高田城(たかだじょう)
高田城の基本情報
通称・別名
- 勝山城、大総山城、大都夫良山城、大津夫良山城、夥山城
所在地
- 岡山県真庭市勝山
旧国名
- 美作国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 三浦貞連
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- 三浦明次
主な城主
- 前三浦氏、後三浦氏
廃城年
- 明治7年(1874)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
指定文化財
- 市史跡(高田城跡)
再建造物
- 石垣、説明板
周辺の城
-
岩屋城(岡山県津山市)[12.9km]
葛下城(岡山県苫田郡)[17.4km]
佐井田城(岡山県真庭市)[18.2km]
粟住山城(岡山県真庭市)[19.2km]
有漢常山城(岡山県高梁市)[19.7km]
西屋城(岡山県苫田郡)[21.3km]
院庄館(岡山県津山市)[23.0km]
楪城(岡山県新見市)[24.7km]
神楽尾城(岡山県津山市)[26.6km]
矢倉城(岡山県加賀郡)[27.3km]
高田城の解説文
高田城の口コミ情報
2024年10月15日 自転車制覇~こころ旅
高田城
先達様の情報通りの野球グランドは、試合の真っ最中で、もう少し道なりに登った左手に、登山口がありました。案内板はありません。歩き易い道でした😄
2023年10月12日 ドクターイエロー大蔵大輔
三浦邸椎の木御殿[高田城 その他]
勝山藩三浦家は明和元年(1764年)に三河国西尾から移府となり歴代藩主はお城山の麓(三の丸跡付近)に屋敷を構えていたが、明治2年の版籍奉還ののち屋敷は取り壊しとなり、地元庄屋の厚意を受けて現在地に藩主一門の屋敷を構えることとなりました。平成元年に寄贈されるまでは代々居住されていました。現在は「椎の木御殿」として一般公開されています。R5.10.8訪問
入館料.無料
開館時間.9.30~16.30
休館日.火曜日、年末年始
2021年11月01日 ドクターイエロー大蔵大輔
高田城
出雲街道の宿場町・城下町として栄えた作州・勝山。昭和60年に岡山県初となる「町並み保存地区」に指定されて現在は暖簾がシンボルになっており街の至る所で観光客の目を楽しませてくれます。高田城はそんな街を見下ろす背後の山に築かれています。
城は北側の城山と南に出丸の太鼓山により構成されております。駐車場は随所に点在しているので困ることはなさそうです。城山の途中までは道は険しく細いながら小型車なら行けます。二ノ丸跡の野球場グラウンドのライト側場外には先人様のご指摘の通り石垣が残っています。ここから更に上に登ると右手に馬洗場、左手に堀切を確認しつつ細い山道に入ります。しかし散策しやすいように綺麗に整備されています。高田城の案内看板が見えたら間もなく標高322m、頂上の本丸です。また麓の中央図書館に隣接して三の丸跡遺構が残されています。
一方、出丸へは車の進入はできません。両山の切通し付近に若干の駐車スペースはあります。登山道は整備されており途中堀切の案内看板を横目に頂上へ。残念ながら山頂にはTV電波塔が建っていて雰囲気ぶち壊しですが、すぐ下の三の丸にはカンカン井戸が残っています。
歴史と文化の城下町・勝山。リア攻めだけではもったいない!お時間に余裕があれば是非ぶらり散策してみてください。足を延ばせば湯原温泉、蒜山高原もありますよ。R3.11.1訪城
2020年12月29日 しおうまる美作守
宮山城[高田城 周辺城郭]
目出たく令和2年度岡山県真庭市の市史跡に指定されました。
宮山城を含む美作国は尼子、山名、赤松、毛利、宇喜多など周辺の勢力が度々衝突した地です。天正9年の毛利と宇喜多との戦いでは、近隣の岩屋城や篠向城が陥落する中、最後まで抵抗を見せるも直家の命で城を明け渡したと記録に残ります。
今回は城域東部の開田地区より登城し北部の高屋地区へ降りました。国道313号沿いのボーリング場に駐車させていただき、国道を跨ぐと案内板があります。
