南部氏館
南部氏館([真篠城 周辺城郭])
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南部氏館の口コミ情報
2024年02月05日 国府左京大夫城介
南部氏の始祖である南部光行の居館跡
【歴史】
治承4年(1180)に、加賀美遠光の三男・光行は、石橋山の戦いで源頼朝に与して、南部の地を与えられた。その際に、南部姓を称したという。文治5年(1189)の奥州合戦でも功を挙げて、陸奥の糠部五郡を与えられた。
南部光行には6人の子供がおり、長男の行朝が一戸氏の祖、次男(嫡男)の実光が南部宗家、三男の実長が八戸氏(波木井南部氏)の祖、四男の朝清が七戸氏の祖、五男の宗清が四戸氏の祖、六男の行連の九戸氏の祖となった。
南部光行の三男である実長は、波木井郷(現在の身延町周辺)の地頭職を父親から譲られている。この実長は、日蓮の檀那として有名な人物であり、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を領内の招き入れ、身延山中に草庵(後に身延山久遠寺となる)を造営した。
実長の四男である長義が波木井の地頭職を継承し、波木井氏として、この地を中心として勢力を伸ばしていった。しかし、10代義実の頃に、今川家家臣の九島兵庫頭(福島正成か?)に加担し、大永元年(1521)に武田信虎と戦うも、敗北する。逆に、大永7年(1527)12月に武田信虎に攻め込まれ、討ち死に波木井氏は滅亡した。
なお、波木井氏の血筋は滅んではなく、武田氏滅亡後に、身延の地に戻り、帰農したようである。
【遺構】
真篠城の北に約4.1kmに位置する居館で、その西側には詰城である南部城山がある。
江戸時代の記録によると、「東西一丁余(約109m)南北四十間(約72m)とあり、土塁、泉水、堀があったが今は埋められ窪地となっている。北方には差し渡し七尺(約2.1m)の掘り抜き井戸が残り云々」とあり、現在も井戸だけが残っている。
【感想】
南部氏発祥の館ですが、現在は井戸のみが残るだけで、それ以外の遺構は全く残っていません。
この屋敷もいつまで使われていたかは不明ですが、井戸はかなりしっかりとした状態で残っており、背後には南部城山もあることから、武田信虎に滅ぼされるまでは使用されていたのではないかと思っています。
【アクセス】
内船駅から徒歩で約25分。
【写真】
①説明板
②標柱
③井戸