長岡城(ながおかじょう)

長岡城の基本情報

通称・別名

所在地

新潟県長岡市大手通1

旧国名

越後国

分類・構造

平城

天守構造

層塔型御三階櫓[3重/1617年頃築/解体]

築城主

堀直寄

築城年

元和2年(1616)

主な改修者

主な城主

牧野氏

廃城年

明治元年(1868)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

蔵王堂城(新潟県長岡市)[2.2km]
乙吉城(新潟県長岡市)[4.8km]
栖吉城(新潟県長岡市)[5.6km]
村松城(新潟県長岡市)[7.8km]
与板城(新潟県長岡市)[10.7km]

長岡城の解説文

長岡城(ながおかじょう)は、越後国長岡(現在の新潟県長岡市)にあった城である。

概要
江戸時代初期の1616年に、蔵王堂城にかえて堀直寄によって築かれ、のちは越後長岡藩7万4千石牧野家の居城として明治を迎えた。梯郭式の平城であったが、戊辰戦争の折に城郭は城下とともに焼失し、1898年以降、本丸跡地は鉄道の停車場(現在のJR長岡駅)、ほかは市街地として利用されており、遺構はない。長岡市内の悠久山にある、長岡市郷土資料館の石垣の一部に旧長岡城の石垣石が使用されている。資料館の建物は天守閣風に建てられているが、長岡城との関係はない。

歴史・沿革
長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家の直接支配を受けることとなる。

その後、1598年に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の鶴千代が1606年に早世したため蔵王藩は2代で断絶した。さらに1610年、宗家の堀忠俊が家老堀直次・直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、かわって徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。

築城
1616年、今度は松平忠輝が大坂の役における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。


直寄は2年後の1618年には越後村上に移され、かわって譜代大名牧野忠成が6万2000石をもって入封する。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、1620年には1万石を加増、さらに1625年に新墾田2000石を表高に加えて7万4000石となる。
災害
享保13年3月27日(1728年)に起こった俗に「三蔵火事」と称される大火事で本丸から外曲輪にいたる城郭全てが全焼し、城の再建は幕府から7000両借用して行われ、宝暦4年(1754年)までかかった。また、天保15年10月14日(1844年)の俊治火事では城門2つ、城塀324間が延焼している。

また、先述のとおり、水害対策が長岡城建設の理由であったが、洪水で城内まで浸水することが5回あった。寛文11年(1671年)と延宝2年(1674年)に浸水しており、天明元年(1781年)と寛政元年(1789年)の洪水では2回とも城内まで8から9尺(単純計算で約2・4メートルから2.7メートル)浸水した。

この他、文政11年11月12日(1829年12月18日)の三条地震では本丸を初め、役所、門、塀、柵など、ほとんどが大破し、翌年の大風で城内破損35箇所ほどの被害を受けている。...

長岡城の口コミ情報

安田大宰少弐秀俊様[2017年10月28日]
開発により跡形も無い長岡城ですが、
大手口 駅前ロータリーに本丸跡の標柱、シティホールプラザ アオーレ長岡 建物わきに二ノ丸跡の標柱&城内稲荷の社、アオーレ長岡地下駐車場に堀底 土留杭の再現展示などがあり、所々の関係物で想像を膨らましてみてはどうでしょうか?

常陸入道ねんさい和泉守様[2016年06月04日]
戊辰戦争の新潟戦線は新政府軍に山県有朋、黒田清隆がいるも同盟側の奮戦で大苦戦しました。河井継之助以下長岡藩の奮闘は有名です。

新潟戦線には桑名藩の雷神隊も参戦して、長岡藩以上に奮戦しました。雷神隊は隊員の選挙によって隊長を決め、選ばれたのは当時24歳の立見鑑三郎でした。
朝日山の戦いでは奇兵隊参謀の時山直八を討ち取る殊勲をあげ、この時山県有朋も敗走しました。これで明治になっても山県は立見を苦手にしていたと言われます。雷神隊は最後まで奮闘しましたが各藩が降伏してやむなく降伏しました。

明治維新後に立見は名前を尚文に改めました。立見の指揮能力を買われ西南戦争では陸軍少佐で出征します。大隊を指揮し、西郷隆盛最期の城山攻撃にも参加します。

日清戦争のときは少将で旅団を指揮します。日露戦争では中将に昇進して第八師団を指揮しました。奉天の会戦の前哨戦の黒溝台に参加します。苦しい戦いでしたが優勢なロシア軍を撤退させました。

戦後は陸軍大将に昇進します。
立見尚文は東洋一の用兵家と言われ、戊辰、西南、日清、日露と四度の戦役に参加して負け無しの名将でした。

常陸入道ねんさい和泉守様[2016年05月29日]
幕末の長岡藩では河井継之助が有名ですが、家老の山本帯刀がいなければ長岡藩や継之助はあそこまで活躍はできなかったといわれています。

長岡藩の山本家は武田信玄足軽大将山本管助の弟山本帯刀を祖としているといわれています。戊辰戦争の山本帯刀は継之助戦死後も会津で戦い続けて、新政府軍に捕虜になるも恭順を断り処刑されます。これで山本家の断絶します。

大正時代に入り、山本家再興の話が出て、長岡藩士の髙野家から養子をもらい山本家を再興します。この時に山本家に入ったのは当時海軍少佐の髙野五十六でした。山本五十六と名前を改めて、海軍大将に昇進して太平洋戦争開戦時に連合艦隊司令長官を勤め、真珠湾攻撃を主導して成功させます。山本五十六は昭和18年4月ブーゲンビル島で戦死して元帥に昇進しました。

傾奇揚げ仙兵衛様[2013年04月07日]
大手通りに居酒屋『長岡藩』があり入口に下がった提灯には長岡藩の文字と藩主だった牧野家の家紋三つ柏が書かれている。

実は牧野家の末裔が『長岡藩』の噂を聞き店に来店して長岡藩主の家紋の使用を許したそうです。

傾奇揚げ仙兵衛様[2010年11月01日]
長岡には紅屋重正の酒まんじゅうと長命堂の飴最中がある。ちなみに飴最中は最中の皮の中に水飴が入ってるヤーツ!

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