堀内新宮城(ほりうちしんぐうじょう)
堀内新宮城の基本情報
通称・別名
- 堀内氏屋敷、堀内屋敷
所在地
- 和歌山県新宮市千穂1(全龍寺)
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 堀内氏善
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 堀内氏
廃城年
- -
遺構
- 堀跡
指定文化財
- 市史跡(堀内氏屋敷跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
新宮城(和歌山県新宮市)[0.8km]
京城(三重県南牟婁郡)[6.4km]
赤木城(三重県熊野市)[19.1km]
鬼ヶ城(三重県熊野市)[21.8km]
鷹巣山城(和歌山県田辺市)[24.5km]
古城山城(和歌山県東牟婁郡)[27.6km]
曽根城(三重県尾鷲市)[32.5km]
黒木御所(奈良県吉野郡)[46.7km]
後山城(三重県北牟婁郡)[47.1km]
龍松山城(和歌山県西牟婁郡)[47.9km]
堀内新宮城の解説文
[引用元:Wikipedia「堀内新宮城」の項目]
新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった日本の城。別名丹鶴城(たんかくじょう)。また、沖見城(おきみじょう)とも称された[1]。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されている[2]。
概要
新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)と呼ばれたあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である。別名・丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことによる[3]。ちなみに、「堀内新宮城」(別名・堀内屋敷)を築城した堀内氏[4]以前に、熊野地方を統治した新宮氏の祖とされる新宮十郎行家(源頼朝の叔父[5])は、丹鶴の弟である[6]。堀内氏時代の「堀内新宮城」(堀内屋敷)の城跡は、全龍寺の境内となり、寺の西側に水堀が残る。
現在の地に築城したのは浅野忠吉であり、一国一城令により一度廃城した後、忠吉が再築城した新宮城には、大・小の天守や二ノ丸(水野氏時代には鐘ノ丸)などがあった[7]。松ノ丸のある姿となったのは水野2代重良の頃である[8]。浅野・水野氏時代の「新宮城」の城跡には、切込み接ぎ(きりこみはぎ)の石垣のほかに打込み接ぎ(うちこみはぎ)の石垣も残されている[9]。
1952年(昭和27年)には、新宮城本丸周辺は民有地となっており、当時旅館業を営んでいた業者が旅館「二の丸」入口(登坂〈とさか〉側登り口。本来の水野氏時代の二ノ丸は、現在の正明保育園の場所に位置する)と本丸を結ぶケーブルカーを運行していたが、ケーブルカーは1980年(昭和55年)に休止し、1990年代に正式廃線となっている。現状は、民有地時代のケーブルカー跡なども残るが、本丸のほか主な城域が公有地化されて丹鶴城公園となっており、「和歌山県朝日夕陽百選」にも選定されている。地下には紀勢本線のトンネルが通されている。また、東側の一部は天理教南海大教会の敷地の一部になっている。現在、新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行中である。
歴史
もともと田鶴原と称されたこの地には、平安時代末に熊野三山を支配した熊野別当の別邸が建てられ、その後代々が居住したといわれる。源為義は、熊野別当の娘のもとに通い1女1男をもうけたが、その女子が丹鶴山および丹鶴城の別名の由来となった丹鶴姫である[10]。丹鶴はのちに熊野別当第19 代となる行範(ぎょうはん)に嫁ぎ、行範が死去すると剃髪して鳥居禅尼と名乗り、1130年(大治5年)、丹鶴山に夫の菩提を弔う東仙寺を建立した[11]。