山をU字に掘り返した様な道をひたすら登りますが、落ち葉に足を取られ滑って歩き辛い印象でした。
城域は東西約350m南北約200mで東西の尾根を二重の堀切で断ち、南を中心に畝状竪堀やU字やL字状の竪堀が広がっています。V郭より旧久世町方面を見渡すと近隣の篠向城や金砕山城、大寺畑城があった山が視界に入ります。林道や植林のため一部後世の改変を受けています。
2020年01月05日 織田上総介晃司
高田城
車は二の丸グラウンドの駐車スペースに停める。
見つけにくい二の丸櫓台石垣ですが、まずホームベースからライトを通りフェンスの外に。フェンスを左に見ながら少し進むと櫓台の説明板が。そこからセンターバックスクリーン方向に進み(バックスクリーンはありません)獣道のような道を下ると櫓台石垣があります。下りる前に上から覗いて石垣を確認すればより確実です。
本丸と出丸は車道を挟んで向かい同士になります。
高田城のある勝山から北に行くと美作三湯の1つ湯原温泉があります。「千と千尋の神隠し」のモデルと言われる油屋や無料の混浴露天風呂の砂湯があります。ただ、露天風呂はまる見えなので入浴には勇気が要ります。
2019年09月08日 ️_
高田城
櫓台石垣は2の丸グラウンドをフェンスに向かって突っ切って、フェンスの右端(本丸側)を左に曲がると、解説板があります。あと少し(ほんとに少し)道なり(フェンスを左に見て)に行くと、右下に行く踏跡があるので、そこを下ると目に飛び込んできます。
2019年05月03日 石工集団穴太衆【兒】
高田城
かつて高瀬舟の往来があり、また出雲街道に面していた事もあり交通の要衝として栄えた勝山、背後にそびえる如意山に築かれた高田城
2019年04月17日 石工集団穴太衆【兒】
高田城
【本城】を中心として複雑な郭が配置されてる如意山と、谷間を挟み展開する出丸のある勝山とに分けられます、この谷間は現在、車道になってますが、元々は本城と出丸を隔てる大堀切があったとされ、木橋が架けられてたとされます、本城も出丸も大変見応えのある縄張りになってますので、おすすめです
【周辺情報】
勝山の町並み保存地区には地元勝山の草木染め作家、加納容子さんが手掛けるのれんが商店の軒先に掲げられて、のれんの町としても有名で最近では古民家を再生したカフェもありおすすめ店は勝山文化往来館ひしお館内にあるカフェうえのだんです、なんと私の友達がオーナーなんです♪
また、政治家の鳩山由紀夫・邦夫兄弟の先祖は勝山城主・三浦備後守に仕える上級武士だった為、鳩山家の先祖のお墓は真庭市勝山の安養寺にあります
立地
勝山地区の旭川左岸、旭川が西から南へと湾曲する部分の南側独立峰上に所在する。標高は約310メートル。旭川流域を広く眺望する。勝山地区にある勝山スポーツセンターに城山登山口の標柱がある。縄張
城域は北側の本城部分と谷を挟んだ南側の城域に大別される。北側の本城部分は、山上に主郭を構えて東側の稜線に沿って曲輪を並べる縄張りとなっている。主郭部に後世の改修の可能性が考えられるが、それを除けば、曲輪と堀切、土塁を用いた典型的な戦国期の在地系縄張り技術で整備されたことがわかる。一方、南側の城域は、山上の曲輪を頂点として地形に沿って曲輪を丹念に連ねる縄張りに終始する。縄張りからみた場合、高田城は織豊期以降の改修された部分を除くと、曲輪配置などに戦国期の様相を強く残す事例と評価できる。
城史
正保書上五四城の一で、「古城之覚」は真島郡高田村の「高田山」として、城主を三浦駿河守貞連とし、「後太平記」を引いて永禄末期の高田城を巡る交戦に触れるなどしている。「作陽誌」は「大総山」として、本城を如意山、山へは120間、周り16町、その南は「二廓」で勝山といい、合わせて大総山城と記す。天保国絵図に「勝山城」とある。「美作鏡」は「勝山城」とし、『真庭郡誌』は、勝山城(高田城、大総山城)として現在、大佐分利・小佐分利といい城山と総称、一名を津府山・大顆山とする。
高田城の城主は三浦貞連に始まり、子の貞国、孫の貞久と代々継続したとされる(「作州高田城主覚書」)。
