松田頼秀の墓

松田頼秀の墓([奥牧野城  碑・説明板])

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松田頼秀の墓の口コミ情報

2023年10月13日 いれぶん[⭕️雁雁]


松田左衛門尉頼秀墓
永享十一年鎌倉の公方足利持氏は、室町将軍家から敵視され、補佐役である関東管領上杉憲実にも背かれ、幕府方の大軍に攻められて滅亡した。そして管領上杉氏が関東の実権を握った。その上杉氏も四家に分れて対立し、最後に扇谷、山内の両家で争うこととなった。
明応三年九月この戦に出陣する松田頼秀は不幸にもこの山中で路に迷い陣没した。頼秀は龍泉庵に「最近の国法・兵儀の荒廃は悲歎するに余りある。これ以上は言葉にいい尽くすことはできない。持氏将軍以来三代になるが、関東の争乱は激しく、鐸が破れ、◯が削れ、戦死者が山のように積み重なりその血は河のようだ。一時幕府と鎌倉府が仲直りしたが、その家臣共が悪事をたくらみ、また元のようになってしまい、人民の騒動は最早止まないであろう。両上杉が同名でありながら剣を交えること数年続いている。それだけでなく外国からも兵が日本に侵入してきた。 今将に上杉の軍は公方の官軍といっても追罰して、関八州の人々は彼の威を恐れている。自分もこの乱世にあって、偏に将軍を仰ぎ奉り、扇谷上杉殿の陣に馳せ参じようとしたが、山中で運がつき雲霧にさえぎられ、然も敵に四方を囲まれ進退ここに極まってしまった。自分の命も芭蕉の葉のように破れ易く風前の灯である。外間浅間しく本懐でないが、此処で武士として世を果てるが、これらの趣きを披露し弔って貰いたい。」(原文漢文)このような遺言状を宛ている。この遺言状は寛文年中の火災で鳥有となったが、その写と鞍一口、鐙一具が龍泉寺に寺宝として納められてあるという。
昭和五十三年十二月一日
津久井町教育委員会

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