下倉山城(したぐらやまじょう)
下倉山城の基本情報
通称・別名
- 下倉城
所在地
- 新潟県魚沼市下倉字滝沢
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 長尾氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 福王寺孝重、佐藤平左衛門、小倉正熈
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
指定文化財
- 県史跡(下倉山城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
稗生城(新潟県小千谷市)[13.8km]
鷹待城(新潟県魚沼市)[16.2km]
大井田城(新潟県十日町市)[16.9km]
柿城(新潟県長岡市)[18.2km]
栖吉城(新潟県長岡市)[20.4km]
坂戸城(新潟県南魚沼市)[21.1km]
乙吉城(新潟県長岡市)[23.2km]
長岡城(新潟県長岡市)[24.2km]
栃尾城(新潟県長岡市)[25.6km]
桝形城(新潟県長岡市)[25.8km]
下倉山城の解説文
下倉山城の口コミ情報
2022年04月25日 ️_
浦佐城[下倉山城 周辺城郭]
浦佐駅の裏さある噂の城です😚噂かどうか知らんけど🤣で、実城の裏さある二重堀切凹凹が見事です😳😳
二重堀切凹凹以外にも堀切凹&空堀凹がありますが、やっぱり二重堀切凹凹を愛でて🥰、二重堀切凹凹に圧倒されて🫣、二重堀切凹凹を何往復かして🚶♂️、これでもかと言うぐらい二重堀切凹凹の写真を撮って📷ほしいです😌残雪の越後三山🏔と二重堀切凹凹との共演は毎年見たくなりますよ🥰
〜以下、解説板より〜
南魚沼市指定文化財
浦佐城跡(浦沢城址)
昭和56年3月30日指定
浦佐城跡は薬師山(標高約300メートル)に築かれた中世の山城跡で、山麓を通る三国街道を抑え、魚野川の舟運を監視する要地に所在する。
天正6年 (1578年)に上杉謙信が急死すると、2人の養子、上杉景勝 (坂戸城 主長尾政景の子で、謙信の甥)と上杉景虎 (小田原北条氏康の子)が後継者の座を争い、越後国を二分する戦乱(御館の乱)が勃発した。
同年9月、北条軍が景虎に加勢するため関東から侵攻し、浦佐城を含む南魚沼の諸城を攻撃した。
翌年、雪消え近い2月、景勝は北条軍の再攻撃に備え、清水藤左衛門に浦佐城の守備を固めるように命じている。
薬師山の尾根は東に細長く延び、両側は深い谷となって急崖をなしている。
山上は大きく三段に削平され、四つの郭が築かれている。
下段に位置する第四郭は、丘陵先端部直下の南側山麓にあり、8メートル下には幅1メートルほどの溝が帯状に巡っている。
中段の第三郭は第四郭の直上、尾根の先端部にあり、北側は細長く小高い丘状を呈する。
上段の第一郭と第二郭は、第三郭の背後に13メートルの比高差をもって連続する。
第一郭は長さ90メートル、幅18メートルの最大の郭で、第二郭との間 は幅10メートル、深6メートルの堀切によって断ち切られている。
第一郭から20メートル下の南側山腹には、この堀切と第四郷を結ぶ幅六メートルの帯郭が設けられている。
第二郭の背後(西側)は幅20 メートル、深さ10メートルの大きな二重の堀切によって尾根が断ち切られており、背後の防御を非常に堅固なものにしている。
山上の城郭は全長260メートルに及ぶ。
平成21年3月
2016年08月15日 カーネル
下倉山城
上越線小出駅から
城は北にありますが、川を渡るため南下して小出橋を渡りすぐ左折。川の堤防を歩いて北上すると正面に下倉山城か現れます。比高差は100mくらい
只見線と破間川を越えて国道17号のT字交差点を右折し、300m程で石碑があります。ここまで30分
石碑の右奥50mくらい先を見ると、白い小さな建物の壁面に縄張図がかけてあります。この建物の脇から山に入れます
山道は、緩やかではないが楽でもない程度の傾斜を登ります。道は分かりやすく、日当たりのいいところは腰から下が草に覆われ道が見えませんが、杭とロープがかけてあるので、それをたどれば問題ありません
段丘の郭が連続し、急峻な切岸を3回直登することになります。あと井戸がキレイに残ってます
とにかく蜘蛛の巣が多く、登りで25分かくらいかかりましたが、蜘蛛の巣がなければ、もつと早かったと思います
本丸奥には堀があるらしいのですが、藪と崖に阻まれ断念
小出駅から往復2時間弱
行ってよかったです
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2014年12月28日 安田大蔵卿秀俊
下倉山城
交通の要所だった城です。現代では関越自動車道が城山を貫通している形。案内等少なく登城口は解りにくいです。
城は地理上、会津や関東にぬける交通の要衝であり、軍事的拠点としての役割を担っていた。
昭和55年(1980)に新潟県教育委員会により一部調査が行われ、城は大小70か所以上の曲輪と土塁・空堀などで構成され、縄張りなどの特徴から南北朝時代にまでさかのぼる可能性があり、井戸も2箇所確認された。
また、城の東側山麓にある竜泉寺は、平時に城主が居住した居館と考えられている。
下倉山城が文献に登場するのは室町時代後期(戦国時代)の永正年間(1504~1520)以降で、これらの記録からこの城を舞台に数々の攻防戦があったことが分かる。
天文2年(1533)、越後国守護上杉定実の一族上条定憲による「上条の乱」では、城主福王寺孝重が、守護代長尾為景(上杉謙信の父)方に属し、籠城戦の結果、為景の勝利に貢献した。
また、上杉謙信の後継を巡る天正6年(1578)の「御館の乱」では、上杉景勝方の城主佐藤平左衛門秀信が籠城し、上杉影虎方と攻防戦を繰り広げている。
上杉氏が会津移封後の慶長5年(1600)には、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「上杉遺民一揆」が起き、一揆軍の攻撃によって一時は落城したが、すぐに坂戸城主堀直竒により奪還されたと伝えられている。
城は、関ヶ原の戦いの後、各地での戦乱状態の終息とともに軍事的役割を終え、廃城されたものと考えられている。