城官屋敷(円見山の屋敷)

城官屋敷(円見山の屋敷)([先達城  周辺城郭])

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城官屋敷(円見山の屋敷)の口コミ情報

2023年11月18日 内記かずりヾ(・ε・。)


城官屋敷(円見山の屋敷)は先達城の東北東約0.9km、甲六川西岸(右岸)、標高約977mの河岸台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。謂わゆる甲六川に面する崖端の屋敷であり、周辺は古道が同川を渡る場所でもあったと推測されている。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…東京電力甲信幹線No.288鉄塔上段の耕作地と2枚か3枚の水田が「城官屋敷」の小字で呼ばれた該地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは原氏と伝わるがはっきりしない。

「諏訪史蹟要項十五 富士見町境編」、「城官屋敷と城官シタ」の項には、「円見山部落の西南甲六川畔に熊野社がある。この熊野社に近い田甫に古来城官屋敷と称する屋敷があって、今は田となっている。何人が住居したかは伝わっていない。この田の用水を往古から城官シタと呼ぶ。」とあるんだそう。

更に同書では、「円見山の邸趾」として、「武田晴信の従臣原下総守ノ居地ト云ヒ伝フ、今尚古石碑アリ、補ニ云フ、原下総守ハ其出自 汎々決シ難キモ一ニ信濃伊那郡高遠領ノ産トモ云フ、天正十一年未年三月十一日天目山下ニ於テ勝頼ニ殉ス、子息惣六郎モ同シク殉シス 而シテ円見山ハ原氏ノ領地ニシテ茲ニ居住セシカ里人御地頭様ノ屋敷跡トテ下構ヲナセリ、今氏神社ヲ鎮斉ス、」とあるんだそう。

村の口碑では、原伊豫守と名乗る豪族が円見山に往古から居住していたと言っているんだそう。但し、そもそも論で城官屋敷と円見山を同一に捉えてよいものなのかもはっきりしない。

天文廿一年(西暦1552年)十月六日、宛先不明武田晴信朱印状には、「従甲府諏方郡へ之路次之事、致勧進可作之、同雖何方之山、剪木可懸橋者也、仍如件、」とあり、武田晴信は甲府から諏訪郡への道を勧進(資金を集めて…)して作るよう指図し、何処の山といえども木を伐り出して橋を架けるよう求めている。即ち、これが武田氏によって整備が進められた軍道、「棒道」の事と推測され、道筋については諸説あって決着が付かないが、その内の一説によれば、隣村の先達村は「下の棒道」の道筋に当たる。そうでなくとも古来から何らかの古道が甲斐国大井森から通っていた可能性が高く、城官屋敷はこれ等道筋を押さえる屋敷地であったとも考えられる。又、「殿」とも呼ばれず「官」と呼ばれるのは当地の領主ではなかったとの推測も成り立つ。

屋敷の現況は耕作地、水田等となっていて旧態は全く不明だ。屋敷地の東側下段、甲六川の谷筋には熊野社の小祠が鎮座する。往時の川の流れは想像も出来ないが橋を架けなくても渡渉は十分可能だったかもしれない。

該地の円見山村は天正十八年(西暦1590年)の太閤検地によれば、総石高は僅か八十九石に過ぎず、隣村の先達村に至っては約五十四石でしかない。八ヶ岳連峰から流れ出る豊富な自然流水の恩恵を受けている地域だが、人家に乏しく中世の開発から取り残されていた事がその理由なのかもしれない。

※写真①、背景の山塊が南八ヶ岳っす。

※写真⑥は要るのか知らんけど近景っす。写真向かって送電線の鉄塔左側の辺りが該地となる。

※写真⑦は熊野社の小祠、城官屋敷を訪ねなかったら見る事はなかったろう。

※写真⑧は甲六川、甲信国境である。

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