真篠城(まじのじょう)

真篠城の基本情報

通称・別名

真篠砦

所在地

山梨県南巨摩郡南部町福士

旧国名

甲斐国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

武田信玄

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

主な城主

原大隈守、真篠勇太夫

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、虎口、土橋、馬出

指定文化財

県史跡(真篠城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

大宮城(静岡県富士宮市)[13.2km]
下山城(山梨県南巨摩郡)[17.8km]
奥池ケ谷城(静岡県静岡市)[18.1km]
蒲原城(静岡県静岡市)[18.9km]
小島陣屋(静岡県静岡市)[19.5km]
善得寺城(静岡県富士市)[22.0km]
庵原山城(静岡県静岡市)[22.7km]
菅沼城(山梨県南巨摩郡)[24.0km]
間門城(静岡県富士市)[24.4km]
江尻城(静岡県静岡市)[26.2km]

真篠城の解説文



真篠砦(まじのとりで)、または真篠城(まじのじょう)は、山梨県南巨摩郡南部町福士真篠にあった砦[1]。戦国時代末期の日本の城(山城)。「真篠」は字名。「真篠城跡」の名で山梨県指定史跡[2]

概要 

所在する南部町福士は県南部・河内地方の山間部に位置する。河内地方を南流する富士川右岸の段丘上に立地する篠原集落から北西方向の「城山」に所在する。標高は260メートル付近で、集落との比高差は約50メートル。近世には篠原には福士村が成立する。

甲斐・駿河の国境付近である一帯には城郭が濃密に分布し、福士には真篠砦のほか福士の城山・切久保の畝状竪堀群が所在し、万沢には白鳥山城、南部町十島には葛谷峰砦が所在している。

真篠原砦は東西50メートル、南北40メートルほどの規模で、山麓や尾根上に遺構が分布する。主郭は山頂に位置し、周囲を土塁に囲まれ、北側・南東・南西には虎口を有する。北西に延びる尾根には5つの平坦面が連なり、先端部には竪堀を伴う尾根切が見られる。また、南に延びる尾根上には東西40メートル、南北50メートルの平坦地があり、先端には連続した竪堀が見られる。主郭の東側斜面には数段の平坦地があるが、耕作による破壊を受けている。現在、城域の東側は竹林や檜木林となっている。

主郭南側には竪堀を有する幅10メートル前後の腰郭があり、さらに腰郭南には幅20メートルに及ぶ大堀切がある。大堀切の南側には九本の畝状空堀が所在し、その直下には駿州往還が通過する[3]

連続した竪堀の特徴から戦国末期の築造と考えられている[4]

1936年(昭和11年)刊の『南巨摩郡誌』では信玄期の烽火台とし、武田家臣の足軽大将である原大隅守(虎吉)が警護し、真篠勇太夫の居跡となったとしているが、その根拠は不明。また、望月弥惣兵衛が真篠砦を預かったとする伝承も見られる[5]

天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡し、織田・徳川方に属した河内領主の穴山信君は上方へ赴いていたが、同年6月の本能寺の変により信君は横死した。三河国岡崎城へ逃れた徳川家康は無主状態となった武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。

天正壬午の乱において家康は6月6日に武田遺臣の駿河衆・岡部正綱(次郎左衛門)に命じて穴山氏の本拠である下山館(身延町下山)で城普請を行い、駿州往還・富士川沿いに菅沼城を築城する。同様に、真篠砦も岡部正綱、菅沼定政による修築の可能性も考えられている。

真篠砦から南2キロメートルほどには「城山」があり、『甲斐国志』では「福士城山」として記載している。

2000年(平成12年)3月2日付で県の史跡に指定された。

参考文献 

  • 『日本歴史地名大系19 山梨県の地名』平凡社、1995年
  • 平井聖ほか『日本城郭大系8 長野・山梨』新人物往来社、1980年
  • 山下孝司「甲駿国境の城郭」『甲斐路 No.97』山梨郷土研究会、2000年

真篠城の口コミ情報

2024年02月05日 【国替準備】国府左京大夫城介
南部氏館[真篠城  周辺城郭]



