鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)
鶴ヶ岡城の基本情報
通称・別名
- 鶴ケ岡城、鶴岡城、大宝寺城、大梵寺城
所在地
- 山形県鶴岡市馬場町
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 輪郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 大泉氏(武藤氏)
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- 直江兼続、最上義光、酒井忠勝
主な城主
- 武藤氏、上杉氏、最上氏、酒井氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、藩校、庭園
指定文化財
- 国史跡(藩校)、国の名勝(三の丸庭園)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
出羽丸岡城(山形県鶴岡市)[5.3km]
横山城(山形県東田川郡)[5.8km]
尾浦城(山形県鶴岡市)[6.2km]
藤島城(山形県鶴岡市)[8.0km]
平形館(山形県鶴岡市)[8.5km]
狩川城(山形県東田川郡)[14.7km]
大網館(山形県鶴岡市)[16.3km]
立谷沢城(山形県東田川郡)[16.4km]
松山城(山形県酒田市)[18.7km]
砂越城(山形県酒田市)[19.5km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- (続)108 鶴ヶ岡城
設置場所
- 荘内神社社務所[地図]
鶴ヶ岡城の解説文
[引用元:Wikipedia「鶴ヶ岡城」の項目]
鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城(平山城)。
概要
城は鶴岡市街地のほぼ中心に位置する。江戸時代は庄内藩の藩庁であった。他の東北地方の城と同様に土塁を多用し、石垣は主要な部分にしか用いられていなかった。また、天守は構えられなかったが、本丸東北隅に2層2階の隅櫓と二の丸南西隅にも2層2階の隅櫓が建てられていた。
現在、本丸・二の丸跡周辺は鶴岡公園となっており、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。鶴岡公園には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)、藤沢周平記念館がある。三の丸跡には致道博物館があって酒井家伝来の美術品などが展示されており、酒井家御用屋敷跡庭園が整備され国の名勝に指定されている。鶴岡公園南東には藩校「致道館」が残っており、東北地方に唯一現存する藩校として国の史跡に指定されている。
周辺には市役所、鶴岡市文化会館、山形県立鶴岡南高等学校、山形県立鶴岡工業高等学校、鶴岡タウンキャンパス(慶應義塾大学先端生命科学研究所、致道ライブラリー、東北公益文科大学大学院)、鶴岡アートフォーラム(芸術展示施設)などが立地する。
歴史・沿革
大宝寺城
鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。室町時代初期になると武藤長盛なる武将が出てこの地に権勢を振るった。
戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、その地位は不安定であった。天文元年(1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移した。そして大宝寺城はその支城の一つとなった。 その後、越後の上杉氏と手を組み、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)あっけなく併呑された。
上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされた。天正18年(1590年)検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きた。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させた。
鶴ヶ岡城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏は西軍に加担した罪により会津120万石から米沢30万石に減封され、代わって庄内地方を支配したのは山形城を本城とする最上義光である。義光は24万石から57万石を領有する大大名となった。義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張した。慶長8年(1603年)各城の整備が整うと、酒田浜に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。また同時に尾浦城も大山城と改称された。最上氏は3代義俊の元和8年(1622年)に、お家騒動(最上騒動)があり、改易となった。
旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。本丸内には御殿と北西隅の二重櫓が天守代用としてあり、他に単層2階の他門櫓が2基上がり本丸の城門は櫓門が上がっていた。二の丸東南隅に2重櫓、二の丸の城門も全て櫓門であった。宝永元年(1704年)には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することができた。
文化2年(1805年)、9代忠徳は藩校「致道館」を設けた。文化13年(1816年)には現在地である三の丸に移転された。文政7年(1824年)、柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。天保11年(1840年)幕府より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国長岡城への移封を命じられた。しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり(天保義民事件)命令は取り下げられた。慶応4年(1868年)1月より始まった戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍を迎撃、寝返った久保田藩を相手に勝利を続けたが、会津藩ら他の味方が降伏したことで9月25日に降伏した。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、明治9年(1876年)には城内の建築物は全て破却され鶴岡公園となった。明治10年(1877年)本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられた。また、大正4年(1915年)には大宝館が建てられ、市立図書館として昭和60年(1985年)まで活用された。現在は鶴岡出身の著名人の資料館となっている。昭和25年(1950年)には致道博物館が三の丸跡に開設した。昭和26年(1951年)藩校致道館が国の史跡に指定された。三の丸跡に残る酒井家御用屋敷跡庭園は酒井氏庭園として昭和51年(1976年)に国の名勝に指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(108番)に選定された。
参考文献
- 【書籍】「定本 日本城郭事典」
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鶴ヶ岡城の口コミ情報
2024年10月14日 hiroppie左近衛少将
鶴ヶ岡城
荘内神社社務所でスタンプ、御城印がゲットできます。御朱印も記入していただけます。公園外の無料駐車場に停めましたが、他の方は神社入り口まで車で入り、駐車されていました。公園周辺にも致道館等歴史的建造物があるので、ゆっくり散策されることをおすすめします。
2024年08月15日 おりゅう中務卿
鶴ヶ岡城
とても整備されていて、気持ちよく散歩できます。諸施設は水曜日定休日でした。
2024年06月16日 七代目尾張守宗春
「金峯石」説明板[鶴ヶ岡城 碑・説明板]
庄内平野の南端に位置している金峯山(標高471m)から切り出された花崗岩は【金峯石】と呼ばれる。
2024年05月13日 下総守風林火山
鶴ヶ岡城
駐車場も完備され無料で停められるようなので大変良いと思います。
2024年05月05日 烈❤️烈美
鶴ヶ岡城
到道博物館も合わせて見学すると、より一層、鶴ヶ岡城の理解が深まります!
