矢倉城(やぐらじょう)
矢倉城の基本情報
通称・別名
- 矢倉畦城、矢蔵畦城、桝形城
所在地
- 岡山県加賀郡吉備中央町納地
旧国名
- 備中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 田中盛兼
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 田中氏、難波氏(毛利氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、井戸跡
指定文化財
- 町史跡(矢倉城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
備中松山城(岡山県高梁市)[7.6km]
有漢常山城(岡山県高梁市)[7.9km]
佐井田城(岡山県真庭市)[12.6km]
鬼ノ城(岡山県総社市)[14.5km]
鍛冶山城(岡山県岡山市)[15.7km]
鶴首城(岡山県高梁市)[16.3km]
冠山城(岡山県岡山市)[17.2km]
鬼身城(岡山県総社市)[17.5km]
徳倉城(岡山県岡山市)[20.1km]
亀山城(岡山県総社市)[20.5km]
矢倉城の口コミ情報
2023年08月12日 天道式部卿早雲
分かれ道・札[矢倉城 碑・説明板]
主郭への未舗装の山道に入ります。長袖長ズボン推奨
2022年02月18日 ドクターイエロー大蔵大輔
古和田城説明板[矢倉城 碑・説明板]
説明板に書かれているのは、野山城についてです(岡山県城郭館跡総合調査報告書に基づく)。
2022年02月17日 ドクターイエロー大蔵大輔
古和田城[矢倉城 周辺城郭]
冒頭からお詫びになりますが、2021年5月2日に投稿させていただいた古和田城。地元の案内看板にもそのように記されていますが、岡山県中世城館跡総合調査報告書にはこれを「野山城」と記載していて、古和田城は山頂の野山城より南東に伸びる麓に近い尾根筋上にあるとしています。今回は報告書に基づいて改めて古和田城(真)として訪城いたしました。
2つの曲輪より構成される小さな城で主郭(約20×20mの四角形)周囲には高い土塁で防御しています。特に西側~北側は良く残っています。また東側は2の郭へと続き南側の土塁は野山城への登山道で一部破壊されています。なお2の郭は雑木多く、踏み込むことは諦めました。野山城とセットでリア攻めしてください。R4.2.17訪城
2022年02月17日 ドクターイエロー大蔵大輔
羽子田城[矢倉城 周辺城郭]
羽子田(はねだ)城 <吉備中央町指定史跡>
南に向かって長く伸びた尾根筋の最先端に築かれた2つの曲輪で構成された小さな城郭です。主郭は30×20mのほぼ長方形で一部に土塁が残っており、南側には供養塔が佇んでいました。南側にも小さな曲輪(平坦ではないが・・)を有しており、それぞれの曲輪の両端(計3箇所)には堀切にてしっかりと遮断されています。特に南寄りの2本の堀切は両側に落とし込む形で竪堀と化しています。最南端堀切の東側には一部破壊あるようで、社が堀切上に祀られています。
周囲の道はかなり細いのでお気を付けください。城の南側に案内看板がありますが草に覆われて判読困難です。北側の民家を抜けて墓地の横を通りながら東側を南下すると何故か外車の廃車があり、その前後に堀切(竪堀)が確認できます。西側の道路からも竪堀は良く見えるので直登もできます。R4.2.17訪城
2022年01月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
丸山城[矢倉城 周辺城郭]
鎌倉時代以来、数代の居城であったとされていますが詳しくはわかりません。平地にある単郭の小規模な城で鎌倉時代の典型的なものとされています。元亀、天正の頃に虎倉城主の伊賀出雲守が居城し、後に吉川姓を名乗っていたと伝わります(ココ吉川地区は平安時代末期より京都府の石清水八幡宮の荘園地でした)。壕、土塁、古井戸等の遺構を留めています(以上現地説明板より)。
県道307号線沿いに案内看板が設置されています。登城口前に小型車ならギリ1台分の駐車スペースがあります。土塁上には社が祀られています。残念ながら古井戸は見つけることはできませんでした。R4.1.10訪城
2022年01月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
菅野城[矢倉城 周辺城郭]
大きく3つの曲輪より構成されている小さなお城です。丘陵の頂上にある主郭は周囲をしっかりと土塁で囲んでいます。北東部は土塁が食い違っています。虎口でしょうか?付近の土塁上には社が祀られています。主郭の西と南側には二の郭と三の郭があり、主郭の北西と二の郭の南側にはそれぞれ腰曲輪があります。二の郭、三の郭共に土塁で周囲を囲み、更に二の郭の南には横堀も設けて遮断しています。また二の郭付近には多くの石垣を伴っていました。付近を大山道(県道307号線)が通るためなのか、小規模な城郭ながら防御態勢は優れているようです。
案内看板等はありませんが、登城口はわかりやすく、社までの道も整備されています。比高差20m程なので、あっという間に主郭まで行けます。R4.1.10訪城
参考:岡山県中世城館跡総合調査書
