栖吉城(すよしじょう)
栖吉城の基本情報
通称・別名
- 姫城
所在地
- 新潟県長岡市栖吉町字赤松
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 長尾孝景
築城年
- 15世紀末〜16世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 古志長尾氏、河田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(栖吉城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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栖吉城の解説文
[引用元:Wikipedia「栖吉城」の項目]
栖吉城(すよしじょう)は、新潟県長岡市栖吉町にあった日本の城。
築城年ははっきりしないが、永正年間(1504年 - 1521年)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から古志長尾家の本拠を移したとされる。
御館の乱では景勝の中心的な上田長尾家(通称、上田衆)との対抗上上杉景虎に与したが、居多浜の合戦に於いて城主上杉景信(通称、古志十郎)が討死。城も落城して古志長尾家の本流は滅亡した。
乱後は上杉謙信在命中に古志長尾家を継承(長尾姓の名乗りは辞退)していた河田長親が古志長尾家の遺臣たちを栖吉衆として再編。その長親が越中松倉城で急死すると最前線は無理との判断で嫡男の岩鶴丸が栖吉城に戻される形で城主となるが早世。親戚筋の河田親詮が河田家を継ぐも軍役を縮小されて栖吉衆の一武将に格下げとなった為に名実共に古志長尾家は滅亡となった。
上杉家の会津転封により廃城となったが、河田家の没落以後は景勝直参となった栖吉衆が番将として治めた。
また、上杉謙信の母である虎御前(青岩院)はこの城の城主であった長尾房景(長尾顕吉との説も有り)の娘である。このため謙信はこの城で誕生したと伝説されている。
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栖吉城の口コミ情報
2021年05月09日 関白やつた
栖吉城
2009年以来の登城でしたが、こんなに登ったっけな?と思いました。
ま、歳も重ねてるので疲れ具合が…
そんなんで登っていると突然の削平地が現れ、三の丸から城内に入っていきます。
2019年11月03日 あゆとも刑部卿
栖吉城
栖吉神社から城山コースより登城する場合の注意。本庄清七郎の墓を見たら、その先150〜200メートル位先の道が右カーブする時に、ここで本当は道が2又に分かれるのですが、左の道がほぼ消えかけています。左の良く見ないと分からない道が本来の登城道で、そのまま三の丸に続きます。これを見逃して右に行くと(右の方が道がくっきりしている)延々と八方台の方に行ってしまいます。ここにあったと思われる標識がすぐ脇に打ち捨てられていました。
2017年08月13日 安田越後守秀俊
栖吉城
・墓所情報・
①城跡内 山腹に栃尾城主 本庄秀綱(本庄清七郎)の墓あり。
②山麓 普済寺には長岡藩主 牧野忠成の墓所あり。
どちらも栖吉城と直接関わり無い武将ですが城跡と併せて
2015年11月08日 たびまろ
栖吉城
付近で目撃情報...熊出没注意!
2012年06月04日 傾奇揚げ仙兵衛
栖吉城
城山入口までのアクセスがよくない。看板や標識がなく本丸跡に登る道は普済寺からの一本だけ
地図上では栖吉神社の上に位置するが道はない。