安土桃山時代
堀内氏の「堀内新宮城」(堀内屋敷)は、天正年間(15731593年)に熊野地方を統治した堀内安房守氏善が構えた平城であり、その城跡は、新宮市千穂にある全龍寺(新宮城主・水野重仲〈重央〉の菩提寺)に位置し、西側に水堀の一部が認められる[12]。この堀内氏の居城は、堀内氏が関ヶ原の戦いで西軍方についたため、東軍(徳川)方に寝返った桑山一晴により攻略された。ちなみに、全龍寺の近くにつけられた「取出町」という地名は、氏善の砦があったことによるといわれる[13]。
- 堀内氏
代わって1601年(慶長6年)、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始し、丹鶴山にあった東仙寺および香林寺(崗輪寺〈堀内氏時代以前〉[14]、熊野速玉大社の神宮寺。現・宗応寺)を移転させ[15]、翌1602年(慶長7年)に城を築いた。
- 浅野氏
江戸時代
1615年(元和元年)、一国一城令により廃城となる。その後、1618年(元和4年)に再び築城が認められると、浅野忠吉は熊野川沿岸の新宮城の再築に着手した。
1619年(元和5年)、完成を前に、浅野氏は備後三原の三原城(現在の広島県三原市)へ転封し、徳川頼宣が紀州藩主として入国して以後、付家老・水野重仲(重央)が城主となった[16]。重仲は浅野氏の築城を継続し、2代重良の時代の1628年(寛永5年)に城下の田地であった伊佐田(いさだ)に堀を設け[17]、城は1633年(寛永10年)に完成を見たが、その後も3代重上が石塁などを造築し、1667年(寛文7年)、現在に見られる近世城郭が完成した。
- 水野氏
1664年(寛文4年)、地震により松ノ丸が崩れている。また、1707年(宝永4年)の宝永地震による石垣などの被害は、幕府に届け出るため1708年(宝永5年)に作成された「紀州新宮城絵図」に見られ[18]、翌1709年(宝永6年)に大補修工事がなされている。さらに、1808年(文化5年)には暴風雨により被災している。
明治時代
水野氏の居城として明治維新を迎えた。1869年(明治2年)、水野忠幹の封土奉選後、新宮城の下屋敷に新宮藩の藩庁が置かれ、1871年8月(明治4年7月)には廃藩置県により旧藩庁に新宮県庁が置かれたが、1872年1月(明治4年11月)に和歌山県と合併した。1873年(明治6年)の廃城令より、天守などの建物を払い下げ、1875年(明治8年)までにすべて取り壊されて、旧材は寺院などに転用された。1891年(明治24年)には二ノ丸(上屋敷)跡に天理教南海大教会が開設され、1972年(昭和47年)に移転すると天理教会婦人部が経営する現在の正明保育園が開園している[19]。
大正時代
1920年(大正9年)、伊佐田池(いさだのいけ)とも呼ばれる堀の埋め立てが着工され、1922年(大正11年)には大部分が「丹鶴町」として造成された[20]。
昭和時代
1952年(昭和27年)、鐘ノ丸跡を中心とした民営の旅館「二の丸」が開業し、日本一短いといわれたケーブルカーや[21]遊具が設置され、ビアガーデンも開設された。ケーブルカーは1954年(昭和29年)に建設されたもので、定員10名、軌道約100メートル、駅間88メートルの距離を運行していた[22]。その後、1979年(昭和54年)10月に、旅館のあった鐘ノ丸や松ノ丸を除き、新宮市が本丸跡および登城道の全範囲を買収[23]。1980年(昭和55年)には主要部分を買収し、丹鶴城公園として、本丸・出丸・鐘ノ丸・松ノ丸跡などの整備が開始された。ケーブルカーの運行は、1980年(昭和55年)11月、美智子妃殿下(当時)の訪問時が最後となった。
1983年(昭和58年)10月、江戸千家を創始した茶人である川上不白の顕彰碑が、天守台のあった石垣の下に建立された[24]。不白は1719年(享保4年)に水野氏の家臣のもとに生まれ、碑には不白が好んだという「清風生蓬莱」の文字が彫られている。また、1985年(昭和60年)3月に「丹鶴姫之碑」が本丸跡に備えられ[25]、1986年(昭和61年)10月には、村井正誠の揮毫による与謝野寛の歌碑が建立された。
