小沢城(こさわじょう)

小沢城の基本情報

通称・別名

所在地

神奈川県愛甲郡愛川町角田

旧国名

相模国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

金子掃部助

築城年

室町時代前期

主な改修者

主な城主

金子掃部助

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

田代城(神奈川県愛甲郡)[3.7km]
磯部城(神奈川県相模原市)[5.7km]
荻野山中陣屋(神奈川県厚木市)[6.2km]
津久井城(神奈川県相模原市)[6.9km]
淵野辺城(神奈川県相模原市)[8.2km]
座間城(神奈川県座間市)[8.4km]
七沢城(神奈川県厚木市)[10.4km]
海老名城(神奈川県海老名市)[10.4km]
小野路城(東京都町田市)[11.3km]
片倉城(東京都八王子市)[11.6km]

小沢城の解説文



小沢城(こさわじょう)は、神奈川県愛甲郡愛川町小沢にあった日本の城。現在は小沢城跡を含めた周辺は民有地となっている。

概要 

小沢城は相模川右岸の標高120メートルほどの段丘崖に位置し、古沢の船渡しを抑える交通の要衝、丘のふもとを小沢川が流れる要害の地である。

この城の北方約400メートルに小沢古城があり、一般に小沢古城を横山党の小沢氏が拠った城とし、当城は1477年(文明9年)の長尾景春の乱において、景春に呼応した金子掃部助が立て籠もり太田道灌に攻められた城であると考えられているが[1]、道灌が攻めたのは古城の方ではないかとの指摘もある[2]

南から相模川の低地に突き出した台地を堀切によって隔絶して東西60メートル・南北70メートルほどの平坦な曲輪とし、その部分を「城の内」と呼んでいる。北から台地に上がる坂道に沿って腰曲輪も設置されている。廃城年代は不明だが、戦国時代末期の後北条氏時代にも金子氏が当地を所領として存続しており、引き続き城として機能していたと考えられている[3]

史跡等は未指定だが、愛川町による案内板が設置されている[4]

参考文献 

  • 児玉幸多・坪井清足編修 1980 「小沢城」『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社 pp.402-403
  • 児玉幸多・坪井清足編修 1980 「小沢古城」『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社 pp.403-404

小沢城の口コミ情報

2024年02月28日 ごこちゃん
小沢城



登城口の看板を見て少し登れば広い本丸。のどかな風景でした。

2023年05月03日 みよ釆女正
小沢城



登城入り口から、徒歩で3分位登りました。これは堀切風の土嚢か?とかワクワクしながらあっという間に城到着。下から見上げると、城感を醸し出してる石垣風の土嚢コーナーが見えたときの興奮度MAX❣️本丸はかなり広くで、子孫の方なのか、畑をされていました。

2023年02月17日 yama清正
小沢城



登城口に小沢城の説明板が有ります。 駐車場はありませんが、近くの民家の僅かな路駐スペースに迷惑にならないように停め10分程でサラッと見てきました。

2023年01月22日 いれぶん武蔵守
小沢城

愛川町による案内板

小沢城扯
小沢城はこの辺り、中津原台地の東北隅突端の地形を利して要害とした山城で、室町時代初期の築城といわれる。城域は五、七〇〇平方メートルほどの広さをもっていた。
城主は金子掃城助。山ノ内上杉氏に従っていた長尾景仲に連なる長尾景春の家臣であった。しかるに文明九年(一四七七)一月、扇ヶ谷上杉氏の執事太田道灌によって攻撃され、四月十八日に落城した。
いま、遺構として城址の南辺に壕跡をとどめるほか、城坂、城の内、馬つくろい場などの地名がある。また、城主一族の落城悲話が伝説として残っている。
昭和五十七年三月一日
愛川町教育委員会

2021年06月13日 国府左京大夫城介
小沢古城[小沢城  周辺城郭]



相模川沿いの断崖に築かれた城

【歴史】
築城年代は不明。
築城者は横山党の小沢氏。

【遺構】
小沢城の北500mほどに位置し、相模川に接した比高60~70mほどの丘陵に築かれている。
現在の還浄寺や諏訪神社のあたりに館があり、東は断崖と相模川、北を三栗山の峰に連なり、西は沢の渓流に接する要害の城です。館には西側の沢に橋を架け、そこから正門に至り、かつては架橋跡や門跡があったと伝わっている。また、昭和42年以降に採土により、北側部分の遺構は削り取られてしまった。
周囲の細尾根には、堀切や郭、岩盤切岸が残っている。