2023年09月07日 RED副将軍
鶴ヶ岡城
庄内藩主として約250年間続いた酒井氏の居城🏯
続日本100名城
築城年代は不詳。鎌倉時代初期に武藤長盛によって築かれた大宝寺城が始まりとされます。
出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏平が土着し武藤氏平を名乗ったのが、大宝寺武藤氏の始まりであり、その子孫が武藤長盛です。
1532年、砂越氏維による侵攻で大宝寺城は焼失。武藤晴時は尾浦城に居城を移し大宝寺城はその支城となりました。
その後、武藤氏は越後の上杉氏と手を組み庄内地方を統一するも、1583年に最上義光と結んだ家臣の前森蔵人らの謀反により当主の武藤義氏は自害に追い込まれ武藤氏は滅亡。
その後は庄内地方は最上義光と上杉景勝の争奪戦となり、上杉景勝の支配となりました。
1601年、関ヶ原の戦いで西軍に付いた上杉景勝は減封され、代わって庄内地方は最上義光の所領となると、大宝寺城は隠居城として整備改修され鶴ヶ岡城と改称されました。
1622年に最上氏はお家騒動により改易となり、代わって信濃国松代から酒井忠勝が入封。鶴ヶ岡城を居城として庄内藩の中心としました。酒井氏は鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修し、三の丸を増築し、城下町を整備。
酒井氏の統治が明治に至るまで十二代続きましたが、1871年の廃藩置県により廃城となり破却されました。
見所
現在は鶴岡公園として整備され、本丸には荘内神社が鎮座しています。
本丸を中心に二の丸、三の丸が囲む輪郭式平城であり、鶴岡公園が本丸と二の丸にあたります。
土塁と水堀が廻らされており、門や櫓台の一部に石垣が使用されています。
南東部には庄内藩の藩校である致道館、西側には酒井氏庭園が残っています。
2023年08月17日 すっとこ織部正先生
鶴ヶ岡城
鶴岡市の中央に位置する鶴岡公園が鶴ヶ岡城址です。現在は堀の内側に荘内神社が鎮座しています。御城印は荘内神社で扱っていますので、参拝ついでにどうぞ。神社の宝物殿は無料開放されて、戦国時代の武具などが見られます。観光ついでにどうぞ。
2023年07月02日 ほよよ常陸介
鶴ヶ岡城
ほぼ神社と一緒で石垣などはありますが、お城というよりは神社ですね。藤沢周平記念館も併設されていますし。
2023年05月27日 ゆきぽん宮内少輔
鶴ヶ岡城
ここしばらく公園整備の工事が続いてます。8月の荘内大祭までは完成してほしいなあ。きれいになったら皆様来てくださいね😃
2023年05月27日 左近衛中将ペネロペ
鶴ヶ岡城
酒井家の居城。荘内神社に酒井忠次が祀られてます。水堀が綺麗で隣接する致道博物館では鶴ヶ岡城のミニチュアを見ることができます
2023年05月13日 幸太朗ちゃん
鶴ヶ岡城
天気が良くて散策にとても良かったですよ。
2022年11月08日 はむはむ
鶴ヶ岡城
令和4年現在、公園整備中。何か綺麗に作ってるみたいですが何ができるかはまだ謎です。春までにはできるのかなあ。
2022年07月03日 肉肉肉野菜炒め
鶴ヶ岡城
7月に訪問。神社が⛩中心になっており落ち着いた公園みたいな感じです。七夕飾りや紫陽花などで賑わってました。
2022年02月28日 陸奥守新九郎
鶴ヶ岡城
雪中行軍で遺構は確認できませんでしたが、二重の堀に囲まれた、コンパクトで良いお城でした。江戸藩邸から移築された建物群、藩校も見応え十分です。が、今度は雪のない時期に来たいです。
2021年11月28日 ファン掃部助トム治郎
鶴ヶ岡城
駅まで徒歩20ふんかかります。列車は少ないのでおきをつけて。
2021年09月19日 曲輪大膳大夫削平
鶴岡公園前駐車場[鶴ヶ岡城 駐車場]
戦前は水田、昭和30年代からはバラ園だったようです。平成24年にバス、身障者用駐車場として整備。堀跡を示すように石が並べられています。2021.7.22