平成時代
2003年(平成15年)8月27日、新宮城跡は水野家墓所とともに「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定された[26]。2017年(平成29年)4月6日には、続日本100名城(167番)に選定されている。
構造
新宮城は、和歌山県の東南端、熊野川の右岸に位置する丹鶴山に築かれた。正保年間(1645-1648年)に、諸藩が幕府に提出した正保城絵図の一つである「紀伊国新宮城之図」には、熊野川に突き出た新宮城の縄張とその城下町が描かれている[27]。その絵図によると、城山には、天守台と本丸、分離した出丸、鐘ノ丸、松ノ丸があり、西側の山麓には二ノ丸(上屋敷)や下屋敷、また、水ノ手の船着き場まで上下連郭式に配置され、現状とほぼ同様の構造が描かれている。
1667年(寛文7年)、増築は水野3代重上により完成し、規模は、東西180間(約324メートル)、南北110間(約198メートル)、周囲540間(約972メートル)であったといわれる。北側は熊野川に面し、また、南側には東西75間(約135メートル)、南北45間(約81メートル)、深さ1間半(約3メートル)の堀が造られていた[28]。
本丸
東西180間(約324メートル)、南北115間(約207メートル)。城郭の中心として北東の最高所(標高約60メートル)に位置し、北面には正保城絵図に記されていない搦手の枡形虎口が残る。本丸の南端には天守台が設けられ、3層5階と推定される天守閣があったといわれる[29]。天守台の石垣は、昭和20年代に崩壊。
出丸
本丸の北西に突き出た長方形の別郭で、熊野川や水ノ手を見下ろす位置にあり、本丸側に面して入口の石段が見られる。浅野氏の時代には本丸とつながりその間に城門があったが、水野氏の時代には完全に切り離され、本丸側の石積みには橋を架けた部分を埋めた改修の跡が認められる[30]。
鐘ノ丸
本丸の南西部にあり、浅野氏の時代には二ノ丸であった[31]。切込み接ぎ布積みの石垣や桝形虎口跡が残る。
松ノ丸
鐘ノ丸の西側に付属し、虎口跡が残る。
二ノ丸
東西32間(約58メートル)、南北28間(約50メートル)。西側の山麓にあり、浅野氏の時代は三ノ丸であったが、水野氏の時代には二ノ丸(上屋敷)となり、大手道が北側から松ノ丸へと通じていた。また、道路を挟んだ現在の市街地(NTT跡)には下屋敷があった。二ノ丸跡には、花崗岩による算木積みの石垣が残る。
水ノ手
水ノ手には、北側の熊野川に面した船着き場が置かれた。1994年(平成6年)、水ノ手で行なわれた調査において[32]、13棟の炭納屋群跡が発掘され、水野氏の時代に備長炭を江戸の市場に送り財源を得る拠点であったことが認められた。
文学
佐藤春夫
新宮城跡の南西の麓に、詩人・作家である佐藤春夫の父が建てた「熊野病院」と家があったことから[33]、幼少時より城跡によく登ったことが、小説『わんぱく時代』などに描かれている[34]。
与謝野寛歌碑
1906年(明治39年)11月、与謝野寛が大石誠之助に招かれ、北原白秋・吉井勇・茅野蕭々らと初めてこの地を訪れた際に詠んだ歌。1910年(明治43年)の歌集『相聞』(あいぎこえ)では、「海を觀る憂(うれひ)きたらず喜び來(く)誰そ淚すや城のゆふべに (丹鶴城に登りて。)[35]」とされている[36]。
周辺
- 熊野速玉大社
- 佐藤春夫記念館
- 西村記念館
- 阿須賀神社
参考文献
- 【書籍】「定本・和歌山県の城 」
- 【書籍】「城 5 近畿 」
- 【書籍】「日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山 」
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堀内新宮城の口コミ情報
