山中要害山城(やまなかようがいさんじょう)
山中要害山城の基本情報
通称・別名
- 要害山城、富山要害山城、富山城、重蔵山城
所在地
- 島根県大田市富山町山中
旧国名
- 石見国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 富永元保
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 富永元保
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、竪堀、井戸跡
指定文化財
- 市史跡(富山要害山城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
石見銀山城館(島根県大田市)[19.1km]
半分城(島根県出雲市)[21.2km]
茶臼山城(島根県雲南市)[21.2km]
日倉城(島根県雲南市)[21.9km]
宇龍城(島根県出雲市)[23.7km]
鳶ヶ巣城(島根県出雲市)[27.0km]
三刀屋氏城館(島根県雲南市)[27.5km]
福光城(島根県大田市)[27.5km]
温湯城(島根県邑智郡)[28.0km]
赤穴瀬戸山城(島根県飯石郡)[28.5km]
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山中要害山城の解説文
山中要害山城の口コミ情報
2022年07月01日 内大臣尼子保久
山中要害山城
今日から御城印が販売されると聞いて早速ゲットしました。販売場所は少し離れたJR大田市駅内の観光案内所でした。皆さんお間違いなく。その他、山吹城などの石見銀山関連の城の限定版や福光城も大田市内の各観光案内所で販売してました。
2021年09月12日 ビーンズマン左兵衛督
鶴ヶ城[山中要害山城 周辺城郭]
出雲と石見の境にある。整備されて公園化をしていたが、荒れてきている。登山道はセメントで固められているが、土がかぶったり、草がセメントを突き破ったりで荒れてきている。遺構は、本丸以外わかりづらい。
2021年06月20日 ビーンズマン左兵衛督
山中要害山城
山の途中までは車道があるが、竹や草が道端にぼうぼうのため、途中の山中要害山城登山用の駐車場に駐車することをオススメする。丸太の階段がつくられ整備されているが、年月が経ちてきている。本丸下に柱石という柱状節理がある。
地理
出雲と石見の国境付近に位置し、境目の城と言えるだろう。主郭からは日本海を一望にでき、南には遠く三瓶山を望むことができる。歴史・沿革
山中要害山城のある大田市富山町山中は、周辺の富山町才坂・神原、朝山町仙山・朝倉、久手町波浪(波浪西・東)の七村とともに、中世には波禰庄(荘園)であった。この地は出雲と石見の国境に位置し交通の上でも非常に重要な地域であった。日本海に面した朝山町仙山の枝郷の島津屋には関所が置かれ、永禄4年(1561)には尼子氏の家臣、牛尾久清が守備にあったており、天正3年(1575)には島津家久も島津屋の関所を通っている。また山中要害山城の麓を流れる田儀川は、出雲市多伎町へ流れており、両者の関係も密接である。
城主として伝わるのは富永山城守元保である。富永氏は尼子の家臣であったが弘治2年(1556)に毛利氏に降ったという。富永山城守はその後の尼子復興戦の時には、毛利方として攻撃を防いだとも伝わるようにその後も存続しており、波根の苅田神社の天正10年(1590)銘の棟札に富永山城守の名がみえる。
年未詳だが毛利隆元書状に「山中城番之儀」が見える。隆元は田原越中守に対して、山中城の番について命じ、福永父子にも番屋を建設し、在城を命じている。隆元は永禄6年(1563)に亡くなっているので、それ以前のものと考えられる。
山中は比較的開けた土地で、北東側に山中要害山城、南東側に才坂要害山城がある。そのため「山中城」がどちらを指しているかは断定しがたいが、城の普請具合から判断すると、山中要害山城の方が丁寧な作りで、長期間使用された気配があるため、山中要害山城のことと考えたい。
構造
最高所が主郭で円形となっている。現在ここには展望台が設置されているため地形に改変が加えられているかもしれない。虎口は主郭北側と考えられる。西側にも降り口があるが、これは後世の改変であろう。主郭北側に比較的大きな曲輪がある。東側はかなり平坦に普請され、井戸跡と言われるところもある。その東側には北東側へ降りる通路や、さらに南東側へ降りる道も確認でき、その付近には石積みも確認できる。本来はこちらが大手になるのであろう。
北東側尾根には数段曲輪が確認できるが一部、崩落しているところもある。主郭の北及び西側にも曲輪が確認できる。西側には「柱石」と呼称される柱状節理を見ることができる。そのためこの付近では竪堀状に見える部分も確認できるが、下方へ延びる柱状節理の窪みと考えられる。なお主郭南側には温風穴が存在する。
特徴
主郭は改変の可能性もあるが、比較的大きい曲輪で北東側の曲輪には石積みを伴う虎口があり、周辺の曲輪はかなり丁寧な普請が施されている。出雲石見国境の城として、文書に見えるように毛利氏による攻略後も番衆が置かれたと考えられる。出雲の真山城(松江市)でも、毛利氏による攻略後に番衆を置き普請した事例が確認でき、石積みなどが確認されている。山中要害山城も同様に最終的には毛利方によって改修が加えられた姿と見てよいであろう。