福光城(ふくみつじょう)
福光城の基本情報
通称・別名
- 不言(ふげん)城、物不言(ものいわず)城
所在地
- 島根県大田市温泉津町福波字福光
旧国名
- 石見国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 吉川経安
築城年
- 永禄2年(1559)
主な改修者
- -
主な城主
- 吉川氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
石見銀山城館(島根県大田市)[8.7km]
丸山城(島根県邑智郡)[11.2km]
市山城(島根県江津市)[13.9km]
温湯城(島根県邑智郡)[17.3km]
重富城(島根県浜田市)[24.2km]
笹山城(島根県浜田市)[26.3km]
二ツ山城(島根県邑智郡)[27.5km]
山中要害山城(島根県大田市)[27.5km]
浜田城(島根県浜田市)[31.0km]
枝ノ城(広島県山県郡)[33.8km]
福光城の解説文
福光城の口コミ情報
2024年04月18日 池田紀伊守信輝
瑠璃光山瑞感院浄光寺[福光城 寺社・史跡]
永禄2(1599)年7月10日に死去した奥方を、浄光寺墓地に埋葬したのをご縁に、吉川家の菩提寺として創建され、当初は、経安の守護佛、薬師瑠璃光如来を本尊として安置しました。浄光寺の山号を瑠璃光山とする所似です。
その後、延宝5(1677)年、浄光寺5世円道上人の代に薬師堂を建立し、薬師如来を遷座し、ご開帳佛としました。
現在の本尊は、阿弥陀如来です。境内墓地に吉川経安及び奥方の墓碑があります。
2022年07月04日 出雲守かずちゃん
福光城
番所跡と馬洗池が、とても綺麗に残っていました。
2022年07月03日 宮内少輔雪真斎
福光城
夏は山頂付近に影になる木も無く、草木も伸びてるので、登城するなら秋口が良いかもしれません。
2022年07月01日 大納言尼子保久
福光城
麓の楞厳寺から登山するルートは距離は短いですが、急勾配で道も整備されていないので、国道9号線沿いのガソリンスタンド横から入って民家の脇から登ったほうが楽ですね。
御城印と武将印が温泉津観光案内所で販売しているので帰りにゲットしました。楞厳寺でも販売しているみたいです。
2022年06月12日 ビーンズマン左兵衛督
温泉城[福光城 周辺城郭]
頂上は、主郭、その下の段が北と南に平らになっており、それぞれ広がっている。南側には尾根づたいに郭がある。ただ、登城口など整備が全くされておらず墓地横から道なき道を登る。土塁などが残っている。
2022年05月15日 織田上総介晃司
福光城
不言(ふげん)城・物不言(ものいわず)城ともいい国道9号にある看板も不言城となってます。
駐車場は無く、橋を渡る手前の広いスペースか、橋を渡り説明板の前に通行の邪魔にならないように停めるようになります。(説明板の前に停める時は奥の民家に一言ことわりを言う配慮が必要かと…)
説明板から左右にコンクリの道がありますが左の狭い道を進むと登城口となります。(右は民家に行きます)
福光城からそう遠くない温泉津湾に鵜丸城と櫛山城(どちらも城めぐ未登録)があります。
リア攻めの後は温泉津温泉に浸かり疲れを流すといいでしょう。
2021年04月11日 KAZ右大臣正勝
鵜丸城[福光城 周辺城郭]
毛利水軍の拠点(海城)になります(^-^)
長い階段の90度曲がった所から、段曲輪があります。
東側の曲輪は矢竹が群生してて、入っても写真が撮れないので諦めました(>_<)
谷筋には3段の曲輪があります。
灯台がある所が最高所の曲輪で、外海側に1段、南側に3段の広い曲輪がありました。
灯台の曲輪の手前には、外海側の海岸に出れる道が有ります(^-^)
2021年04月10日 KAZ右大臣正勝
櫛山城[福光城 周辺城郭]
海城になる様で、島の形になってますが、歩いて渡る事が出来ます(^-^)
温泉津湾を囲む毛利水軍(山陰方面)の拠点との事です。
登城口は写真でわかる様に東側の浜から上がりますが、お城自体は削平地とかろうじて曲輪の縁がわかるぐらいです。
4月現在でもススキと矢竹とイバラで格闘が必要なので、この時期の登城が限界って感じです(>_<)
2021年04月10日 KAZ右大臣正勝
福光城
国道9号線を走っていると、写真の看板が目に入ってきます。
不言城(ふげんじょう)またの名を、物不言城(ものいわずじょう)…
なんと(°▽°)意味深な名前なんでしょう!
このお城こそ!羽柴秀吉公が因幡攻めの際に鳥取城に籠城した、吉川経家公とその家族がいたお城なのです。
鳥取城では、当主山名豊国を追放した家臣が、安芸日山城の吉川元春公に助けを求め派遣されたのが石見吉川氏の経家公…つまり、このお城から、吉川家の『しあわせものがたり』は始まりました(T-T)
経家公は出立に際し、自分の首桶を作らせてこのお城から持参されたそうです。
もうすでに若狭商人による米の買い占めが始まっていたのかもしれません(>_<)
籠城の末、降伏する際には『自害は家臣2人だけでよく、経家公は芸州に戻られよ』との秀吉公の意向でしたが、それを拒絶し困った秀吉公は信長公に相談したほど…
父、経安公に宛てた遺書は岩国の吉川史料館にあります(常設展示ではありません)
子どもたち宛ての遺書は鳥取城の経家公銅像で確認出来ます(T-T)
もの言わぬお城なので、ついついエピソードに走ってしまいましたが(//∇//)不言城の構造は、竪堀や堀切などの防御施設はない感じで、曲輪・土塁・石積みって感じです。
吉川家のお城はどこも比較的防御施設は少ない感じがします。
比高も80mで整備してあるのでかなり廻りやすく、街道側は開けていて、見晴らしイイ感じです(^-^)
二の丸と本丸は猪が掘りまくって、削平地が変わってる感じです(>_<)
これからの山城は、どこも獣との戦いっすね。
馬洗池から上の丸とその先の縦走路を歩いてみましたが、自然地形でした。
東の尾根沿いは、かなり弱いお城に見えます。籠城は想定して無いのでしょうか(・・?)
あっちこっちに岩盤があって、尾根切りが難しい感じです。
登り始めで広い平坦地があり、居館跡との事なので、ここでご家族と住われてたのかな?
吉川家の、しあわせものがたり…
妄想するたび、スマホに入力する文字が見え難いっす(T ^ T)
『武士(もののふ)の取り伝えたる梓弓 かえるやもとの栖(すみか)なるらん』
永禄4年(1561)には尼子氏に寝返った石見国人・福屋隆兼らが率いる5,000人に攻められたが、経安は子・経家と共にこれを撃退した。
その後、経家が鳥取城籠城戦の敗戦後に自害すると、経家の子・経実が入ったが、経実が岩国へ移住後、廃城となった。