奥牧野城(おくまぎのじょう)
奥牧野城の基本情報
通称・別名
- 奥牧野城山
所在地
- 神奈川県相模原市緑区牧野
旧国名
- 相模国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 後北条氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
上野原城(山梨県上野原市)[4.8km]
八王子城(東京都八王子市)[13.9km]
津久井城(神奈川県相模原市)[13.9km]
浄福寺城(東京都八王子市)[14.8km]
初沢城(東京都八王子市)[15.1km]
小田野城(東京都八王子市)[15.8km]
田代城(神奈川県愛甲郡)[15.8km]
檜原城(東京都西多摩郡)[16.1km]
岩殿山城(山梨県大月市)[16.5km]
戸倉城(東京都あきる野市)[17.3km]
奥牧野城の口コミ情報
2023年10月25日 いれぶん武蔵守
伏馬田城(尾崎城)[奥牧野城 周辺城郭]
こちらに訪れたのは3回目になる。偵察を2回繰り返してわかった事は、駐車場がない、公衆トイレがない、店舗・自動販売機がないと言う事。
駐車場については役所の町案内にも問い合わせたが、どこにもないようだ。結局、求めるものは①青根キャンプ場②やまなみ温泉③R413青野原のコンビニまで移動しないと手に入らない。やまなみ温泉から配車される乗合タクシーを利用するか歩くか。まずはこれを解決しなければ来れません
比高は150mほどだが、等高線を見る限り東西南は峻険。北側だけが緩やかでこちらが大手道なのだろう。しかし、時間短縮を想定して西側(仁の丘農園側)からの登城を選択。
入るとすぐ、段状に削平と切岸を交互になされたような加工が三段ほど続くが、高さはそれぞれ2mほどだろうか。通路脇も土塁状である。まとまった兵を置ける所はこちら以外では稜線沿いの削平部しか結局なかった。その後は稜線まで階段の多い急傾斜地であり、非常に脆い土質なので足元には注意が必要。息を切らして稜線到着。
稜線を南下すると削平された部分になりテーブルとベンチが据えてある。副郭であろう。帯郭的な平坦地を二箇所ほど経て主郭に至る。大きめだが崩壊して高さが小さくなった堀切が1〜2カ所ありました。枝払いしていないので眺望はそれ程よくないが、石老山などははっきり見えるポイントがあり、狼煙台としては十分だと思う。
帰路は気になっていたので稜線沿いに北入口方面に足を伸ばしてみた。予想通りと言うか、ピークとピークの間になる低地部分は堀切状の加工がなされているように見えた。脆い土質なので単に崩れただけなのかもしれないが、防衛上は必要な措置になるだろう。規模こそ小さいけれども、地元の人々に大切にされている山城だと感じました
2023年10月24日 いれぶん武蔵守
神原家住宅長屋門[奥牧野城 遺構・復元物]
今川家一門衆である蒲原家は、1548年の桶狭間の戦いで当主・蒲原氏徳を失い、家督を継いだ徳兼は、1569年の信玄による駿河侵攻や家康による掛川城攻めにおいても、富士川西岸の蒲原城を失いつつも、朝比奈泰朝と共に最後まで今川氏真を支え、遂には浪々の憂き目となります。
蒲原徳兼は帰農した後、1609年になってから幕府に牧野村名主とされ土地と屋敷免が与えられていて、邸宅敷地と長屋門は往時の姿を保っています。
一部アルミ建材に変えている部分もありますが、門下の石垣を含め十分に威容を感じる事ができました。
2023年10月15日 いれぶん武蔵守
尾崎城(伏馬田城)と尾崎原案内板[奥牧野城 碑・説明板]
