鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)

鶴ヶ岡城の基本情報

通称・別名

大宝寺城、大梵寺城、鶴岡城

所在地

山形県鶴岡市馬場町

旧国名

羽前国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

築城主

大泉氏(武藤氏)

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

直江兼続、最上義光、酒井忠勝

主な城主

武藤氏、上杉氏、最上氏、酒井氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

土塁、石垣、堀、藩校、庭園

指定文化財

国史跡(藩校)、国の名勝(三の丸庭園)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

出羽丸岡城(山形県鶴岡市)[5.3km]
横山城(山形県東田川郡)[5.8km]
尾浦城(山形県鶴岡市)[6.2km]
藤島城(山形県鶴岡市)[8.0km]
平形館(山形県鶴岡市)[8.5km]

鶴ヶ岡城の解説文

鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城(平城)である。

概要
城は鶴岡市街地のほぼ中心に位置する。江戸時代は庄内藩の藩庁であった。他の東北地方の城と同様に土塁を多用し、石垣は主要な部分にしか用いられていなかった。また、天守は構えられなかったが、本丸東北隅に2層2階の隅櫓と二の丸南西隅にも2層2階の隅櫓が建てられていた。

現在、本丸・二の丸跡周辺は鶴岡公園となっており、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。鶴岡公園には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)がある。三の丸跡には致道博物館があって酒井家伝来の美術品などが展示されており、酒井家御用屋敷跡庭園が整備され国の名勝に指定されている。鶴岡公園南東には藩校「致道館」が残っており、東北地方に唯一現存する藩校として国の史跡に指定されている。周辺には市役所、文化会館、山形県立鶴岡南高等学校、山形県立鶴岡工業高等学校、東北公益文科大学、慶應義塾大学先端生命科学研究所、鶴岡アートフォーラム(芸術展示施設)などが存在する。

歴史・沿革
大宝寺城
鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。室町時代初期になると武藤長盛なる武将が出てこの地に権勢を振るった。

戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、その地位は不安定であった。天文元年(1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移した。そして大宝寺城はその支城の一つとなった。 その後、越後の上杉氏と手を組み、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)あっけなく併呑された。

上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされた。天正18年(1590年)検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きた。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させた。

鶴ヶ岡城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏は西軍に加担した罪により会津120万石から米沢30万石に減封され、代わって庄内地方を支配したのは山形城を本城とする最上義光である。義光は24万石から57万石を領有する大大名となった。義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張した。慶長8年(1603年)各城の整備が整うと、酒田浜に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。また同時に尾浦城も大山城と改称された。最上氏は3代義俊の元和8年(1622年)に、お家騒動(最上騒動)があり、改易となった。

旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。本丸内には御殿と北西隅の二重櫓が天守代用としてあり、他に単層2階の他門櫓が2基上がり本丸の城門は櫓門が上がっていた。二の丸東南隅に2重櫓、二の丸の城門も全て櫓門であった。宝永元年(1704年)には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することができた。

文化2年(1805年)、9代忠徳は藩校「致道館」を設けた。文化13年(1816年)には現在地である三の丸に移転された。文政7年(1824年)、柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。天保11年(1840年)幕府より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国長岡城への移封を命じられた。しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり命令は取り下げられた。慶応4年(1868年)1月より始まった戊辰戦争では奥羽越列藩同盟にて会津藩と共に最強硬派として官軍と戦い、会津藩が降伏した後、明治と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。...

鶴ヶ岡城の口コミ情報

常陸入道ねんさい和泉守様[2016年10月01日]
 致道博物館には展示はされていないが破軍星旗が所蔵されています。
 この旗は幕末、佐幕方奥羽越列藩同盟で最強部隊である庄内藩二番大隊の隊旗です。北斗七星をデザインした旗で、破軍星に向かうと必ず負け、破軍星を背にすると勝つ中国の言い伝えがあり、大隊長の酒井玄蕃(通称吉之丞)が自らデザインした旗です。酒井玄蕃は徳川四天王の酒井忠次の末裔で、戦場での卓越した指揮と勇猛な戦いぶりから鬼玄蕃といわれました。当時26歳で写真を見ると鬼とは思えない優男でした。
 庄内藩は豪商本間家の援助を受けて、西国列藩と同等以上の洋式銃を装備しました。秋田藩が寝返ったあと、庄内藩は2番大隊以下の各部隊が秋田に向けて進軍します。当初は装備の劣る秋田藩相手に圧倒しました。その後秋田に増援部隊が次々に到着して秋田の手前で戦線は膠着します。雄物川の戦いで庄内藩の武勇を見せつけたあと、巧妙に撤退しました。東北戊辰戦争では庄内藩は領内に敵の侵入を防いだまま降伏します。破軍星旗の旗が戦場に見えると敵は恐れ、味方は奮い立ったといわれています。
 北斗の旗をなびかせた庄内藩二番大隊は戦場で無敗であり、佐幕方最強の部隊でした。

傾奇揚げ仙兵衛様[2010年08月12日]
鶴岡城址としてのPRが少なくちょっと物足りない。山形の人は掘りで魚釣りをするのですね。

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