岩屋城(いわやじょう)
岩屋城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県津山市中北上
旧国名
- 美作国
分類・構造
- 梯郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 山名教清
築城年
- 嘉吉元年(1441)
主な改修者
- -
主な城主
- 山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀、虎口
指定文化財
- 県史跡(岩屋城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
葛下城(岡山県苫田郡)[5.8km]
院庄館(岡山県津山市)[10.0km]
西屋城(岡山県苫田郡)[12.8km]
高田城(岡山県真庭市)[12.9km]
神楽尾城(岡山県津山市)[13.7km]
津山城(岡山県津山市)[15.6km]
竜王山城(岡山県久米郡)[19.2km]
医王山城(岡山県津山市)[21.6km]
有漢常山城(岡山県高梁市)[23.2km]
粟住山城(岡山県真庭市)[24.7km]








































岩屋城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩屋城」の項目]
岩屋城(いわやじょう)は、岡山県津山市中北上(旧・久米町)の標高483メートルの山上にあった日本の城(山城)。城跡は岡山県指定史跡となっている[1]。
概要
美作と備前との国境付近の岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸北側に崖となっている「落し雪隠」があり、その他3方向を曲輪で守備する天然の要害を利用した城である。本丸からは、各曲輪が横延びの馬蹄形の形状で配置されている。
交通の要所に築かれていた為に幾度か各勢力の激しい争奪戦の舞台となっており、歴代城主によって12本の竪堀や20以上の郭が追加され、美作国内でも他に類を見ないほど大規模な防御機構を備えた山城となっており、[2] 水の手も本丸近くより湧き出る井戸や竜神池[3]から容易に確保できることから長期の籠城戦を度々経験している堅城である。
歴史
山名氏統治時代
嘉吉元年(1441年)、美作守護・山名教清によって築かれた。その後、山名氏の管理下にあったが、 応仁元年(1467年)より始まった応仁の乱が泥沼化したことで当時、美作守護だった山名政清も兵を率いて上洛したので、この隙を突いて加賀半国守護赤松政則が旧領復帰を狙って挙兵し、美作には中村五郎左衛門が送り込まれた。 中村の軍勢は美作を席巻し、3年ほど争った後に赤松軍は美作を回復。岩屋城も赤松氏の治めるところとなった[4]。
中村一族の支配
その後、小瀬・中村・大河原・後藤氏など赤松氏譜代が交代で城代となっていたが[5]、永正17年(1520年)に美作守護代中村則久が前年に赤松義村に対して反逆した浦上村宗に同調して岩屋城を奪取し籠城。 これに激怒した赤松義村は小寺則職に兵を与え、中村討伐を命じたが浦上家臣宇喜多能家の助けを得た天険の岩屋城はこれを寄せ付けず、200日余り籠城した挙句に浦上村宗と連携して小寺則職らを返り討ちにし、中村則久が以後も岩屋城に在城した[6]。
だが、浦上村宗の死後は尼子氏の影響力を傘に台頭する大河原貞尚の勢力に押され中村氏は衰微、天文13年(1544年)には直接美作に侵攻し始めていた尼子氏の攻勢に耐え切れずついに尼子国久に降伏。 中村氏は変わらず城主を続ける事を赦されたものの、尼子氏より目付けとして芦田秀家を送り込まれる事となった。
やがて尼子氏も衰退し始めると芦田は独立の野心を持つようになり、永禄11年(1568年)にはついに城主中村則治を暗殺して岩屋城を奪取した[7]。
勢力争いの境界に