伏馬田城(尾崎城)攻略前に是非とも立ち寄りたい所です。登城口やそこまでの進路がよくわかります。案内板の脇に案内図のついたカラーパンフレットがプラスチックのケースに入れてありました
2023年10月13日 いれぶん武蔵守
折花神社[奥牧野城 寺社・史跡]
折花姫伝承
武田家滅亡後、小山田信茂は織田信長に降伏しましたが許されず、息子と共に処刑されました。それを知った一族の小山田八左衛門行村は、城代を勤めていた大月岩殿城から、奥津久井を抜け北条氏へ、或いは父祖の地である町田小山田荘に向けて当時15歳とも伝わる一人娘、折花姫と落ちていきました。
追手の追求は厳しく、西野々にて行村は射殺され、身の回りの世話をしていたバァバやジィジも音久和や社宮司沢の辺りで次々に失い、一人きりになった折花姫は、袖平山の姫次で喉を突いたとも、神之川に身を投げたとも伝承されています。
里人はこれを哀れに思い、折花神社にて現在まで供養を続けています。
小山田八左衛門・折花姫伝承地④
2023年10月13日 いれぶん武蔵守
ジィジ宮[奥牧野城 碑・説明板]
折花姫ジジイ宮の由来について
ここから、袖平山に連なる尾根を可愛尾根と言います。(カワイ尾根)
その昔、村里の言い伝えによると武田勝頼が滅亡し、武田24将のひとり都留の城主小山田信茂、一族のひとリ小山田六左エ門は、大月市岩殿城より小田原北条氏をたより落ちた。
その途上で焼山登山ロ、青野原で六左ェ門は討たれた。
今でも河原后に甲州の武人小山田六左工門の碑があります。
さらに、一行は神の川入口の音久和では、ウバが殺され、此処ではジイが撃たれました。
供の衆は、ひとりになった折花姫をあわれみ、ここにジジイ宮を祀りました。
神の川街道の戦国の恋哀は、今に伝わっています。
神の川ヒュッテ管理会
析花姫講中
小山田八左衛門・折花姫伝承地③
2023年10月13日 いれぶん武蔵守
バアバア宮[奥牧野城 碑・説明板]
バアバア宮(ウバ神)の由来
都留の城主、小山田信茂の一族、小山田六左ェ門は武田滅亡のあと大月市の岩戸城より武田の親族、小田原北条氏をたより落ちて行きました。
その途上、焼山の登山ロ西野々に来た時、小山田六左エ門は撃たれました。今でもこの場所には、河原石で甲州の武人小山田六左エ門の碑があります。
折花姫一行は、神の川林道(街道)の入口にあるここの音久和集落に来たときウバ様が撃たれました。
村人は、これを哀れみ此処にバアバア宮(ウバ神)を達てて供養したと云われています。
神の川ヒェッテ管理会
折花姫講中
小山田八左衛門・折花姫伝承地②
2023年10月13日 いれぶん武蔵守
松田頼秀の墓[奥牧野城 碑・説明板]
松田左衛門尉頼秀墓
永享十一年鎌倉の公方足利持氏は、室町将軍家から敵視され、補佐役である関東管領上杉憲実にも背かれ、幕府方の大軍に攻められて滅亡した。そして管領上杉氏が関東の実権を握った。その上杉氏も四家に分れて対立し、最後に扇谷、山内の両家で争うこととなった。
明応三年九月この戦に出陣する松田頼秀は不幸にもこの山中で路に迷い陣没した。頼秀は龍泉庵に「最近の国法・兵儀の荒廃は悲歎するに余りある。これ以上は言葉にいい尽くすことはできない。持氏将軍以来三代になるが、関東の争乱は激しく、鐸が破れ、◯が削れ、戦死者が山のように積み重なりその血は河のようだ。一時幕府と鎌倉府が仲直りしたが、その家臣共が悪事をたくらみ、また元のようになってしまい、人民の騒動は最早止まないであろう。両上杉が同名でありながら剣を交えること数年続いている。それだけでなく外国からも兵が日本に侵入してきた。 