2024年11月01日 noble権中納言弥勒菩薩
堀内新宮城
堀内氏の居館です。今は、全龍寺となっています。
特に遺構はありませんが、水路は巡っていました。新宮城を訪れたなら、至近ですので立ち寄りたいところです。
しかし、周囲の道が狭く運転する場合は、細道に入りこまないように注意しましょう。全龍寺には西側に数台の専用駐車場があり、そこに短時間停められると思います。
2024年03月07日 尼崎城駿河守一口城主
堀内新宮城
3月3日登城。熊野速玉大社をお参り後に神倉神社に向かおうとしたところ、熊野速玉大社の鳥居前に堀内氏屋敷跡(全龍寺)550mの道標(写真①)があったので立ち寄ってみました。全龍寺山門前に史跡の案内看板(写真②左上)があり、山門入口(写真③)左手に説明板(写真④)及び石碑(写真⑤中央)が建っていました。説明板を読み関ヶ原の合戦により全国各地の多くの武将・人々の運命が変わったことを改めて感じました。
本堂(写真⑥)にもお参りしましたが訪問時は人気がなく、境内の庭園(写真⑦)や立派な木(写真⑧)を眺めて神倉神社に向かいました。
2023年12月29日 国府左京大夫城介
新宮周防守屋敷[堀内新宮城 周辺城郭]
新宮氏最後の当主・行栄の屋敷跡
【歴史】
新宮周防守行栄(ゆきひで)が、元亀2年(1571)に居館を下熊野(行家屋敷)から同地へと移した。
新宮氏は源頼朝の叔父にあたる源行家の子孫といわれ、南北朝中期以降は熊野別当にかわって熊野を統治した七家(七上綱(※))の一つです。しかし、堀内氏善がこの地で勢力を拡大してすると、他の七上綱が次々と堀内氏善に屈する中、新宮行栄は最後まで抵抗し、ついには天正19年(1591)に討たれてしまい(暗殺されたとも)、新宮氏は滅亡した。
※七上綱とは宮崎・簑島・矢倉(鵜殿)・滝本・中曽(中脇)・芝・楠(新宮または新)の七家で構成され、合議制によって熊野を統治していた。
【遺構】
堀内新宮城から北に130mに位置し、現在は新宮城主・水野氏の菩提寺である本廣寺周辺にあったとされる。
遺構は消滅しており、館跡の石碑があるのみ。
【感想】
堀内氏善に最後まで抵抗した新宮行栄ですが、お互いの屋敷が近すぎではないでしょうか
堀内氏は元々和田森城(新宮市佐野)に拠っており、新宮氏を滅ぼした後に千穂ヶ峰の東麓に移ってきたみたいです。なので、新宮氏と堀内氏が文字通りお隣さんであったことはないようです。
現在は水野氏の菩提寺である本廣寺となっており、水野氏所縁の品を所蔵しているようです。ここはあくまでも菩提寺であって、お墓は別の場所にあるという珍しい形態をしています。
【アクセス】
新宮駅から徒歩15分程。
本廣寺に駐車場あり。
【写真】
①本廣寺外観
②説明板(本廣寺)
③説明板(新宮周防守屋敷跡)
④館跡を示す石碑
⑤本廣寺境内
2023年12月25日 国府左京大夫城介
越路城[堀内新宮城 周辺城郭]
天磐盾がある聖地に築かれた山城
【歴史】
築城年代や築城者は不明だが、天正年間に堀内氏善が築いたと思われる。
関ケ原で西軍に付いた堀内氏が新宮を去った後も、浅野氏によって利用されており、慶長19年(1614)に起きた北山一揆において、浅野勢がこの城で防戦を行った。
元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
【遺構】
堀内新宮城の南西870mに位置し、千穂ヶ峰にある越路峠に隣接する山中(標高231m/比高180m)に築かれている。
越路峠の北側に大小4つの曲輪(峠側から順に1とする)によって構成されている。
曲輪1は越路峠に接した細長い曲輪であり、いくつかの段状になった区画と土塁や石垣、喰違虎口、枡形虎口などが残っている。
曲輪1と曲輪2の間には、かなり深めの堀切で切断されている。曲輪2はL字形をしており、曲輪1と同じような遺構が残っている。
曲輪3は曲輪2からやや離れた位置にあり、高所にあるため、主郭に該当すると思われる。主たる部分の土塁は石垣で築かれており、北側は喰違虎口、南側は枡形虎口で守っている。また、枡形虎口の西斜面には竪堀が、北尾根側を切断する堀切が備わっている。