それからしばらくは芦田秀家、続いて子である芦田正家の統治下に在ったが、天正2年(1574年)に宇喜多直家が浦上宗景より独立するにあたって備前と美作の連絡路にあたる岩屋城に目を付け、同年3月に原田貞佐・花房職秀の奇襲によってわずか一日で陥落し、城代には宇喜多家臣浜口家職が置かれた[8]。
その後も浜口家職が城代を務めていたが、天正8年(1580年)に宇喜多直家が毛利氏と手切れして織田氏と結んだことで、戦略的に重要であるこの岩屋城も毛利氏の標的とされた。
天正9年(1581年)、毛利家臣で葛下城主であった中村頼宗(かつての美作守護代中村氏との関連は不明)は岩屋城の奪取を狙い、少数精鋭の決死隊を組織。暴風雨の夜に密かに城へと接近すると、敢えて最も峻険な「落し雪隠」をよじ登って本丸へと押し入り浜口家職を放逐し、わずか32人で岩屋城の奪取を成功させる。この功によって毛利輝元は中村頼宗を岩屋城主に任じた。
宇喜多氏としても本拠地岡山の喉元に位置するこの城を奪われたことは由々しき事態で奪還の為に度々出兵したが、頼宗はよくこの城を守り奪還することは出来なかった。
廃城まで
天正11年(1583年)より豊臣秀吉と毛利輝元との間の和睦の協議で高梁川を境界にそれ以西が毛利領となり、それより東は宇喜多秀家の領地となった(中国国分)。これにより岩屋城は宇喜多領となる事が決まり、中村頼宗は宇喜多側より城の引き渡しを求められたが、これを拒み籠城の構えを見せた。
天正12年(1584年)3月、宇喜多秀家は花房職之を大将に岡家利・長船貞親・戸川秀安・江原親次ら2万の大軍で岩屋城を攻囲したが、頼宗は堅守し武力によって陥落させることは出来なかった。しかし同年7月、頼宗が派遣した八島宗八が足利義昭に和睦を仲介を依頼した事によって宇喜多方が攻囲を解くと頼宗はついに安芸国へと退去した。これ以後、岩屋城は長船貞親が領することになる[9]。
天正18年(1590年)に大規模な山火事が発生し、岩屋城本丸も焼け落ちた。山城は平時において時代遅れの物としてその必要性を失っており、これ以後再建されることもなく岩屋城はそのまま廃城となった。
参考資料
- 群書類従 第二十輯 合戦部 『応仁別記』
- 群書類従 第二十一輯 合戦部 『赤松記』
- 『久世町史』第一巻 資料編
- 『日本歴史地名大系第34巻』 岡山県の地名
- 【書籍】「 中世山城における給水装置について 」
[続きを見る]
岩屋城の口コミ情報
2023年10月09日 生駒讃岐守江現蔵✿
楽万の上砦[岩屋城 周辺城郭]
楽万の上砦は、毛利方だった岩屋城を包囲する宇喜多方の陣城の1つです。
10月の三連休の美作遠征、阿波の城友さんとの本日3城目、少し疲れてますが、師匠の姿が見えなくならないようについていきます。今回は尾根の先端から登り、途中から直登しました。
昨年12月の中国オフ会で訪れた同じく岩屋城の陣城、「荒神の上砦」同様、遺構がよく残っている砦ですが、整備はされていないので、時々藪漕ぎになります。
2つの陣跡は土塁が残り、宇喜多氏の陣屋があったと想像出来ます。陣城を結ぶ途中に堀切、土橋、長い土塁があり、1時間弱の楽しい山歩きでした。が、帰りはいつものように、ここを降りるの?という道なき道を進み、道路に出ました。
涼しくなって山城シーズンになったので、リア活動を頑張りたいです。
2023年10月09日 生駒讃岐守江現蔵✿
篠向城[岩屋城 周辺城郭]
篠向城(ささぶき城と読みます)は、旭川と目木川の合流点を西に見下ろす標高419mの笹向山に築かれています。広さは西尾根端部の曲輪群まで含めると東西約1,350m、南北約700mで、美作屈指の巨大山城です。
築城年代は不明ですが、1334~1338年以前に長野越中守が築城したという説があります。
10月の三連休の美作遠征、本日2城目、二の丸まで車で林道を進みます。先人の城友さんの口コミにもありますが、道が細いので小型車のほうが良いです。曇り空で天気が心配ですが、いつも誘ってくれる阿波の城友さんと5月以来の山城リア、まだ体力があるのでルンルンで進みます。
