高田城(たかだじょう)

高田城の基本情報

通称・別名

勝山城、大総山城、大都夫良山城、夥山城

所在地

岡山県真庭市勝山

旧国名

美作国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

なし

築城主

三浦高継

築城年

鎌倉時代後期

主な改修者

三浦明次

主な城主

前三浦氏、後三浦氏

廃城年

明治7年(1874)

遺構

曲輪、石垣、堀切

指定文化財

市史跡(高田城跡)

再建造物

説明板、石垣

周辺の城

岩屋城(岡山県津山市)[13.0km]
小松城(岡山県真庭市)[16.3km]
葛下城(岡山県苫田郡)[17.4km]
粟住山城(岡山県真庭市)[19.2km]
有漢常山城(岡山県高梁市)[19.7km]

高田城の解説文

立地
勝山地区の旭川左岸、旭川が西から南へと湾曲する部分の南側独立峰上に所在する。標高は約310メートル。旭川流域を広く眺望する。勝山地区にある勝山スポーツセンターに城山登山口の標柱がある。

縄張
城域は北側の本城部分と谷を挟んだ南側の城域に大別される。北側の本城部分は、山上に主郭を構えて東側の稜線に沿って曲輪を並べる縄張りとなっている。主郭部に後世の改修の可能性が考えられるが、それを除けば、曲輪と堀切、土塁を用いた典型的な戦国期の在地系縄張り技術で整備されたことがわかる。

一方、南側の城域は、山上の曲輪を頂点として地形に沿って曲輪を丹念に連ねる縄張りに終始する。縄張りからみた場合、高田城は織豊期以降の改修された部分を除くと、曲輪配置などに戦国期の様相を強く残す事例と評価できる。

城史
正保書上五四城の一で、「古城之覚」は真島郡高田村の「高田山」として、城主を三浦駿河守貞連とし、「後太平記」を引いて永禄末期の高田城を巡る交戦に触れるなどしている。

「作陽誌」は「大総山」として、本城を如意山、山へは120間、周り16町、その南は「二廓」で勝山といい、合わせて大総山城と記す。天保国絵図に「勝山城」とある。「美作鏡」は「勝山城」とし、『真庭郡誌』は、勝山城(高田城、大総山城)として現在、大佐分利・小佐分利といい城山と総称、一名を津府山・大顆山とする。

高田城の城主は三浦貞連に始まり、子の貞国、孫の貞久と代々継続したとされる(「作州高田城主覚書」)。

享禄5年(1532)、尼子氏は美作国への侵攻にあたり、備中国の新見氏を高田城の在番としており(東寺百合文書)、また天文13年(1544)11月、尼子国久・誠久・敬久父子は備後国を経て美作国に討ち入り、浦上氏が軍勢を籠める「高田」など三ヶ城を落とし、出雲国に帰陣したとされる(「安西軍策」)。

同17年9月に城主の三浦貞久が籠城のなか病死したのち、城には尼子氏の家臣宇山飛騨守が在城したとされる(「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。

永禄2年(1559)2月、貞広の弟貞勝を擁立した牧河内らは合戦のすえ宇山氏を駆逐、貞勝が高田城に入ったが、同7年(8年とも)12月、家臣の金田氏によって自刃した。まもなく牧氏は貞広・貞勝の「祖父」とされる三浦貞守を擁立、高田城へと戻ったといい、貞広も永禄8年の9月には高田城へと回復した(「作州高田城主覚書」、石見牧文書、美作美甘文書など)。
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