小山田行村の墓
小山田行村の墓([奥牧野城 碑・説明板])
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小山田行村の墓の口コミ情報
2023年10月13日 いれぶん[⭕️雁雁]
小山田八左衛門行村墓
小山田氏は秩父氏の一流で、発祥は小山田荘(町田市小山田)である。
その祖父有重は、はじめ平家に仕え、平家西国落のとき脱出して東国に帰り源頼朝に属して繁栄したが、頼朝没後その家人の対立激しく、建保元年の和田合戦により没落した。
降って十五世紀のはじめに、甲州都留に本拠をすえて再興し、甲斐の守護武田氏と姻戚を結び、独自の領域支配をし、越中守信有が享禄五年居館を中津森から谷村に移して、出羽守信有、その子弥三郎信有がこれを継ぎ、その弟兵衛尉信茂の時、天正十年三月織田の先陣滝川一益に追われた勝頼に反逆した。しかし信茂も織田方に捕えられ斬殺され小山田氏も滅亡した。
八佐衛門は名を行村といい、信茂の従弟と伝えられる。永禄十二年八月信玄公小田原出陣のとき、酒匂川増水のためその瀬浴を仰付けられ、初鹿野伝右衛門と共によくこれを承り殊勲を樹てるなど常に信玄公御旗本に在り、はじめ使者十二人の一人として勇智をもって活躍し、近習を経て隊長となり、勝頼の代には中老の功者と称され、重座にあった。信長は武田滅亡後も強力に残党狩りを行い、その勢力一掃を図ったため、国境を逃れた八左衛門の余命は極めて短く道志川を渡るとき狙撃され悲運な最後を遂げ里人の手によりこの地に弔られた。時は天正十年四月九日で、勇心良誉信士という。
(町田市史、町田歴史と文化財、武田軍記、小山田物語、甲陽軍鑑等から引用)
昭和五十三年十二月一日
津久井町教育委員会
小山田八左衛門・折花姫伝承地①