 中山城(伏屋長者屋敷・御所島)(周辺城郭)

 城の尾根陣場(周辺城郭)

 信濃境の円山狼煙台(周辺城郭)

 城官屋敷(円見山の屋敷)(周辺城郭)

 蔦木城山(周辺城郭)

 登矢ヶ峰城(瀬沢城)(周辺城郭)

 瀬沢合戦跡(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 旧稗之底村(日栄之底村)(その他)

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