二の丸の看板は今年の10月に新しく設置されていました✨本丸北には圧巻の70本の畝状竪堀群ありますが、三の丸西側の畝状竪堀群のほうが分かり易いです。しかし写真では分かりづらいので、心眼で見てください。二の丸から本丸に行き、戻って三の丸に行き1時間20分の楽しい山歩きでした。
戦国時代末期に宇喜多氏と毛利氏が戦い、宇喜多氏が2度の普請を行った篠向城、美作にお越しの際は是非リアしてみてください。
2023年05月16日 ʀᴇᴅ副将軍
荒神の上砦[岩屋城 周辺城郭]
美作の整備状況が抜群の桝形虎口、横堀が見事な隠れた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
1584年に宇喜多氏が築いた岩屋城を侵攻するための陣城🏯
1583年に豊臣秀吉と毛利輝元とが和睦をする協議として、高梁川を境界に西側が毛利領、東側が宇喜多領となりました。これにより高梁川の東側にある岩屋城は宇喜多領となる事が決まりましたが、岩屋城の中村頼宗は宇喜多氏への城の引き渡しを拒み籠城の構えを見せました。1584年、宇喜多秀家は花房職之を大将に2万の大軍で岩屋城を包囲。宇喜多氏は、岩屋城を取り囲む様に土塁と12の陣城を築き、荒神ノ上砦は南東に築かれた陣城のひとつです。守将は浦上与九郎が務めたと伝わります。しかし、岩屋城は堅城であり陥落させることは出来ず。籠城戦が始まり4ヶ月後に、中村頼宗が足利義昭に和睦の仲介を依頼したことにより、宇喜多氏が包囲を解き、ようやく中村頼宗は安芸国へと退去しました。その後、岩屋城には宇喜多氏家臣の長船貞親が入城しました。
見所
陣城群の中では最も遺構の残存状態が良く、キレイに整備されていました。尾根上に三つの方形の土塁囲みの郭が連なります。特に北側の郭は空堀が巡り、南側には見事な土橋を併設した桝形虎口が付いており、織豊系の陣城の特徴が認められます。三つの郭は土塁で連結していますが、これは岩屋城の外周を包囲する長大なもので残存度は抜群です。
行き方は、岩屋城の南東に位置し岩屋城登城口に車で向かう途中に右手に荒神ノ城砦の登城口案内板が立っています。見逃してしまうくらいに目立たないので注意をしてください。駐車場はありませんが、農作業をしている地元の方に尋ねると畑の路肩に停めても良いと許可を頂きました。比高は約30mくらいで気軽に見事な遺構を堪能できるタイパ抜群の優良物件です。
2023年03月03日 龍馬備中守【】
荒神の上砦[岩屋城 周辺城郭]
岡山県の津山市にある【荒神ノ上砦】♪
岩屋城を落とす為に築かれた陣城の数々の中で、特に状態が良く残っているのがこの荒神ノ上砦になります♪
岩屋城の南西側に築かれたこの荒神ノ上砦は、岩屋城側に長大な土塁を配置して防御♪南北に伸びる尾根上を加工し、長方形の郭を2つ配置♪郭の周りには横堀を回し込み、内枡形の虎口、土橋を残します♪特に見所は北側の郭の横堀はS字クランクしています♪小さいながらも横矢を掛けている所は正に戦う為だけのスペースを造り込んでいます♪荒神ノ上砦を含む陣城は岩屋城をグルリと取り囲んでいます♪
この陣城が築かれた動機としては、天正10年(1582年)備中高松城の戦いによる、中村氏の行動にあります☆
この争いは毛利氏🆚秀吉の戦いです☆
秀吉軍の勝利後、和睦協議により高梁川を境界線に西側は毛利領、東側は宇喜多領と定められました☆これによって、岩屋城は宇喜多領になるはずでしたが…☆岩屋城主・中村氏は退去の命に応じず、籠城の構えを見せました☆言う事を聞かなかった、ヤンチャな中村氏です☆
退去をおこなわない、中村氏に対して…
宇喜多秀家は花房職之を総大将に岡家利・長船貞親・戸川秀安・江原親次ら2万の大軍で岩屋城を攻囲しますが中村頼宗はこれを守り切り結果、武力での陥落は出来ませんでした☆
岩屋城主・中村頼宗が足利義昭に和睦の仲介を依頼した事で宇喜多勢は攻囲を解き中村頼宗は安芸国へと退去☆上手く逃げ切った訳です☆
この荒神ノ上砦には浦上与九郎が配置されたと伝わります☆
岩屋城を包囲した陣城達です♪
荒神ノ上砦→浦上与九郎
妙福寺ノ上砦→主将・花房助兵衛
楽万ノ上砦→岡平内
往還ノ上砦→斎藤五郎左衛門
柿ノ木ノ上砦→不明
石蕨砦→戸川肥後
梅ヶ峠砦→江原兵庫
