龍像寺
龍像寺([淵野辺城 寺社・史跡])
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龍像寺の口コミ情報
2024年10月14日 いれぶん[⭕️雁雁]
龍像寺は足利家臣の渕辺伊賀守が開創している事で知られていますが、北條時行が祖先であると伝えられていて小田原北條家臣でもある、岡野(板部岡)家累代の墓も有ります。岡野家は伊勢宗瑞の家臣となってから北條→田中→板部岡→岡野と三代で三回改姓しています。つまり中先代の戦いの両陣営に関わる寺です。以下に墓地にある石碑に刻まれた墓誌全文を記載します。
旗本岡野家累代の墓誌
淵野辺村地頭岡野氏の家系は平氏維将流に端を発し、相模次郎時行を遠祖とする未流は伊豆国田中郷に在って小田原北條氏に属し、初代善兵衛某は北條を姓とし小田原北條初代の早雲に仕え、二代越中守泰行は北條を改めて田中を名乗った。三代越中守融成はもと密宗の僧で江雪と号した。北條氏康に認められて右筆となり、また氏政の近臣で小田原北條氏二十将衆の板部岡能登守の遺領を継ぎ姓を田中から板部岡とした。融成は才能があり小田原北條四代氏政五代氏直の下で評定衆の一人として重きをなし、城主出陣の際は留守居役に任じ、家康末娘督姫を氏直の令室に迎えるに當っては仲介の労をとった。小田原落城後は秀吉に仕え岡野姓を賜り、秀吉死後は家康に属し信任を受けた。
融成長子房恒は都筑郡長津田村を所領の本貫とし千五百石を領した。次男房次は淵野辺村岡野氏の初代で家康八男徳川頼宣に仕え駿府に歿した。房次の長男英明がニ代を継ぎ千四百拾石余を知行し幕府の要職に就き淵野辺村を所領の木貫として摂津国御願塚村近江国北脇村を保有した。以来岡野家累代の基所は龍像寺に置かれた。
英明次子貞明が二代を継ぎ幕府の要職にあつて千五百石を知行し、宗明以下敬明春明融輕融砰融政融貞克明が家督を相続し幕末に至った。
明治元年の當主は岡野平次郎で淵野辺村における石高は二百七拾二石であった。英明三男友明が岡野分家として九百拾石余を領し信明以下将明尚明盛明文明が相伝えて幕末に至った。明治元年の當主は岡野房太郎で淵野辺村における名高は二百七拾一石であった。
昭和五十九年一月吉日
當山二十四世 映 能 代
撰文 金井 利平
書 長島 南龍
2021年05月23日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
境川の龍(大蛇)を切って飛び散った体に由来するお寺。
淵辺義博は境川の龍だけでなく、護良親王も命を受けて殺害している。
現在のお寺はカーブした道路に面しており、向かいの駐車場から道路を渡りお寺に入る時非常に危ない。
カーブミラーが三個位あるので良く見て渡る必要がある。
2021年02月02日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
相模原市指定有形文化財で有り、南北朝時代、地頭の役職・淵辺義博(ふちべよしひろ)によって寺院開基となり、七沢弘沢寺2世巨海(弘治3年1557年寂)が開山した寺院で、淵野辺城主淵野義博にまつわる伝承として、境川沿いにあった龍池に住み人々を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭、胴、尾の三つに分けてそれぞれ葬り、頭は龍頭寺、胴は龍像寺、尾は龍尾寺として三つの寺を建立したが後に二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治二年(1556年)再興された今に至っている、また、小田原北条氏の評定衆(ひょうじょうしゅう)板部岡融成(いたべおかとおなり)北条氏滅亡後は岡野と姓を改め、豊臣・徳川両氏に仕えた江戸時代の淵野辺村領主、旗本の岡野氏一族の墓地でも有ります!
☆投稿写真は以前めくらー殿が淵野辺城にupしておりますので見てください!
(相模原市HP、大野北史跡マップより)