稗生城(ひうじょう)
稗生城の基本情報
通称・別名
- ひゅう城
所在地
- 新潟県小千谷市稗生字城之腰
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 稗生氏、平子氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、畝状竪堀
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
柿城(新潟県長岡市)[10.6km]
桝形城(新潟県長岡市)[12.1km]
下倉山城(新潟県魚沼市)[13.8km]
栖吉城(新潟県長岡市)[14.4km]
長岡城(新潟県長岡市)[15.0km]
乙吉城(新潟県長岡市)[16.8km]
大井田城(新潟県十日町市)[16.9km]
蔵王堂城(新潟県長岡市)[17.1km]
北条城(新潟県柏崎市)[17.4km]
赤田城(新潟県刈羽郡)[18.5km]
稗生城の解説文
[引用元:Wikipedia「稗生城」の項目]
薭生城(ひうじょう)は、新潟県小千谷市薭生字城ノ腰に所在する日本の城。1972年(昭和47年)4月1日付けで小千谷市指定史跡に指定されている[1]。
概要
薭生城は有事の際に立てこもる城で、普段は、山麓下の薭生本村に館を構えていた。築城された年代は明らかではない。当初は薭生氏が居城していた。その後、現在の横浜市磯子区にあたる相模国平子郷から来た平子氏(たいらこし)が居城とした。
南北朝時代には長尾氏と共に上杉憲顕にしたがって活躍していた。地理的に上田長尾氏の与力であったが、守護上杉家の譜代の重臣であった。永正の乱では、小千谷は戦略的に重要な地となったが、平子氏は中立を保ち、双方から強い働きかけが行われ、複雑な立場であった。上条の乱では上条方だったが、長尾晴景家督相続後は晴景に従った。上杉謙信の死後の御館の乱では景虎方についたため、景勝方に滅ぼされ、平子氏は同市蘭木に逃げたという。その後、慶長5年(1600年) の上杉遺民一揆では、五智院の僧 海龍が3800人を引き連れ、薭生城に立てこもった。だが、まもなく鎮圧された。
アクセス
- 小千谷駅より越後交通で薭生宮前バス停下車後、中部北陸自然歩道経由で徒歩約30分。
- 小千谷駅から中部北陸自然歩道入り口(極楽寺)まで、徒歩約20分。
参考文献
- 小千谷市史編修委員会『小千谷の歴史』小千谷市役所。
- 小千谷の歴史編集委員会『小千谷の歴史(二十四版)』小千谷市教育委員会。
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稗生城の口コミ情報
2026年10月02日 東堤北星
小千谷陣屋[稗生城 周辺城郭]
小千谷陣屋は、善光寺街道に面して構えられた陣屋です。
この地は、もともと高田藩の領地でした。天和元年(1681)、当時の高田藩主であった松平光長が越後騒動により改易となり、当地は江戸幕府の直轄領となりました。その後、享保9年(1724)に会津藩の預所となり、陣屋として本格的に整備されました。魚沼郡における会津藩預所の支配拠点として代官が常駐し、年貢の徴収や訴訟の裁決などを行っていました。その管轄は小千谷・十日町・六日町・浦佐・小出島・堀之内の6組に及び、広範囲を統轄する重要な施設でした。
慶応4年(1868)の戊辰戦争(北越戦争)では、会津藩兵約250人と旧幕府軍兵士約200人が入り、新政府軍と対峙しました。新政府軍は、小出島方面と雪峠方面の2方向から侵攻しました。当初は小千谷陣屋で迎え撃つ方針でしたが、周辺住民の懇願を受け、郡奉行の町野重安は小千谷付近での野戦を選択しました。これにより、小出島の戦いと雪峠の戦いが繰り広げられました。
雪峠の戦いでは、当初、地形的に有利な会津軍が優勢でしたが、次第に新政府軍の兵力に圧倒され、小千谷陣屋へ撤退しました。しかし、主力部隊は小出島方面に出払っていたため、陣屋を守りきることができず、片貝方面へ撤退しました。これにより小千谷陣屋も焼失しました。
戊辰戦争後も、陣屋跡には明治元年(1868)に小千谷民政局、明治2年(1869)に柏崎県小千谷出張所、明治12年(1879)に北魚沼郡役所が設置されるなど、小千谷地域の政治の中心地として機能しました。その後も、さまざまな役所や学校に利用されました。
現在は、介護老人保健施設「雪あかり」となっています(旧称は「水仙の家」。更新されていないウェブサイトでは、旧称のまま掲載されていることがあります)。
周辺の開発が進んだことから、当時の遺構は失われたと考えられます。現在、施設の前には石碑が建てられています。
2024年10月17日 よっこいしょーいち
おぢや城[稗生城 周辺城郭]
深地城の北、小千谷市の千谷川地区に突き出すようにある台地の上に「おぢや城」があったのではないかとされる。現地には「城ノ上」「城ノ下」「土手外」などの地字があり、城があったことが推測される。
「小千谷市史 上巻」によれば深地城が廃城になった後、「おぢや殿」により築かれたのではないか、とされており「おぢや殿」は平子氏の平子孫太郎ではないかとされるものの、詳しいことはよくわかっていないようです。現地にある「城上神社」の案内板に「おぢや城」があったとの記載があります。
信濃川の「中子の渡し」や川港の「小千谷港」をおさえるための城と考えられ、「おぢや城」の城主は小千谷の礎となった領主のようです。
しかし、現地には台地から下る堀状の道が何本かあるものの、明確な遺構はなく、どのような城だったかは不明のままです。
2023年09月16日 よっこいしょーいち
深地城[稗生城 周辺城郭]
深地城は信濃川の川縁にある断崖絶壁の台地上に築かれています。
小千谷市史の縄張図によれば楔型の台地の突端に主郭があり南に二重の空堀があったらしい。現在はごくわずかな堀跡が残っているだけです。ただ隣接する五智院の西側にも堀跡らしきものがあるので五智院の境内(墓地も含む)も城域に含まれるのではないかと思いました。
現地の説明文によれば「この一帯は深地の岨(はば)と呼ばれ、古城があったと語り伝えられてきた所である。『温古の栞』などによると、南北朝時代に上杉憲顕の将 大関兵部(栃尾大野城主)の支城として、築かれていたという。その後、永正年間(1510年頃)に長尾為景の一族である深地入道時景の居城となったが、時景は天文年間(1540年頃)に叛乱で殺されてほろび、以後廃城になったとされている。崖下には深く長い洞窟があり、この洞窟は五智院境内に通じているという伝えが残されている。現在、城館跡に関する物的資料はこの台地南側にかすかに残る空堀だけで、いまだに多くの謎につつまれている。」とのことです。
2012年08月25日 傾奇揚げ仙兵衛
稗生城
この山城の裏手にある道の駅小千谷の蕎麦はつなぎに布海苔を使ったこの地域特有で旨い。しかも道の駅小千谷は温泉施設(ちぢみの里)併設で車中泊にもってこい!
2010年09月03日 傾奇揚げ仙兵衛
稗生城
本当のひうのひは草冠が付きます。









