下山城(しもやまじょう)
下山城の基本情報
通称・別名
- 穴山氏館、下山氏館
所在地
- 山梨県南巨摩郡身延町下山
旧国名
- 甲斐国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 秋山(下山)光重
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 下山氏、穴山氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 町史跡(下山城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
菅沼城(山梨県南巨摩郡)[6.3km]
本栖城(山梨県南都留郡)[16.6km]
真篠城(山梨県南巨摩郡)[17.8km]
中野城(山梨県南アルプス市)[19.9km]
勝山城(山梨県甲府市)[25.3km]
大宮城(静岡県富士宮市)[26.1km]
小山城(山梨県笛吹市)[30.0km]
甲府城(山梨県甲府市)[30.4km]
奥池ケ谷城(静岡県静岡市)[31.5km]
湯村山城(山梨県甲府市)[31.8km]
下山城の解説文
下山城の口コミ情報
2023年02月04日 ruiw0302
下山城
口コミの書き込みだいぶ遅れるも、梅雪公を話したく投稿申し上げ候。人気のない感じの受ける穴山梅雪公、信玄公の次女を正室にし武田二十四将の公に一筆。
まず本城は駿河往還の身延山近くの富士川近くに位置し、場所もわかりやすく駐車場も広い。館跡には本国寺が建立され、日蓮手植えの天然記念物の銀杏の樹が立っている。
梅雪公は、信玄公亡き後の武田家家臣団の折り合いがつかなかったのかと思われる。長篠合戦での不穏当な行動、それでも甲州征伐では巧みにお家を存続させたのは慧眼と言える。にも拘らず、まさかの本能寺の変で遠く宇治で名も無き相手に殺害されてしまう儚さ。これもまた戦国の天国から地獄のひとつの出来事かと、梅雪公が暮らしていた居城の景色を見たくて訪れてみた。
冬の雨模様の日、参道脇に並べられた無縁仏墓石の中の不動明王が印象的だった。
2023年01月02日 マグロ常陸介祐平
波木井氏館[下山城 周辺城郭]
身延山久遠寺の開基、波木井実長の館跡です。郭と竪堀の様な地形が見られます。入口に波木井実長の供養塔があります。
2022年10月08日 菊左近衛少将
下山城
先の方の投稿を見て、お寺の門をよけ、駐車場へ。立派な銀杏がありました。
2020年01月12日 青空仰
下山城
記念すべき1城目のレポート。
【行き方】
・国道52号を甲府方面から行くと、クラフトパーク(道の駅みのぶ)の信号をさらに南進すると下山歩道橋があり、左側に「お葉つき銀杏」の案内のあるところを右に曲がります。すぐの突き当たりが目的地です。
(写真5)
・Googleのナビで行くと、そのちょっと先の信号右折を案内しますが、「お葉つき銀杏」の看板からのほうがよいです。
・もし、信号まで行ってしまったら、直進ではなく、右斜の道に入ってください。
(写真1)
【駐車場・トイレ】
・駐車場は広大です。何十台もとめられます。
(写真4)
・トイレはないため、クラフトパーク(道の駅みのぶ)がよいでしょう。
【見所】
・遺構が残されていないため、案内を見て往時を偲ぶしかありません。
(写真2)
【観光・食事・特産品】
・身延駅前の栄昇堂がオススメです。
・ジャンル:身延まんじゅう。
2017年12月26日 日高守きこりん
下山城
穴山氏館のあった本国寺から少し離れた所に焔硝倉跡と伝わる場所があります。
国道52号から富士川クラフトパークに向かうと、パークの駐車場手前に焔硝倉橋という橋があり、その橋の真下がその場所です。
小さな土壇があり、試掘調査の結果などが記された説明板も設置されています。
パーク駐車場から歩いていくといいでしょう。
2016年07月26日 みのみの美濃守@流浪人
下山城
下山城入り口の目印は、国道52号線の「下山歩道橋」が大きな目印です。甲府方面からだと左側に、静岡方面からだと右側に「お葉付き銀杏」の小さな看板があり、道路を挟んだ反対側の車一台分の道を入った突き当たりのお寺が城跡です。
説明文には「遺構は消滅」となっていますが、お寺を正面に見て右側に保育園があり、その脇に竹藪がありますが、その竹藪こそが空堀跡になります。
反対側(お寺を正面に見て左側)には広い空き地がありますが、その脇に説明板と石碑があります。
本国寺は穴山氏の城跡であり、矢沢川と天川に挟まれたところになる。鎌倉期には甲斐源氏の下山光基の館で、日蓮宗に帰依した寺院となった。その後、穴山氏の居城となり、下山一帯が城下町として整備された。
近世の絵図から、穴山氏の館は本国寺境内と河内路を二重の土塁で囲んでいたことがわかる。堀や土塁の一部は保育園の東側に遺っている。
下山には一宮賀茂神社や南松院、龍雲寺、天輪寺、新長谷寺、境宮など京都の寺社を擬して創建したと伝えられ、今に残る土地区割りにも計画的な城下町整備がなされたことがうかがえる。
明治の初年学校建築の際、切り石等が地中より掘り出されたと伝えられている。