遣手場砦→杉野下野
的場ノ峠砦→長船越中
とちの木砦→川端右近
井ノ奥砦→小瀬修理大夫
が、それぞれの陣城を守将しました♪
2022年08月28日 ビーンズマン右衛門督
岩屋城
本丸、二の丸、馬場がある頂上は、広い空間が広がっている。畝状竪堀群が大きい。
2021年04月24日 作州牛織部正
荒神の上砦登城口の案内板[岩屋城 碑・説明板]
岩屋城登城口の手前に新しく設置されてました。
2021年01月04日 ドクターイエロー治部大輔
岩屋城
国道181号線の看板より北進すること約1キロで案内看板とトイレのある麓の駐車場です。登山道は2つあり今回は階段の山道を選択しました。しばらく登ると左右に砦を伴った慈悲門寺跡が見えてきます。更に山王宮跡、大手前跡、水門跡を過ぎると井戸のある龍神池の水神宮拝殿に到達します。
ここで道は分岐しますが、左の道を登った場合、本丸跡と馬場跡に挟まれた谷間を通って鳥居のある見晴らし抜群の広大な馬場跡に出ます。ここには仮設トイレがあります。更に奥の尾根上の曲輪にも堀切を通って行くことができます。雛壇状の曲輪を上がると頂上の本丸跡に到達。ここまで麓から約50分の道のりです。北側は急峻な崖「落とし雪隠」です。
本丸奥より東方へ雛壇の砦を下ると堀切を抜けて二ノ丸跡です。この尾根続きの奥には大堀切が、更に隣接する三ノ丸跡の奥には畝状空堀群「手のくぼり」が東側に睨みを効かせています。ここから舗装路を下ると約40分で駐車場に戻ります。
山道はほど良く整備されており、途中に案内看板も多く、道に迷うことはなさそうです。時間と体力に余裕のある方は帰りがけに状態良く残っている麓の付城群にも是非お立ち寄りください。R3.1.4訪城
2020年12月30日 しおうまる美作守
篠向城[岩屋城 周辺城郭]
標高419mの笹向山に古の姿を残す篠向城。その名は古く太平記にも見えます。作西地域の中核を成しその後も数々の史書に登場する地域を代表する城跡です。
城域へは麓から林道が続いており、主郭と二の丸間に駐車スペースがあります。ですが舗装道を覆い尽くす落ち葉が雪の様に積もり、タイヤを空回りさせながら何とか辿り着きました。滑り出したら最後…すぐ側は崖ですので、お守りは1つ余分に持って行きましょう♪
さて、主郭二の丸三の丸と3つの高所を中心に、東西に伸びる尾根沿いに防御機能が展開していますが、中でも三の丸西側、幅約5m深さ約1.5mの畝状竪堀は圧巻です。また、主郭南にも土塁、横堀、畝状竪堀と隙間のない鉄板防御を見せています。竪堀数は全部で50本以上、長いのもは70m越えだそうですよ。
お近くにお越しの際は、是非リア攻め候補に♪
2018年11月30日 石工集団穴太衆【兒】
岩屋城
岩屋城を特色づけるのが、花房職秀による接収戦の際に築かれた多数の付城
攻城戦の拠点として築かれた砦
付城は、岩屋城を取り巻く尾根筋に設けた多数の小規模な曲輪を土塁で連結しており、総延長は約6.5kmにもなります
岩屋城を完全包囲するその配置から、接収に向けた宇喜多側の強固な意志が読み取れます
岩屋城を取り囲む形で築かれた砦群と守将
荒神の上砦 守将は浦上与九郎
妙福寺の上砦 守将は花房助兵衛
与右衛門の上砦 守将は杉原木工
井ノ奥砦 守将は小瀬修理太夫
とちの木砦 守将は川端右近
的場ノ峠砦 守将は長船越中守
遣手場砦 守将は杉原下野守
梅ヶ峠砦 守将は江原兵庫
石蕨砦 守将は戸川肥後守秀安
柿ノ木ノ上砦
守将は長船又右衛門
往還ノ上砦
守将は斎藤五郎衛門
楽万の上砦
楽万の上砦の守将は岡平内
2015年10月20日 作州牛織部正
岩屋城
岩屋城の見所は本丸よりの眺望、二の丸大堀切、手のくぼり(畝状竪堀群)等がありますが、個人的なオススメは岩屋城を包囲する陣城群跡です。
中でも荒神の上砦跡や楽万の上砦跡は土塁・空堀で囲まれた郭跡等の遺構が良く残っており、戦国時代のリアルな攻城戦が感じられると思います。
2015年02月24日 INO【兒】左京大夫
岩屋城
登り口。
国道181号線は、岩屋簡易郵便局から北へ延びる道です。
第一駐車場と第二駐車場があります。