淵野辺城(ふちのべじょう)

淵野辺城の基本情報

通称・別名

淵辺義博居館

所在地

神奈川県相模原市淵野辺本町3

旧国名

相模国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

淵辺義博

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

淵辺義博

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

小野路城(東京都町田市)[3.3km]
成瀬城(東京都町田市)[6.8km]
由木城(東京都八王子市)[7.0km]
沢山城(東京都町田市)[7.6km]
磯部城(神奈川県相模原市)[7.7km]
小沢城(神奈川県愛甲郡)[8.2km]
平山季重居館(東京都日野市)[8.7km]
関戸城(東京都多摩市)[8.7km]
高幡城(東京都日野市)[9.8km]
片倉城(東京都八王子市)[9.8km]

淵野辺城の解説文

淵野辺城(ふちのべじょう)は、現在の神奈川県相模原市中央区にあった日本の城。南北朝時代に淵野辺村の地頭だった淵辺義博の館である。

歴史・沿革
淵辺義博は足利尊氏の弟である足利直義配下の武将であった。1335年に北条時行による中先代の乱が起こると戦況が悪いと見た足利直義は義博に後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害するように命令する。義博は護良親王を殺害するとその首を藪のなかに捨てたと太平記には書かれている。その後義博は直義に従って駿河国で北条氏と戦うがそこで戦死してしまう。

だが、一方で護良親王暗殺については、義博が親王を匿ったために生存していたという伝承もある、鎌倉から奥州石巻港に落ち延びたとか、 洞穴の中にかくまって奥州に落ち延びさせたといろいろある。 また義博には境川にいた大蛇を退治して村の人々を救ったという伝説も残っており竜像寺には今も蛇の体の一部と退治した時の鏃が残っているという。

現在の淵野辺城は石碑が建っているのみである。

淵野辺城の口コミ情報

2021年05月23日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
龍像寺[淵野辺城  寺社・史跡]

境川の龍(大蛇)を切って飛び散った体に由来するお寺。
淵辺義博は境川の龍だけでなく、護良親王も命を受けて殺害している。

現在のお寺はカーブした道路に面しており、向かいの駐車場から道路を渡りお寺に入る時非常に危ない。
カーブミラーが三個位あるので良く見て渡る必要がある。


2021年04月03日 長森原
鎌倉道・石碑[淵野辺城  碑・説明板]



境川右岸・左岸には、鎌倉から藤沢を経て北上し、八王子へと向かう2つの鎌倉道が存在していました。
淵野辺城下を通過しているのは境川右岸の道で、境川が作り出した河岸段丘崖の縁に沿って走っています。
相模原市が要所に鎌倉道の説明板や石碑を設置しているので古道跡を辿りやすく、また淵辺義博ゆかりの龍像寺背後の崖上にある東淵野辺二丁目市民緑地周辺は古道の面影を残して保存されており往時を偲ぶことができます。
古道の道筋・石碑等はリア攻めマップに記録しておきました。
この鎌倉道に沿って、古い寺社や八王子千人同心屋敷、淵野辺城、上矢部の土塁(矢部城)が存在しています。

なお、この鎌倉道は相模原市設営の石碑を辿って河岸段丘縁沿いに南下していくと、隣の大和市の深見城内を通過します。
深見城内で天竺坂と交差している古道が、この鎌倉道です。

2021年03月02日 でんろく左衛門督パルキー
淵野辺城



現在の相模原市淵野辺辺りの地頭であった淵辺伊賀守義博居館跡地が淵野辺城址となっている。淵辺義博は、足利直義の家臣で護良親王を滅ぼした人間として著名である。
跡地は少し高台になっており城址らしい感じではあるが、目の前がアパート、横はお墓、裏は上下水道局の管理地になっており、味気ない。

2021年02月12日 さすらいライダー
淵野辺城

駅からは、20分くらいだと思います。丘陵地の住宅街の奥で、少し分かりにくい❗️浄水施設の門の脇に、祠がぽつりとありました。駐車場は、ありません。

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
第六天神社[淵野辺城  寺社・史跡]



