赤穴瀬戸山城(あかなせとやまじょう)
赤穴瀬戸山城の基本情報
通称・別名
- 赤穴城、瀬戸山城、衣掛城、藤釣城
所在地
- 島根県飯石郡飯南町下赤名
旧国名
- 出雲国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 赤穴常連
築城年
- 天授3年〔南朝〕/永和3年〔北朝〕(1377)
主な改修者
- 松田吉久
主な城主
- 赤穴氏、松田氏(堀尾氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)?
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
福原城(広島県三次市)[12.4km]
蔀山城(広島県庄原市)[19.8km]
温湯城(島根県邑智郡)[20.0km]
日倉城(島根県雲南市)[23.2km]
二ツ山城(島根県邑智郡)[23.3km]
仁後城(広島県安芸高田市)[23.3km]
甲山城(広島県庄原市)[26.5km]
山中要害山城(島根県大田市)[28.5km]
丸山城(島根県邑智郡)[28.8km]
高杉城(広島県三次市)[29.1km]
赤穴瀬戸山城の解説文
[引用元:Wikipedia「赤穴瀬戸山城」の項目]
赤穴城(あかなじょう)、または瀬戸山城(せとやまじょう)は、島根県飯石郡飯南町下赤名にあった日本の城。赤穴瀬戸山城・衣掛城(きぬかけじょう)・藤釣城(ふじつるじょう)ともいう[1]。
概要
赤穴城は、赤穴荘の地頭として勢力を張った赤穴氏により築かれた山城で、備後・石見・出雲三国境の683メートルの山頂に位置する。尼子氏時代には尼子十旗の一つに数えられ重要視された。
構造
武名ヶ平山から延びる尾根先端に占地し、尾根筋を深い堀切で遮断し城域を設定している。
主郭は城域最高所に位置する曲輪と考えられ、主郭及びその南に連なる二つの郭には石垣が残る。山頂部の郭及び城域東端には虎口が設けられ、東端の虎口には櫓台が伴う。城の中心部は総石垣で、一部資料では主郭に天守閣が建てられたともされるが、主郭の面積は非常に狭く、櫓程度しか建てられないと推測される。天文11年(1542年)の大内義隆の攻撃で落城するが、それまでは度々の攻撃を退け「雲南随一の堅城」と謳われたという。
元和の一国一城令で破城されたが、寛永14年(1637年)の島原の乱の後にも再度破壊されたと伝わる。
山麓に繋がる尾根筋には、複数の堀切を交えた小郭群が連なり、石垣に固められた山頂の主郭部とは様相を異にする。主郭部は堀尾氏の手が入っているが、これらの小郭群は赤穴氏時代の遺構を留めている可能性が指摘されている。更に降って山麓にも削平地が残り、遺構は破壊されているが、赤名小学校付近にかけて居館が設けられていたとされる。
沿革
- 永和3年(1377年)、赤穴荘の地頭職に任じられた赤穴常連により築城された。
- 天文11年(1542年)、大内義隆に攻められ、2ヶ月に亘る攻防の末、落城した。
- 永禄5年(1562年)、毛利氏が出雲に侵攻し、赤穴盛清は毛利氏に降りこれに従った。
- 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにより毛利氏が防長二カ国に減封され、赤穴氏もこれに従い、替わって松田吉久が入城した。
- 元和元年(1615年)、一国一城令により破却されたものと考えられる。
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赤穴瀬戸山城の口コミ情報
2024年02月25日 RED副将軍
赤穴瀬戸山城
尼子十旗の4番目に数えられる赤穴氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
1377年に佐波常連により築城。
佐波氏は三善氏庶流で石見国安濃郡佐波の有力国人領主であり、佐波常連が赤穴荘の地頭職となり、赤穴瀬戸山城を築いて赤穴氏を称しました。
出雲国守護である京極氏に従い、応仁の乱では京に出兵。
