藤島城(ふじしまじょう)

藤島城の基本情報

通称・別名

所在地

山形県鶴岡市藤島古楯跡

旧国名

羽前国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

築城主

不明

築城年

和銅年間(708〜714)

主な改修者

主な城主

葉室氏、久我氏、堀川氏、北畠氏、土佐林氏、丸岡氏、栗田氏、木戸氏、新関氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、横堀

指定文化財

市史跡(藤島城址)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

平形館(山形県鶴岡市)[0.8km]
横山城(山形県東田川郡)[4.7km]
狩川城(山形県東田川郡)[6.8km]
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藤島城の解説文



藤島城(ふじしまじょう)は、山形県鶴岡市藤島にあった日本の城。市指定史跡[1]

概要 

天守閣を持たない平城であり、本丸の周りには内堀が囲み、外堀は自然の河川である藤島川を利用している。周辺領域には、向楯、平形楯、古郡楯、柳久瀬楯、勝楽寺楯等の前衛支城を擁する難攻堅固な城であった。

築城された時期は、資料が残っていないため不明であるが、和銅年間(西暦708年から714年)に、平(平形)に国府が置かれた時の府城ではないかと考えられ、出羽守や鎮守府将軍の居城であった。

現在、本丸跡には八幡神社の社が建っており、二の丸と三の丸跡は山形県立庄内農業高等学校の校舎と敷地になっている。

来歴 

  • 1333年(元弘3年)、葉室光顕が出羽国司として下向する。
  • 1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)、北畠顕信が守永親王を奉じて挙兵する。
  • 南北城時代より土佐林氏の居城となる。
  • 1571年(元亀2年)、丸岡兵庫頭(後の大宝寺義興)が城主となる。
  • 1590年(天正18年)、太閤検地の際、地侍が農民を扇動し一揆を起こして篭城する。
  • 1615年(元和元年)、最上氏の改易によって廃城となる。
  • 1976年(昭和51年)、藤島町指定文化財史跡(現・鶴岡市指定文化財史跡)となる。

所在地 

  • 所在住所 - 〒999-7601 鶴岡市藤島古楯跡

藤島城の口コミ情報

2024年11月03日 うーき
藤島城



家族旅行で訪問アクセスもよく気軽に立ち寄れる

2024年10月01日 池田紀伊守信輝
藤島城八幡神社[藤島城  寺社・史跡]



藤島地域は平野の中央に位置し、和銅元年に出羽郡出羽国が置かれ、その中心として栄えました。戦国時代南朝の拠点として、鎮守府将軍北畠顕信が護永親王を報じて旗揚げしたのが藤島城だと言われています。

鎌倉時代に、土佐林氏が藤島に築城し、その後源頼朝によって地頭として派遣された武藤氏に支配され、越後上杉、山形最上氏による領有争いの時代を経て、徳川家康の世に、庄内は最上氏に与えられました。藤島城にはその家臣新関因幡守が入城し、最上氏改易により廃城になるまで、さまざまな戦禍をくぐりぬけてきました。現在八幡神社が鎮座する城址には、本丸の土塁や水堀、塹壕の一部が残っています。

2024年10月01日 池田紀伊守信輝
藤島城

藤島城は和銅年間(708~714年)出羽国府が平(平形)に設置された頃、国府に附随した遺跡であったろうという。
この藤島城は建武の中興より吉野朝時代にわたる時期において元弘3年(1333年)8月出羽守葉宝光顕父子を始めとし、中院具信、北畠顕信等の南朝方が屡々兵を挙げた所という。
現在では本丸の土壇と塹壕の一部が残存し、川上には古郡館、川下には平形館を支城となし、平城としての形態は完壁であったとみられている。
また、藤島城外壕の船着場と思われる所より丸木船(東田川文化記念館内保存)が出土しており、これは1本の大杉を刳って造ったもので、全長11.5m、幅は中部にて1.2m、内部の深さ中央部54.5cm、両縁の厚さ4.5cm、底10cm内外。
この丸木船は船体に打たれた平鉄釘等よりみて1,200~1,300年前と考証され、平形国府設置以来征夷のための兵士、物資の運搬等にも使用されたものと考えられる。
切断された一部は目下山形図書館でも保存、県指定文化財。

2022年05月29日 ファン掃部助トム治郎
藤島城



藤島駅から徒歩10分くらいです。出羽国府の面影はありません。村上から山を超えて鶴岡に到達した都人が、広大な庄内平野を支配するうえで赤川を外堀とした戦略的拠点を構えたという想像力が働く場所です。

2022年04月10日 RED副将軍
藤島城



本丸は神社境内となってますが、周辺よりも一段高い方形で土塁と水堀が巡る城郭仕様です。

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。
1193年頃は土佐林右京守次正が城主であったと伝わります。
1333年に葉室光顕が出羽国司として下向し、葉室氏が三代続いた後は、大宝寺氏家臣の土佐林氏が城主となり七代続きました。
1571年に尾浦城の大宝寺義氏は、主君以上の勢力を持った土佐林禅棟を攻め滅ぼし、弟の大宝寺義興が入城。
その後、庄内は上杉景勝の所領となり、1590年に豊臣秀吉の太閤検地の際、栗田刑部小輔国時が入城。
関ヶ原戦い後は、最上義光の支城なり、家臣の新関因幡守久正が入城したが、1615年の一国一城令により廃城。

見所
現在の本丸跡は八幡神社の境内となり、北側と東側に土塁が残ります。
本丸の周りには内堀が巡り、外堀は藤島川を利用しています。

2018年04月28日 戸沢大膳大夫盛安
藤島城

藤島駅より程近くにあります

元々は和銅年間(708〜714年)に出羽国府が平形館に設置された際の附随する砦であったと言われています
鎌倉時代に入った頃よりは土佐林氏の居城となり、戦国時代まで続きます
室町時代末期 尾浦城主の大宝寺義氏によって藤島城は落城、城主の土佐林禅棟は戦死、義氏の弟 義興が藤島城主に、しかし1583年に義氏が謀反で討死、その後義興も謀反で死に以後最上領となった

藤島城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 水堀(遺構・復元物)

 案内板、石碑(碑・説明板)

 藤島城八幡神社(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

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