南部氏の始祖である南部光行の居館跡

【歴史】
治承4年(1180)に、加賀美遠光の三男・光行は、石橋山の戦いで源頼朝に与して、南部の地を与えられた。その際に、南部姓を称したという。文治5年(1189)の奥州合戦でも功を挙げて、陸奥の糠部五郡を与えられた。
南部光行には6人の子供がおり、長男の行朝が一戸氏の祖、次男(嫡男)の実光が南部宗家、三男の実長が八戸氏(波木井南部氏)の祖、四男の朝清が七戸氏の祖、五男の宗清が四戸氏の祖、六男の行連の九戸氏の祖となった。
南部光行の三男である実長は、波木井郷(現在の身延町周辺)の地頭職を父親から譲られている。この実長は、日蓮の檀那として有名な人物であり、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を領内の招き入れ、身延山中に草庵(後に身延山久遠寺となる)を造営した。
実長の四男である長義が波木井の地頭職を継承し、波木井氏として、この地を中心として勢力を伸ばしていった。しかし、10代義実の頃に、今川家家臣の九島兵庫頭(福島正成か?)に加担し、大永元年(1521)に武田信虎と戦うも、敗北する。逆に、大永7年(1527)12月に武田信虎に攻め込まれ、討ち死に波木井氏は滅亡した。
なお、波木井氏の血筋は滅んではなく、武田氏滅亡後に、身延の地に戻り、帰農したようである。

【遺構】
真篠城の北に約4.1kmに位置する居館で、その西側には詰城である南部城山がある。
江戸時代の記録によると、「東西一丁余(約109m)南北四十間(約72m)とあり、土塁、泉水、堀があったが今は埋められ窪地となっている。北方には差し渡し七尺(約2.1m)の掘り抜き井戸が残り云々」とあり、現在も井戸だけが残っている。

【感想】
南部氏発祥の館ですが、現在は井戸のみが残るだけで、それ以外の遺構は全く残っていません。
この屋敷もいつまで使われていたかは不明ですが、井戸はかなりしっかりとした状態で残っており、背後には南部城山もあることから、武田信虎に滅ぼされるまでは使用されていたのではないかと思っています。

【アクセス】
内船駅から徒歩で約25分。

【写真】
①説明板
②標柱
③井戸

2024年01月22日 【国替準備】国府左京大夫城介
南部城山[真篠城  周辺城郭]



甲駿の国境付近に築かれた狼煙台を兼ねた山城

【歴史】
築城者、築城年代は不明。
武田氏の烽火台として、甲駿の国境である十島葛谷峠、白鳥山からの中継点として用いられていた。

甲斐に残った南部氏の末裔である波木井(はきい)氏がこの辺りを治めていたが、大永7年(1527)に今川氏と通じたため武田信虎に滅ぼされた。その後、南部領は穴山氏が治めている。


【遺構】
真篠城から北に4.2kmに位置する山(標高220m/比高100m)に築かれており、城内は南側の古城と北側の本城に大きく分かれている。
古城は南東から北西にかけて細長く伸びており、その両端には物見台のような平場がある。また、その間には複数の小さな曲輪を設けている。
本城と古城の間は深い谷となっており、容易に往来ができないようになっている。谷底には両脇を土橋にし、中央を窪ませた空堀がある。
本城の南北には、それぞれ堀切が設けられている。主郭部分には土塁等も残っている。主郭から更に北へ下ると使われなくなった給水所があり、その先の高台が狼煙台跡となっている。本城の東西の斜面には複数の段曲輪が設置されている。

【感想】
かつては公園として整備されていた(しようとした?)らしいが、現在は荒れ放題となっている。そのため、藪に覆われている場所が多いので、冬場に登城することを推奨します。
登城口は南部中学校の背後を通る林道の途中に公園の入口があるので、そこから登るとことができます。
公園といっても、遊歩道を作って自然を観察する目的のようなので、城の遺構に関しては、給水所付近を除けば良く残っています。個人的には、谷底にある両脇を土橋で囲った空堀や、主郭の南北にある堀切は十分に見応えがあります。

古城は堀切や土塁といった物は見受けられず、かなり古いタイプの山城であり、南部氏(波木井氏)が詰城として築いたものと考えられます。一方で、本城は空堀、土塁、堀切を備えており、狼煙台の用途もあるが駿河方面からの侵攻を防ぐために武田氏によって築かれた城と思われます。

【アクセス】
内船駅から登城口まで、徒歩35分程。
登城口付近に駐車できるスペース有。

【写真】
①遠景
②登城口
③古城の平場
④谷底の空堀
⑤主郭南側の堀切
⑥主郭の石積
⑦主郭北側の堀切(竪堀)
⑧狼煙台

2022年07月19日 OROKA参議
真篠城

車道は細くて心配になりますが、その先の駐車場は2台分くらいキレイに整備されてました。そして林の奥に入ったらヒルが大量にうじゃうじゃ、戦意喪失して城域に入れもせず撤退。
駐車場目の前宅のお方(城の土地所有者とのこと)曰く「夏は絶対に無理」。悔しいので、真冬にリベンジします!