2021年07月27日 生駒讃岐守江現蔵✿
お城稲荷[鶴ヶ岡城 寺社・史跡]
宝永5年(1708年)創建。鶴ヶ岡城内に鎮座する神社で、唯一の現存建築物です。
六代藩主酒井忠真が、城内鎮守として社殿を建立しました。明治に入りお城は取り壊されましたが、神社は残りました。商売繁盛・五穀豊穣のご利益があり、たくさんの朱色の鳥居が特徴的でとても綺麗です。
2021年06月28日 mootze
鶴ヶ岡城
荘内神社の、4種類の御朱印帳、春夏秋冬バージョンで、どれも、綺麗な帳面です。お城をイメージしているのですが、御城印帳が、欲しかったです、お参りの際は、是非見てください。
2021年06月19日 萌魏太閤叡声
鶴ヶ岡城
城域には荘内神社や大宝館、藤沢周平記念館、城濠外には、藩校致道館や致道館博物館など文化施設も充実、濠や馬場跡など遺構も整備。でも惜しいことに城を示す建造物がない。天守閣造れとは、言わないが櫓の一つや城門を復元すれば、"海坂藩"気分も盛り上がるのに...
2021年05月29日 副将軍お城エリコ
鶴ヶ岡城
荘内神社社務所に続日本100名城のスタンプと御城印(500円)が有ります。
2020年11月01日 イーグル大蔵卿
鶴ヶ岡城
10月下旬だったが、天気もよく暖かい日なので鶴ケ岡城公園は子供連れや、アベックなど人出が多かった。また、城内の荘内神社では、七五三で賑わってました。スタンプは社務所にあり、御朱印を受けている巫女さんも大忙しでしたが、親切に対応して頂きました。
2019年11月27日 まー刑部卿
鶴ヶ岡城
2回目の登城。鶴岡公園東駐車場に駐車。鶴岡公園内は駐車禁止と書いてありましたが荘内神社前や二ノ丸跡にも地元の車が多く停まっていました。それでも周辺に多くの無料駐車場がありますので安心して駐車してください。城内は説明板がなく公園という印象で園内の大宝館や致道博物館、藩校致道館、鶴岡カトリック教会、風間家丙申堂・釈迦堂といった和洋建築の建物に目がいってしまいます。大宝館の辺りは荘内神社前駐車場の出入口のため車の往来が平日でしたが頻繁にありました。注意しながら周られるといいと思います。続百名城スタンプは荘内神社社務所前にあります。
2019年08月07日 中務卿一之介
鶴ヶ岡城
公共交通機関ご利用の場合
羽越本線鶴岡駅から、庄内交通バスで約10分、鶴岡市役所前バス停で下車。徒歩約5分で本丸跡に建つ荘内神社に着きます。バス停のすぐ前には庄内藩校致道館があり、内部も含めて無料で見学できるので、本丸に行く前に立ち寄るとよいと思います。
バスは1時間に1,2本ですが、列車の本数が特急を含めても少ないので、時刻はよくご確認ください。
2019年05月05日 織田上総介晃司
鶴ヶ岡城
車は鶴ヶ岡城の西にある致道博物館の駐車場に停めました。
付近にはモダンな建物が多く、城内の大宝館をはじめ致道博物館には旧鶴岡警察署や旧西田川郡役所などが存在する。
直木賞作家藤沢周平は鶴岡市出身で鶴ヶ岡城のある庄内藩(鶴岡藩)を舞台に数多くの小説を執筆している。
作品では庄内藩=海坂藩となっております。
2019年04月23日 余語出羽守
鶴岡公園前駐車場[鶴ヶ岡城 駐車場]
無料で15台程停められます。元々は川があり、鯉が優雅に泳いでいましたが、最近は埋め立てられて駐車場になっています。普通車には大き過ぎる区画線ですが、しっかりと輪留めあります。区画線や輪留めが無い所にも駐車可能なようです。
2019年04月23日 余語出羽守
公衆トイレ[鶴ヶ岡城 トイレ]
最近出来たので、比較的綺麗です。
2019年04月23日 余語出羽守
公衆トイレ[鶴ヶ岡城 トイレ]
最近出来たので、比較的綺麗です。
2018年07月21日 征夷大将軍〜٩(ˊᗜˋ*)و
鶴ヶ岡城