2021年09月06日 ドクターイエロー大蔵大輔
おふくの方様隠棲の地[矢倉城 寺社・史跡]
戦国の才媛で絶世の美女と言われた、おふくの方さまは美作国高田城主・三浦貞勝の正室として支えていましたが永禄8年(1565)落城の憂き目に遭い、逃れて当地(備前国下土井)の縁故先に辿り着き住んでいました。
その後、岡山城主・宇喜多直家に迎えられ、八郎(後の秀家)を授かりますが、直家没後は備中高松城水攻めで岡山入りした羽柴秀吉に見初められ、秀家と共に大阪城に召されました。
県道66号線に腰痛地蔵尊横山様の案内看板があり、そのまま細い山道を登ると顕彰碑が建立された広い駐車場に着きます。横山様もすぐ眼の前です。ちなみに絶滅危惧種の野鳥ブッポウソウの飛来地としても有名です。R3.9.5訪問
2021年05月03日 ドクターイエロー大蔵大輔
伊達弾正館[矢倉城 周辺城郭]
県道472号線、伊達家の菩提寺の妙本寺の南約300mの尾根上に位置しています。県道沿いに説明板がありますが、その真上の森の中です。説明板によると妙本寺開設の大檀那伊達弾正朝義の居館跡と伝えられるそうです。その後伊達氏の居城は北方向の古和田城(野山城)へと移ります。
ここの敷地は説明版のすぐ横の民家の私有地になります。県道も道幅狭いので見学の際にはひと言ご挨拶して許可をいただいて(更に車を停めさせていただいて)からにしましょう。
岡山県中世城館跡総合調査報告書等によると2つの曲輪で構成されており、石垣はないものの土塁が多く残っているとされています。Ⅱ郭の中心部には祠が祀られていていましたが、Ⅰ郭周辺は荒廃が著しく、今回は有り難いことに民家の方に案内して頂き碑の立っている土塁の一部は確認できましたが、それ以上奥には進めませんでした。Ⅰ郭には以前ブドウ畑があったそうです。R3.5.3訪城
2021年05月02日 ドクターイエロー大蔵大輔
備前勝山城[矢倉城 周辺城郭]
西の裾を大山道(県道66号線)が通る尾根上に位置している山城です。山麓にある鰯屋公会堂の前にご近所の方に声掛けして車を停めさせていただきました。登城道は綺麗に整備されていますが、やがて未舗装になります。やがて突き当りを右折して城の北側を進みます。右手に道まで伸びている竪堀を見つけたら、その先にちゃんと階段が設置されています。ここまで約20分足らずの行程です。
3つの郭で構成されています。Ⅰ郭とⅡ郭には祠が祀られていてⅡ郭にはベンチも設置されています。以前訪ねた際に、地元の有志の方がふれあいの場ということで整備されたとのこと。地元愛、いいことですね!
この城の防御は何と言っても多くの畝状竪堀群です。経年によりかなり見えづらくなっているのが残念です。山道に面した北側の急斜面以外に配置されていて守りを固めています。
南500mの山中には「おふくの方様隠凄地」なる碑が立っています。おふく様は作州高田城主・三浦貞勝に嫁ぎ正室だったが戦に敗れ、この地に身を寄せていました。その後宇喜多直家の知るところとなり正室として迎えられ秀家を授かります。ここは腰痛地蔵尊横山様、絶滅危惧種ブッポウソウの飛来地としても有名です。R3.5.1訪城
2021年05月02日 ドクターイエロー大蔵大輔
古和田城[矢倉城 周辺城郭]
国道484号線沿いの道の駅かようが登城口になります。敷地の片隅にある大和山遊歩道の案内看板に従って登城口を進みましょう。200mほど行ってから右折して山の中に入りますが、地元の皆様によりことわざの道として整備されており、疲れも癒されます。登ること約15分、古和田城の唯一の案内看板を左折して坂を登りきると、城の北端に到着します。ここまで約20分の行程です。
曲輪は3段より構成されているようです。最上段Ⅰ郭には神社が祀られており、その周囲には石垣も認められています。Ⅰ郭を取り巻くⅡ郭とその下のⅢ郭の西側を主に土塁の遺構が残っています。Ⅱ郭周囲の切岸は場所によってはかなりの高さ(5~6m)を有しており防御の要であったと思われます。
また城山の南方約1キロにある説明板によると開城は文明15年(1483)にここ野山庄を治めていた伊達氏が従来の弾正館から移ったとされています。弾正館はこの説明板から南へ500mの丘陵上にあります(説明板あり)。
なお岡山県中世城館跡総合調査報告書によると、ここの城は野山城として紹介されており、古和田城は尾根東裾、登城口すぐの場所に位置しているとされています。R3.5.1訪城
2020年11月22日 ドクターイエロー大蔵大輔
矢倉城
国道484号線、道の駅かようが目印になります。入口にあたる県道305号線を北に約4キロ、県道が右に大きくカーブしたところを更に100m程直進すると納地史跡案内図が右手に見えますので、その坂を右折して登ります(大型車厳しいかも?)。登りきったら民家3軒ほどありますので、そこで頼んで車を置かせていただいて、民家沿いの道を山の奥に400m進み、峠にある木製の標識に右方向への未舗装の細い山道を更に進みます。200m程で保安林の看板付近でリア攻め可能になりますが本丸はもう少しです。やがて平な郭と切岸が表れ、堀切を渡り切岸を登ると本丸跡です。周囲は土塁で囲まれているようです。しかし雑草が多く繁り、案内看板やその先にあると聞いた井戸跡には到達できませんでした。R2.11.22訪城