横山党一門の矢部氏の支流である、淵辺義博の屋敷の北端にあったとされる、淵辺義博一族の鎮守現在は井上氏の敷地内にあったが地続きの崖地に昭和61年大六天供養塔「大六天社」が建てられた!
(相模原市大野北史跡マップより)

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
上矢部の板碑[淵野辺城  寺社・史跡]



板碑とは石の卒塔婆です、この板碑の由来は鎌倉時代この地に館をかまえていた平安時代後期〜鎌倉時代に活躍した、強力な武士集団である、横山党の一員の矢部義兼の供養碑であるといわれています、建暦3年(1213年)の和田合戦に参加して戦死しています、これはその追善供養のために後年遺族などによって、建てられたものといわれている、貴重な相模原市指定有形文化財です!
(説明板、Wikipediaより)

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
薬師堂(上矢部)[淵野辺城  寺社・史跡]



横山党の一門であった矢部氏居館の裏鬼門にあたると伝わる場所に建てられた薬師堂です、薬師堂の横の道は水汲み街道(上矢部街道)で、水汲み街道の名は矢部新田を開拓した時に村人 が境川の水を汲むのに通ったことからこの名があるという、また、上矢部村を通る街道なので上矢部街道とも呼ばれている!
(相模原市大野北史跡マップより)

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
八王子千人同心小川家[淵野辺城  その他]



千人同心は上級農民で結成された武士団で主に甲州口の警備にあたった、小川家の祖先は八王子千人同心として八王子千人同心町の居館に仕えた!
現在は宅地化で周辺は様変わりしています、説明板は見当たらず、遠くから小川家の建物が見えるだけです😅
(相模原市大野北史跡マップより)

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
縁切り橋[淵野辺城  寺社・史跡]



後醍醐天皇の皇子護良親王を奥州石巻(宮城県)に落ちのびさせるため、淵辺義博主従が妻子や村人と境川の橋(中里橋)の上で別れを告げて旅立ったといわれ、この橋「わかれ橋」と呼ぶようになりました!
(相模原市大野北史跡マップより)

2021年02月08日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
縁切り榎[淵野辺城  寺社・史跡]



後醍醐天皇の皇子護良親王を奥州石巻(宮城県)に落ちのびさせるため、淵辺義博主従が妻子と榎の下で縁を切ったと事から「縁切り榎」といわれ、現在でも大きな榎があります!
(相模原市大野北史跡マップより)

2021年02月02日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
山王日枝神社[淵野辺城  寺社・史跡]



この地域の鎮守社で創建は徳治二年(1307年)とされ、淵野辺城主の淵辺義博がこの神社で祈願して、この地の民百姓を困らせていた大蛇を退治したと伝承されている、また天分11年(1542年)には、北条氏康が「日枝神社」を関東平定のための祈願所とした神社と伝わる!
(相模原市大野北史跡マップ、神奈川県神社庁HPより)


2021年02月02日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
箭幹八幡宮[淵野辺城  寺社・史跡]



箭幹(やがら)八幡宮は、小田原の北条氏の配下であった小山田氏一族の氏神として、その勢力の及ぶ地域の総鎮守として崇敬されてきたが北条氏の滅亡後、小山田氏の敗走等で神職不在の時期が続き、古文書の保存等がなされていない!
(箭幹八幡宮HPより)


2021年02月02日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
龍像寺[淵野辺城  寺社・史跡]

