稗生城(ひうじょう)
稗生城の基本情報
通称・別名
- ひゅう城
所在地
- 新潟県小千谷市稗生字城之腰
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 稗生氏、平子氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、畝状竪堀
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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稗生城の解説文
[引用元:Wikipedia「稗生城」の項目]
薭生城(ひうじょう)は、現在の新潟県小千谷市の城山の山頂にあった日本の城。
概要
薭生城は有事の際に立てこもる城で、普段は、山麓下の薭生本村に館を構えていた。築城された年代は明らかではない。当初は薭生氏が居城としていた。その後、相模国平子郷(現在の横浜市)から来た平子氏が居城とした。南北朝時代には長尾氏と共に上杉憲顕にしたがって活躍していた。地理的に上田長尾氏の与力であったが、守護上杉家の譜代の重臣であった。永正の乱では、小千谷は戦略的に重要な地となったが、平子氏は中立を保ち、双方から強い働きかけが行われ、複雑な立場であった。上条の乱では上条方だったが、長尾晴景家督相続後は晴景に従った。上杉謙信の死後の御館の乱では景虎方についたため、景勝方に滅ぼされ、平子氏は同市蘭木に逃げたという。その後、慶長5年(1600年) の上杉遺民一揆では、五智院の僧 海龍が3800人を引き連れ、薭生城に立てこもった。だが、まもなく鎮圧された。
アクセス
- 小千谷駅より越後交通で薭生宮前バス停下車後、中部北陸自然歩道経由で徒歩約30分。
- 小千谷駅から中部北陸自然歩道入り口(極楽寺)まで、徒歩約20分。
参考文献
- 小千谷市史編修委員会『小千谷の歴史』小千谷市役所。
- 小千谷の歴史編集委員会『小千谷の歴史(二十四版)』小千谷市教育委員会。
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稗生城の口コミ情報
2012年08月25日 傾奇揚げ仙兵衛
稗生城
この山城の裏手にある道の駅小千谷の蕎麦はつなぎに布海苔を使ったこの地域特有で旨い。しかも道の駅小千谷は温泉施設(ちぢみの里)併設で車中泊にもってこい!
2010年09月03日 傾奇揚げ仙兵衛
稗生城
本当のひうのひは草冠が付きます。
稗生城の周辺スポット情報
深地城(周辺城郭)
小千谷陣屋(周辺城郭)
極楽寺側登城コース入口(その他)