今将に上杉の軍は公方の官軍といっても追罰して、関八州の人々は彼の威を恐れている。自分もこの乱世にあって、偏に将軍を仰ぎ奉り、扇谷上杉殿の陣に馳せ参じようとしたが、山中で運がつき雲霧にさえぎられ、然も敵に四方を囲まれ進退ここに極まってしまった。自分の命も芭蕉の葉のように破れ易く風前の灯である。外間浅間しく本懐でないが、此処で武士として世を果てるが、これらの趣きを披露し弔って貰いたい。」(原文漢文)このような遺言状を宛ている。この遺言状は寛文年中の火災で鳥有となったが、その写と鞍一口、鐙一具が龍泉寺に寺宝として納められてあるという。
昭和五十三年十二月一日
津久井町教育委員会
2023年10月13日 いれぶん武蔵守
小山田行村の墓[奥牧野城 碑・説明板]
小山田八左衛門行村墓
小山田氏は秩父氏の一流で、発祥は小山田荘(町田市小山田)である。
その祖父有重は、はじめ平家に仕え、平家西国落のとき脱出して東国に帰り源頼朝に属して繁栄したが、頼朝没後その家人の対立激しく、建保元年の和田合戦により没落した。
降って十五世紀のはじめに、甲州都留に本拠をすえて再興し、甲斐の守護武田氏と姻戚を結び、独自の領域支配をし、越中守信有が享禄五年居館を中津森から谷村に移して、出羽守信有、その子弥三郎信有がこれを継ぎ、その弟兵衛尉信茂の時、天正十年三月織田の先陣滝川一益に追われた勝頼に反逆した。しかし信茂も織田方に捕えられ斬殺され小山田氏も滅亡した。
八佐衛門は名を行村といい、信茂の従弟と伝えられる。永禄十二年八月信玄公小田原出陣のとき、酒匂川増水のためその瀬浴を仰付けられ、初鹿野伝右衛門と共によくこれを承り殊勲を樹てるなど常に信玄公御旗本に在り、はじめ使者十二人の一人として勇智をもって活躍し、近習を経て隊長となり、勝頼の代には中老の功者と称され、重座にあった。信長は武田滅亡後も強力に残党狩りを行い、その勢力一掃を図ったため、国境を逃れた八左衛門の余命は極めて短く道志川を渡るとき狙撃され悲運な最後を遂げ里人の手によりこの地に弔られた。時は天正十年四月九日で、勇心良誉信士という。
(町田市史、町田歴史と文化財、武田軍記、小山田物語、甲陽軍鑑等から引用)
昭和五十三年十二月一日
津久井町教育委員会
小山田八左衛門・折花姫伝承地①
2023年01月15日 いれぶん武蔵守
奥牧野城
前川橋が通行止めなのです。
ですから、県道35号線(鎌倉街道)から517号線(奥牧野相模湖線)に入り、更に舟久保バス停の所にある脇道(1車線)に入らないとなりません。因みに一方通行ではありません。十一面観世音を過ぎて少しした所に分岐があり、「前川橋は、通り抜けできません」とありますので、ここにはいります。
崖っ縁の道がなかなかスリリングです。700m進んでいくと平たい所があり、ここが"武者屋敷"なのですかね?その先に低い石垣を持つ城山があります。石垣はいつの時代の物かわかりません。ここの先に前川橋と案内看板がありました。
城山中央附近に進入口があり、左右が郭になっていて、左側は"武者屋敷"に繋がっています。進入口の先は左に湾曲しながら緩やかにあがり、また左右に分岐してます。左側は小屋があり、また小さな祠がありました。ここが傘松塚なのかと思いました。右側は更に少し上がり城山全体の頂上を形成しています。木の切り株だらけになっていますがここが本郭かと。
周囲と隔絶した雰囲気もよく、中々趣のあった後北条家最西端の城でした。
2021年03月21日 eiki
鉢岡山狼煙台跡[奥牧野城 その他]