相模原市指定有形文化財で有り、南北朝時代、地頭の役職・淵辺義博(ふちべよしひろ)によって寺院開基となり、七沢弘沢寺2世巨海(弘治3年1557年寂)が開山した寺院で、淵野辺城主淵野義博にまつわる伝承として、境川沿いにあった龍池に住み人々を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭、胴、尾の三つに分けてそれぞれ葬り、頭は龍頭寺、胴は龍像寺、尾は龍尾寺として三つの寺を建立したが後に二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治二年(1556年)再興された今に至っている、また、小田原北条氏の評定衆(ひょうじょうしゅう)板部岡融成(いたべおかとおなり)北条氏滅亡後は岡野と姓を改め、豊臣・徳川両氏に仕えた江戸時代の淵野辺村領主、旗本の岡野氏一族の墓地でも有ります!
☆投稿写真は以前めくらー殿が淵野辺城にupしておりますので見てください!
(相模原市HP、大野北史跡マップより)

2021年01月17日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
鎌倉井戸[淵野辺城  寺社・史跡]



町田市指定史跡 (通称)鎌倉井戸
鎌倉時代に掘られたものと言われ、新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに井戸を掘り、この水を軍馬に与えたと語り伝えられている。
井戸の深さは約4メートルあり、表土の部分は永い年月の間に崩れ落ちているが、地表から約1.5メートル下のローム層の部分には、下方に直径約70センチメートル程の円筒形の井戸が原型のまま保存されているとの事で、町田市の七国山(ななくにやま・七つの国を見渡せる山という意味らしいの頂上付のここが鎌倉街道(上道)であったことを示す、石碑が有り、その近くに井戸跡が有ります!
鎌倉街道上道、その名の通り、歩いていると昔にタイムスリップしてしまいそうな場所で1333年、ここには何万人という人々が、鎌倉攻めの緊張感の中、井戸端で人や馬が一時の休息をとっていた事、その後も戦国時代には武田、上杉、北条の軍勢が、江戸時代〜幕末には新撰組の隊士が、色々な人、牛馬がこの井戸の横を通ったのかなと考えが尽きない、そんな場所でした!
(案内板より)
また、この鎌倉街道上道は「いざ鎌倉」の言葉通り有事の際に鎌倉幕府の御家人が鎌倉へ馳せ参じた道であり、高崎市の高崎城下〜雉岡城下〜用土城下〜菅谷館〜川越城下〜久米川古戦場〜国分寺〜高安城下(分倍河原古戦場)〜関戸城下〜小野路城下〜七国山(鎌倉井戸)〜伝井出沢城下(井出の沢古戦場)〜深見城下〜村岡城下〜化粧坂切り通し〜鎌倉鶴岡八幡宮と繋がる軍事的な役目を担っていた道だったみたいで、鎌倉街道上道が通る場所では様々な合戦が繰り広げられて来ました!

2021年01月17日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
矢部城(上矢部の土塁)[淵野辺城  周辺城郭]

矢部城(または矢部氏館と言う)は、鎌倉時代に横山党の一員であった矢部義兼がつくったものとされ、現在の神奈川県相模原市中央区上矢部にあたる地に有り、現在は遺構として、矢部城(矢部氏館)のものとされる土塁跡が一部残っている!
(ウィキペディアより)
スポット写真に口コミを入れさせ頂きました!

2021年01月16日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
井出の沢古戦場[淵野辺城  寺社・史跡]

菅原神社は、東京都指定の旧跡井出の沢古戦場にある。1335年、鎌倉街道の所要地であった町田村(現在の町田市本町田周辺)で、鎌倉を目指す北条時行軍と、それを食い止めようとする足利直義軍との間で激しく合戦が繰り広げられたと伝えられている。なお名称は、当時この地では澄んだ水が湧き出ており、その湧水地から現在の恩田川に続く沢が井出の沢と呼ばれていたことによる。
(ウィキペディアより)

2020年10月16日 サザンクロス相模守
淵野辺城

道も細く車は不向きです。淵野辺駅から歩きが良いでしょう❗駅からさほどかからず着きますよ。

2018年02月11日 ▲三ツ鱗▲
淵野辺城

最寄りの道は見通し悪く、アップダウンも激しい住宅街の細い道。駐車場スペースもありません。路肩に車を停めるのも難しいです。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
淵野辺城

アパートや水道関連施設になっていて、石碑があるのみです。


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