丸山城(まるやまじょう)
丸山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 島根県邑智郡川本町田窪古市
旧国名
- 石見国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小笠原長旌
築城年
- 天正13年(1585)
主な改修者
- -
主な城主
- 小笠原氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切
指定文化財
- 県史跡(丸山城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
温湯城(島根県邑智郡)[8.8km]
市山城(島根県江津市)[9.1km]
福光城(島根県大田市)[11.2km]
石見銀山城館(島根県大田市)[13.9km]
二ツ山城(島根県邑智郡)[16.4km]
重富城(島根県浜田市)[17.3km]
枝ノ城(広島県山県郡)[23.0km]
笹山城(島根県浜田市)[27.2km]
赤穴瀬戸山城(島根県飯石郡)[28.8km]
吉川氏城館(広島県山県郡)[29.9km]
丸山城の解説文
[引用元:Wikipedia「丸山城」の項目]
丸山城(まるやまじょう)は、石見国邑智郡(現・島根県邑智郡川本町三原)にあった日本の城。島根県指定史跡[1]。
概要
沿革
天正13年(1585年)に石見小笠原氏当主小笠原長旌が築いた。石見小笠原氏はそれまで温湯城を居城としていたが、毛利氏との和睦後に所領替えをされたため、居城を湯谷城(弥山城)へと移していた。天正10年(1582年)に、この地に築城を開始。3年後の天正13年(1585年)頃に完成したと言われている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、小笠原氏は毛利氏の防長移封に従い、丸山城も廃城になったと思われる。廃城時、もしくは寛永14年(1637年)の島原の乱の後に破却が行われたと推測される。
構造
標高428メートルの円山頂上部を主郭とする連郭式の中世山城で、石見国では非常に珍しい総石垣の城郭であった。最高所には本丸、その下に西の丸が控えており、掘立柱建物跡の痕跡やかまど跡があることからこの本丸と西の丸が城主らの平素の居住空間であったと推定されている。
防衛施設としては虎口やそれに付随する門跡や堀切があり、郭も10程度は認められるが、全体的に石垣の高さは低い。櫓や天守閣等の防衛施設も存在せず、安土桃山期の城郭としては縄張りも単調である。これは山上にありながらも居館としての役割を重視されていたためと推測される。
参考資料
- 日本城郭大系 新人物往来社
- 石見の城館跡 島根県教育委員会
- - 「山陰の城館跡」パンフレット(http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/saninshisekigaidobook.data/guidebook01new.pdf)
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丸山城の口コミ情報
2022年10月31日 内大臣尼子保久
丸山城
規模の大きい山城です。見晴らしも最高でした。
2022年05月15日 織田上総介晃司
丸山城
県道32号を進むとわんぱくの森と丸山城跡の看板があるのでそちらへ進みます。何ヶ所か看板があるので迷うことはないでしょう。
閉園したようなわんぱくの森の駐車場がありますが、それは無視して進み、終点が駐車場と登城口です。この駐車場は城の東側になり、先人様の口コミは多分北側の駐車場となります。東側の道のほうが比較的運転しやすいと思います。(歩く距離は増えると思いますが…)
丸山城は石見地方では珍しい石垣を多用した城だが、あまり手入れされてなくて草やシダで隠れてしまっているのが実にもったいない…手入れすればもっと多くの城めぐらーさんが来ると思います。
2021年07月19日 ビーンズマン左兵衛督
丸山城
所々石垣が少しずつ残る。本丸と西の丸の囲われた郭は、当時の面影をよく残している。
2020年04月06日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
丸山城
縄張り図の案内板の場所(駐車場:数台駐車可)まで舗装路で普通車でも一応進入可能です。但し、離合場所やUターン可能場所は余りありません。
山道(林道)は、ガードレール無し、切り返し必要なヘアピンカーブ2~3箇所、時々倒木ありなので、注意して下さい。駐車場から本丸の下まで無理すれば進入できますが、遺跡保存や環境保護の観点から絶対に進入しないで下さい。倒木は、時々地元の森林組合の方が撤去されているようです。
積雪時期は、過去経験から膝が埋る程度の場所がありました。また、雪の重みで立木が突然倒れたりしましたので、積雪期の登城は、それなりの装備と覚悟が必要です。トイレは、西の丸の下辺りに廃墟と化した物体がありました。使用不可能と思います。
2020年04月06日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
丸山城
現地説明板
丸山城は、川本町三原と田窪にまたがる標高482mの円山の山頂に位置する。城跡は、本丸と西の丸を中心に東・南・北面に小規模な曲輪をもつ中世山城であり、川本町を拠点に安濃・邇摩の両郡と邑智・那賀郡の一部、鹿足・美濃を含む八村に及ぶ領域を統治した小笠原氏にとって、当地における最後の山城である。この城は石見地方の中世山城として特異な築城構想をもった山城で、発掘調査によると、曲輪は石垣により構築されていて、本丸(主郭)や西の丸(二之郭)からは、礎石建物跡が多数確認されている。西の丸からはカマド跡が確認され、あわせて日常生活陶器類が見つかり、これらは文献史料などから、城主が西の丸に居住していたことが判明した。