【感想】
諏訪神社の背後に細尾根に取りつく箇所があるので、そこから登っていくことが出来ます。細尾根と急斜面の上、竹の葉が堆積しているため、かなり滑りやすくなっています。足を滑らせて転倒したら、断崖の下に落ちることも十分に考えられるので細心の注意を!また、北側の尾根の途中には、足元30cmくらいの所に有刺鉄線があったっり、歩幅が50cmほどの場所もあるので、登城の際には気を付けてください。
岩盤を削った切岸や堀切など、それなりに見応えのある遺構があるので、登る価値はあると思います。

さて、この小沢古城は小沢城と比較すると、かなり要害性は高い城です。小沢城も高台にある城ですが、小沢古城のような断崖で囲まれた訳ではなく、あまり攻めにくいイメージがありません。長尾景春の乱において、太田道灌は小沢城を攻めたそうですが、小沢城で三か月近く持ち堪えるとは思えません。しかし、小沢古城なら可能だと思われるので、太田道灌が攻めたのは、小沢城とは小沢古城だと思います。

【アクセス】
上溝駅から田名バスターミナル行きに乗り、田名バスターミナルで半原行きに乗り換え、小沢で下車し、徒歩1分。
小沢城から徒歩10分。

【写真】
1:小沢古城遠景
2:説明版
3:諏訪神社
4:登城口
5:東側の岩盤切岸
6:堀切
7:郭跡
8:北側の岩盤切岸?

2021年05月29日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
伝田名氏館[小沢城  周辺城郭]



先達の方のスポットにクチコミと写真を投稿させて頂きました!
武蔵七党の一つ横山党の庶流で、横山時広の次男の広季が田名を名乗った事から田名氏が始まったとされ横山党の系図にも記されている、伝田名氏館跡に行って来ましたが、現在は公園になっていて、何となくここが館だったかなと思われる雰囲気は味わえました!
公園に駐車場は無かったので、公園の隣の相模田名民族資料館の駐車場をお借りしょうと思いましたが、現在休館中(コロナ関連?)だったので路駐しました😅


2021年05月07日 みっちゃん
小沢城



ナビ通りに行ったら最後すごーく細い山道。
やめれば良かったと思ったもののバックも出来ず何とか普通の道まで降りられましたがお勧めしません。
怖かった。城址などなかったような。
細い山道の写真だけ撮りました。

2015年07月01日 にゃにゃーにょ豊後守
小沢城

小沢城は二つじゃと?
愛川町小沢には城跡が対を成す位置に存在し、現在築城時代の古い方は『小沢古城』新しい方を『小沢城』と云うのじゃ。

小沢城は、相模川河岸段丘の半島状に突き出た場所に築かれておる。
県道65号線の小沢坂の途中に城の大手にあたる坂「城坂」があるのじゃ。解説板が目印じゃ。
坂を登るとU字に曲がる所の平場に石仏や石碑が並んでおり、その傍らの細い石段の先には大六天(第六天)が祀られておるぞい。
堀底道と伝わる坂は急なうえ所々蛇行しており、登り切った所にある畑が主郭跡じゃ。ここにも解説板があるのじゃ。
周辺は宅地化されており、遺構は堀切や土塁が僅かに残っておるそうじゃ。

小沢古城は相模川のすぐ横、高田橋手前の小山が城趾なのじゃ。
諏訪神社に解説板があり、隣の還浄寺が居館跡だったそうじゃ。
山が擂鉢状の地形で天然の土塁となっておったそうじゃが、採土により削られ遺構は失われておる。

★『長尾景春の乱』で景春に味方した金子掃部助が立て籠ったが、太田道灌に攻め落とされたのじゃ(1477年4月)。
しかし、それがどちらの城だったのかは不明なのじゃ。


2014年01月11日 空灯
小沢城

遺構はあるのかもしれませんが、確認できませんでした。
説明板があるのみで、どこに城があったのかもよくわかりません。
道も狭く、駐車場もありませんので、車はおすすめしません。

あまり詳しくはわかりませんが、室町時代の城跡のようです。
太田道灌に落城されたと言われているそうです。

小沢城の周辺スポット情報

 久所(田名)の渡し・碑(碑・説明板)

 滝の渡し・碑(碑・説明板)

 棒杭(大山道道標)跡・碑(碑・説明板)

 伝田名氏館(周辺城郭)

 小沢古城(周辺城郭)

 伝・小倉氏館(周辺城郭)

 城坂(その他)

 小沢坂(その他)

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