赤穴は出雲・石見・備後の国境の要衝に位置しており、戦国時代となり毛利氏、大内氏、尼子氏の攻防の中心地となると、1471年には赤穴幸清は尼子氏に従って神西城を攻めています。
1541年、尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城に侵攻すると赤穴光清も参陣するも、尼子氏は敗戦。
翌1542年には大内義隆が毛利元就を従えて出雲へ侵攻。赤穴光清は赤穴瀬戸山城に二か月におよび籠城し奮戦するも討死しました。しかし三男の赤穴久清は脱出し月山富田城の尼子氏を頼って落ち延びます。
赤穴氏の奮戦により大内氏は月山富田城包囲戦が頓挫し、大内義隆が後退すると赤穴氏が再び赤穴瀬戸山城へ戻り、赤穴久清が家督を継承しました。
1562年には大内氏滅亡後に勢力を拡大した毛利元就が赤穴峠から出雲へ侵攻し、赤穴瀬戸山城のすぐ東に聳える武名ヶ平城に布陣。既に尼子氏が衰退していたことから赤穴久清は降伏開城。以降は毛利氏に従い、尼子氏との戦いにおいて先陣を切りました。
1600年の関ヶ原の戦いの敗戦により毛利氏は減封改易となると赤穴氏も萩へ従いました。代わって堀尾吉晴が出雲に入部すると、堀尾氏家臣の松田吉久が赤穴瀬戸山城に入城し近世城郭として改修。
しかし1615年の元和の一国一城令により廃城となりました。
見所
標高631mの瀬戸山頂部に築かれています。
山頂の主郭を中心として南西に二郭、三郭、南西曲輪群と連なり、北東には四郭、五郭が配され、東尾根には大手門と東曲輪群で構成されています。
総石垣造りでありましたが破城により石垣の大半が破却され崩れています。
南西曲輪群と東曲輪群には土塁があり、堀切と小段の郭群が連なっています。
行き方は赤名小学校を目標に設定。小学校脇のスペースに駐車し裏側に登山口があります。比高は約170mであり整備された登山道を約25分で辿り着きました。山深い地域であり残雪がありました。
写真
①三郭の石垣
②主郭の破却された石垣
③④二郭の虎口と三郭へ続く石段
⑤三郭からの南西曲輪群
⑥主郭、二郭、三郭の切岸
⑦大門跡
⑧東曲輪群の堀切と土橋
2022年06月02日 お茶漬け釆女正エクレア
赤穴瀬戸山城
よく整備されていて歩きやすい。眺めも最高です。尼子十旗と月山富田城があしらわれた御城印帳があることを後で知りました。なかなかシブいデザインでした。
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2022年05月14日 さくや
赤穴瀬戸山城
綺麗に整備されてた。本丸からの景色は最高❗️
2021年11月27日 ビーンズマン左兵衛督
賀田城[赤穴瀬戸山城 周辺城郭]
地元の方たちが整備していて登りやすいです。登城道は軽トラ一台ぶんくらいの道幅が続いています。
2020年11月08日 則天図書頭無功
赤穴瀬戸山城
まず道の駅「赤来高原」で御城印(ゴシック体です)と赤穴瀬戸山城登山ガイドマップを入手します。赤名小学校横に登山口があり杖も用意されています。登山道は初めは粘土質で些か滑り易いですが、後は歩き易く所々には山野草の名札が有り、春夏は楽しめる事でしょう。大手口までは眺望は望めません。本丸は樹木が伐採され平坦地でベンチもあり眼下に赤名の街並み更に刈田も一望出来ます。
2019年02月24日 織田上総介晃司
赤穴瀬戸山城
地元では瀬戸山城と呼んでますので案内板も瀬戸山城と書いてあります。
赤名小学校の脇に車を停めて城を目指します。
トイレは道の駅で済ますとよいでしょう。
三次(広島県側)から国道54号線を北上。
赤名峠を越えるとドライブイン赤名が…
廃墟になっている!( ̄□ ̄;)!!
尾道松江線の開通の影響で閉鎖したとか…
スキーの行き帰りで立ち寄っていただけに残念…
赤穴城から松江に向け北上。頓原に「ラムネ銀泉」という天然温泉があります。
日本有数の炭酸泉で含有成分のため、お湯の色が変化するそうです(もちろん毎日湯船の清掃はしてます)
赤穴城リア攻めの汗を流してみては…