曲輪4(現在は「第2展望台」)が最も北側にあるが、最高所にあり小規模なため、物見として利用されていた。
【感想】
この城がいつ築かれたのかは分かりませんが、遺構の状況から戦国期の山城であることは間違いないです。もしかすると、堀内氏がこの地を治める前から、熊野の寺社勢力が越路峠を監視する目的とした砦あたりを築いていたのかもしれません。しかし、城域はかなり広く、枡形や喰違状の虎口に、堀切など戦いを意識した造りになっています。そして、石積みではなく石垣といえるものが、曲輪3の城塁として用いられていることから、豊臣政権の築城技術が地方へと伝搬している経過の城なのかもしれません。
越路城は千穂ヶ峰のハイキングコースにもなっているため、基本的には歩きやすいです。当然、コースから外れた部分は藪がありますが、そこまで酷い部類ではありません…多分(笑)
この千穂ヶ峰には、神武東征に関連する天磐盾(あめのいわたて)にあたるゴトビキ岩を祀っている神倉神社もありますので、時間があれば是非訪れてみてください。かなりの急勾配の石段なので、気を付けて降りてください。
【アクセス】
千穂ヶ峰のハイキングコースになっているので、複数個所からアクセスは可能。
自分が使ったのは、新宮浄水場の背後を通る道から越路峠を経由するルートで、新宮駅から徒歩で25分程度です。
【写真】
①遠景
②越路峠
③曲輪1にある説明板
④堀切(曲輪1-曲輪2)
⑤曲輪2の虎口
⑥曲輪3の石垣
⑦曲輪3の竪堀
⑧曲輪3の堀切
2023年01月17日 RED副将軍
堀内新宮城
熊野地方を統治した堀内氏の居城跡🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
天正年間(1573年〜1592年)に堀内氏善により築かれたと云われます。
堀内氏は熊野七上綱と呼ばれた土豪を屈服させて熊野地方を統治し、和田森城から堀内氏屋敷へと移ったとされます。
1576年に織田信長が伊勢侵攻により北畠氏を滅ぼすと堀内氏は織田信長に臣従します。
1582年、明智光秀による本能寺の変が勃発。その後の山崎の戦いにおいては羽柴秀吉に付いて戦ったため7,000石の加増を受け、1591年には秀吉より「熊野惣地」を任ぜられ27,000石の所領があったとされます。
しかし、1600年の関ヶ原の戦いにおいて堀内氏善は西軍に付いたため、敗戦後は肥後に逃亡。加藤清正に仕え、宇土城主となりました。
その後、紀伊国は浅野幸長の所領となり、重臣の浅野忠吉が1602年に築城しましたが、1615年一国一城令により廃城となりました。
見所
現在は、全龍寺の境内となり説明板が設置されていますが城郭遺構はほぼ消失。
全龍寺は浅野氏転封後の領主であった水野重央の菩提寺です。
江戸時代は四方を堀が囲んでいた様で、西辺、北辺、南辺の水路は堀の名残りの様です。
2022年04月24日 583系備前守きたぐに
堀内新宮城
堀内新宮城、新宮城とも新宮駅近くにあり、名古屋方面からの特急列車と大阪方面特急への乗継待ちの2時間で二つの城をリア攻めしました。城跡は今は全龍寺という寺院で、塀に囲まれ、境内にあるお社は石垣の上に載ってます。
堀内新宮城は、安土桃山時代の浅野氏と江戸時代の水野氏が新宮城を築城し、城下町としての新宮の町が整備される前に、この地を支配していた堀内氏の館跡で、新宮市教育委員会の看板によると、当時の遺構は堀の跡の小川だそうなので、塀や石垣は後世のものなのでしょう。
城の評価は規模や遺構の数で決まる訳ではないですが、新宮城に行ってから堀内新宮城を回ると、うーんとなってしまうかもしれません。
2021年01月19日 近江守フロクニ
堀内新宮城
42号線の裁判所前交差点を西に、最初の十字路を北に。それで全龍寺が見えて来ます。手前の塀の前か敷地内に駐車出来そうです。西の門の前に看板があります。
2020年06月19日 大隅守上
越路城[堀内新宮城 周辺城郭]
街道の抑えのお城です。