続百名城スタンプの窓口、荘内神社社務所ですが、営業時間は9:00に行かなくても、窓口が開いていたら、9時前でも押す事は可能です(σ^_^)σ
2018年06月24日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
鶴ヶ岡城
続百名城スタンプは、荘内神社社務所の札所窓口カウンターの上に置いてあります。スタンプが赤色なんでビックリしました。
2018年05月15日 武蔵守マクシミリアン
鶴ヶ岡城
二重の堀に囲まれた城郭が残っています。周辺には明治以降のモダンなレトロ建物もあります。堀の内側には慶應義塾の先端生命科学研究所や藤沢周平記念館などお洒落な現代建築も並んでいます。
2016年10月01日 【隠者】史学会帰新参
鶴ヶ岡城
致道博物館には展示はされていないが破軍星旗が所蔵されています。
この旗は幕末、佐幕方奥羽越列藩同盟で最強部隊である庄内藩二番大隊の隊旗です。北斗七星をデザインした旗で、破軍星に向かうと必ず負け、破軍星を背にすると勝つ中国の言い伝えがあり、大隊長の酒井玄蕃(通称吉之丞)が自らデザインした旗です。酒井玄蕃は徳川四天王の酒井忠次の末裔で、戦場での卓越した指揮と勇猛な戦いぶりから鬼玄蕃といわれました。当時26歳で写真を見ると鬼とは思えない優男でした。
庄内藩は豪商本間家の援助を受けて、西国列藩と同等以上の洋式銃を装備しました。秋田藩が寝返ったあと、庄内藩は2番大隊以下の各部隊が秋田に向けて進軍します。当初は装備の劣る秋田藩相手に圧倒しました。その後秋田に増援部隊が次々に到着して秋田の手前で戦線は膠着します。雄物川の戦いで庄内藩の武勇を見せつけたあと、巧妙に撤退しました。東北戊辰戦争では庄内藩は領内に敵の侵入を防いだまま降伏します。破軍星旗の旗が戦場に見えると敵は恐れ、味方は奮い立ったといわれています。
北斗の旗をなびかせた庄内藩二番大隊は戦場で無敗であり、佐幕方最強の部隊でした。
2010年08月12日 傾奇揚げ仙兵衛
鶴ヶ岡城
鶴岡城址としてのPRが少なくちょっと物足りない。山形の人は掘りで魚釣りをするのですね。
鶴ヶ岡城の周辺スポット情報
御角櫓跡(遺構・復元物)
旧致道館(遺構・復元物)
酒井氏庭園(遺構・復元物)
二の丸大手門(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
旧風間家住宅(丙申堂)(遺構・復元物)
三の丸(遺構・復元物)
二の丸西門(遺構・復元物)
御金蔵櫓跡(遺構・復元物)
本丸中門(遺構・復元物)
内堀(遺構・復元物)
土塁?(遺構・復元物)
鶴ケ岡城復元図(碑・説明板)
本丸渡櫓跡(碑・説明板)
鶴ケ岡城址碑(碑・説明板)
代官町口木戸跡(碑・説明板)
高畑口木戸跡(碑・説明板)
新形口木戸跡(碑・説明板)
万年橋口木戸跡(碑・説明板)
大山街道口木戸口跡(碑・説明板)
三の丸大山街道口塩硝蔵跡(碑・説明板)
鍛冶町口木戸跡(碑・説明板)
元曲師町口木戸跡(碑・説明板)
十日町口木戸跡(碑・説明板)
三日町口木戸跡(碑・説明板)
五日町口木戸跡(碑・説明板)
荒町口木戸跡(碑・説明板)
二の丸外北門跡(碑・説明板)
旧荘内藩七つ蔵跡(碑・説明板)
二の丸大手門跡(碑・説明板)
中ノ橋跡(碑・説明板)
本丸内北門跡(碑・説明板)
本丸御殿御玄関跡(碑・説明板)
馬出跡(碑・説明板)
「金峯石」説明板(碑・説明板)
お城稲荷(寺社・史跡)
荘内神社社務所(御城印)
鶴ケ岡城スタンプ(スタンプ)
公衆トイレ(トイレ)
公衆トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
公衆便所(トイレ)
鶴岡公園前駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
鶴岡公園中央駐車場(駐車場)
鶴岡公園南駐車場(駐車場)
大宝館(関連施設)
新百間堀(その他)