享禄5年(1532)、尼子氏は美作国への侵攻にあたり、備中国の新見氏を高田城の在番としており(東寺百合文書)、また天文13年(1544)11月、尼子国久・誠久・敬久父子は備後国を経て美作国に討ち入り、浦上氏が軍勢を籠める「高田」など三ヶ城を落とし、出雲国に帰陣したとされる(「安西軍策」)。
同17年9月に城主の三浦貞久が籠城のなか病死したのち、城には尼子氏の家臣宇山飛騨守が在城したとされる(「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。
永禄2年(1559)2月、貞広の弟貞勝を擁立した牧河内らは合戦のすえ宇山氏を駆逐、貞勝が高田城に入ったが、同7年(8年とも)12月、家臣の金田氏によって自刃した。まもなく牧氏は貞広・貞勝の「祖父」とされる三浦貞守を擁立、高田城へと戻ったといい、貞広も永禄8年の9月には高田城へと回復した(「作州高田城主覚書」、石見牧文書、美作美甘文書など)。
しかし同11年2月、毛利氏に対して反抗した「三浦衆」らが「高田表」で討ち果たされ、同月19日には毛利方の長・香川・宍道氏は謀って三浦貞守に切腹させたとされ、以降毛利方の兵が在番した。
難から逃れた牧氏は翌同12年に三浦貞広を擁立し、10月には高田城を攻撃し回復、貞広は入城を果たしたとある。
しかし天正2年(1574)以降、三浦氏は宇喜多方の侵攻を受け、さらに翌同3年以降の毛利勢の攻囲に9月11日、貞広は宇喜多直家の仲介により下城、高田城は落去し、城には毛利方の楢崎元兼が入城したとされる(「吉川家中井寺社文書」、「香川家文書」、「閥閲録」、「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。
以降、毛利方の拠点として推移し、毛利氏と羽柴氏の和睦ののち同12年正月、安国寺恵瓊は児玉元良らに対し、「高田・岩屋・宮山・高仙」の城へ国元からも退去を言い聞かせるように要請している(毛利家文書)。
楢崎元兼が退去した跡には、牧藤左衛門を始めとした三浦氏旧臣が在番したが、まもなく服部隠岐守へ交代となったといい、篠向城(真庭市三崎・大庭)の城主江原親次の家臣中島本政は走者を討った功により「高田城主服部隠岐」から脇差を与えられたという(高田城主覚書、美作勇山寺文書、美作岡田家文書、中島本政覚書)。
一説には宇喜多氏の家臣不破内匠が城を抱えたともいう(「武家聞伝記」)。また慶長3年(1598)9月に戸川達安は宇喜多秀家から「山内・高田近辺」5100石を預け置かれ、達安組の岡市丞も同年に「高田城領」として1000石を加増されている(秋元興朝所蔵文書、「宇喜多秀家士帳」)。
同5年8月、関ヶ原合戦に先立ち、宇喜多秀家は領国内の城の在番に対し人質の差出を求めており、その内に「高田中務」として小瀬中務がみえる(新出沼元家文書)。
宇喜多氏の没落後、慶長6年(1601)からは小早川秀秋の陪臣木下斎之助が城を抱えたという。慶長8年からは各務四郎兵衛が、同14年春以降は大塚丹後とのその子息が5代、相次いで城を抱えたという(「武家聞伝記」)。
遺物
瓦等。備考
平成6年(1994)、岡山県真庭地方振興局が車道拡幅や休憩小屋建設のため造成を行い、遺構の一部で原形が失われた。同21年、地上デジタルテレビ放送施設建設に伴い出丸跡の発掘調査が行なわれ、掘立柱建物跡が検出されたが、攪乱が激しく遺物もほとんど見られなかった。
文献
「安西軍策」、「陰徳記」、「武家聞伝記」、「作陽誌」、「美作髪鏡」、「陰徳太平記」、「備前軍記」、「美作鏡」、「美作略史」、「真庭郡誌」、『岡山県通史』真庭3、「月田郷土史」、『久世町誌』、「美作古城史」、『岡山の城と城址』、『勝山町史』前編、『日本城郭全集』真庭郡2、「日本城郭大系」857、『美作地侍戦国史考』、『岡山県埋蔵文化財報告』26、「歴史散歩岡山の城」、「改訂岡山県遺跡地図」勝山63、「勝山町の文化財」、『岡山の山城を歩く』84、乗岡2009、『真庭市埋蔵文化財調査報告3』