JR中央本線の藤野駅から金剛山ハイキングコースを利用し約1時間で到着します。岩殿山城から相模湖嵐山狼煙台まで続く狼煙台ネットワークの一つで、今は説明板と巨大テレビアンテナが立っています。眺めは素晴らしく、ここから鶴島御前山、栃穴御前山の狼煙台跡と、添付写真に写っているのは右の藤野の街の後ろの低い山にあった鷹取山狼煙台、その左の山、権現山の中腹の要害山、円頂の峰に築かれた大倉砦が見えます。登山道も良く整備されています。
2021年02月19日 三輪左近衛少将直虎
伏馬田城(尾崎城)[奥牧野城 周辺城郭]
伏馬田城は津久井城の支城で北条氏配下の尾崎氏が守っていました。尾崎集落には詳細な案内板がありパンフレットもありました。
藤野駅からやまなみ温泉まではバスがありますが、その先は実質的に徒歩しか手段がありません。2時間ぐらい歩いていつの間にか尾崎集落に着いていました。地元では尾崎城と呼ばれているようですね。集落の突き当りに数軒の家があり城への道標に従い山道へ入りますが、この時点で8合目ぐらいまで来ているので伏馬田城へは傾斜の少ない山道を10分ほど登れば着いてしまいます。遺構は風化しており堀切もほとんど埋もれていましたが、ここからの眺望は美しく送電線がないので戦国時代に見張りについていた兵士たちが眺めたのと同じ景色なのだろうと思いました。
4月なら春の女神ギフチョウにも出会えるかもしれません。珍しいチョウですが、保護されているおかげで意外と目にすることができます。
2021年01月27日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
法印の首塚[奥牧野城 碑・説明板]
三増峠の戦い後の、武田勢の一隊の退路途中に、日向薬師の山伏の100人程度の手勢が、北条氏の日頃の寄進の恩に報いるために、青根で待ち伏せし急襲した。しかし奮戦むなしく、勝快法印を始め多くが討死にした。
現在、「法印の首塚」があり、青根の諏訪神社には山伏たちを祭った八幡宮がある。
昭和44年に勝快法印の御子孫の建立した供養碑が静寂な空間にひっそりと建っている。
(小田原市北条五代にまつわる逸話より)
2021年01月06日 えつー弾正尹
奥牧野城
車を止める駐車場が無いので注意しましょう。
2020年09月29日 内藤主水佑勘解由
奥牧野城
公共交通機関で来られる方は、藤野駅からの路線バスになります。上野原駅からも無生野行きのバスがあるものの、平日朝一本、休日朝昼一本のみのため、推奨できません。あと、近辺にあった東尾垂の湯は既に無くなっています。入浴なら藤野やまなみ温泉がバスで行けます。
2017年12月05日 若狭守きこりん
奥牧野城
神奈川(旧藤野町)と山梨(旧秋山村)の県境の、秋山川の湾曲部に突き出た低く平べったい尾根の上に築かれています。
県道35号の県境付近にある、大きな萬霊塔などが並ぶ石造物スポットが登城口の目印で、ここから細い道を歩いていくと前川橋という吊橋があります。頑丈であまりスリルはないものの眺めは良いこの橋を渡ると、すぐに説明板があり、主郭から落ちてきている切岸も目の前にあります。
後北条氏が武田に対し備えた城とされるようですが、北条らしいテクニカルな要素は特に見られず(かつてキャンプ場として開発された経緯もあるようです)、三方を川に囲まれた尾根筋に幾つかの郭が造成されているシンプルな城です。橋を渡っていった道から見られる切岸はなかなかエッジが効いていて見応えがあります。
2013年04月13日 金沢流北条掃部助源二郎
奥牧野城
相模湖から行くと城手前にふじの温泉東尾垂の湯があり城先にあきやまネスパの温泉施設あり!!
共に良い温泉です(^-^)/