2022年01月31日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
真篠城



もう道がなく、ひたすら上を目指して歩くと本曲輪などに着きます。本曲輪は高い土塁に囲まれていて、丸子城に似ているような気がします。

2021年07月25日 八咫烏掃部助
南部氏展示室[真篠城  その他]



南部城の御城印も販売してます。
道の駅南部で販売してます。

2021年07月25日 八咫烏掃部助
南部氏展示室[真篠城  その他]



南部氏の歴史資料館です。
銅像もあります。

2019年06月05日 龍馬備中守【感謝】
真篠城



南の曲輪東側・大堀切☆甲斐・駿河の国境付近である一帯には城郭が沢山☆直ぐ下には駿州往還が通過する☆

2019年06月04日 龍馬備中守【感謝】
真篠城



南の曲輪の畝堀群☆目視で確認出来たのは7本☆信玄様の命により造られる☆家臣の原大隅守が守備☆烽火台として機能していた様で周辺の砦との連絡に必要な拠点性を備える☆

2017年12月27日 太政大臣きこりん
真篠城

真篠城から少し離れた仲間地区に、外郭遺構とも言えるものがあります。
台地の平場と急斜面の間のテラス状の平坦地に、蒲鉾を並べたような格好で、越後によく見られる畝型阻塞に類似したもので、真篠城南曲輪の畝状竪堀とは一味違うものです。表面は拳大〜人頭大の丸石で覆われ、内部もかなりの部分石が詰まってるように見え、古墳かとも思える不思議な代物です。去年出版された『甲信越の名城を歩く・山梨編』でも言及されてますが、真篠城に付随する遺構と断定はされていません。
行き方は、国道52号の富栄橋西交差点を山側に入りすぐさま右折、城跡に向かっていくと、案内板がある右折ポイントの手前に「墓参りの皆様へ 奥の駐車場を利用ください」と書かれた看板があります。ここを入っていくと駐車場があり、細い歩道の先に墓地があります(駐車場はあくまで墓地のもの。私は城跡駐車場から歩いていきました)。この墓地の裏手の茶畑の向こうに遺構があります。
真篠城本体は、平坦地から斜面にかけて築かれた畝状竪堀、主郭と2郭の高い切岸など、多くの素晴らしい遺構が残る山梨屈指の山城ですので、ぜひ一度登城されてください。

2017年05月10日 ひとのもん
真篠城

国道から真篠の集落の先にある駐車場までは幅1台分ほどの登り坂で、先人の口コミの通り点々と案内板が出ています。
途中に縄張り付きの説明板もあるのですが、駐車場まではまだ200mほどあるので、自分は写メだけ撮って先へ進みました。
辿り着いた駐車場は時期が悪かったのか草が茂っていたので2台入れるのは厳しいかな。
すぐに『大手入口』の案内板がありますが、この先は案内板や説明板が全くありません。下草は払われた山の中を幾つかの石積みや段郭にかけられた土橋、本丸の枡形に足を止めつつ彷徨い歩き、南の曲輪の畝状阻塁に着いた時点で30分経っていました。

2012年06月05日 三日左馬助落人
真篠城

国道52号の富栄橋西交差点を山側に上がってゆくと点々と案内板があり、2台程度のスペースもあります。
下草をあらく刈ってはくれているようですが、探索にはヤブに入るつもりの準備をお勧めします。ヒルもいるのでご注意

ただ、南側の畝状竪堀はかなり特徴的で、異様とも思えるような遺構が確認できます。
城跡の麓にある縄張り図は少し古いようで、実際に歩いてみると、若干不正確な部分もあるように感じました。

真篠城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 南部城山(周辺城郭)

 南部氏館(周辺城郭)

 葛谷城(周辺城郭)

 福士の城山城 (金毘羅山砦)(周辺城郭)

 井手城山城(周辺城郭)

 万沢口留番所(寺社・史跡)

 天神堂遺跡(寺社・史跡)

 十島口留番所(寺社・史跡)

 十島口留番所 (戸栗屋敷)(寺社・史跡)

 武田信玄供養塔(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 南部氏展示室(その他)

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