京城(みやこじょう)
京城の基本情報
通称・別名
- 大里城
所在地
- 三重県南牟婁郡紀宝町大里字倉本
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 堀内氏善
築城年
- 天正16年(1588)
主な改修者
- -
主な城主
- 堀内氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
新宮城(和歌山県新宮市)[6.0km]
堀内新宮城(和歌山県新宮市)[6.4km]
赤木城(三重県熊野市)[12.8km]
鬼ヶ城(三重県熊野市)[16.8km]
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古城山城(和歌山県東牟婁郡)[33.2km]
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後山城(三重県北牟婁郡)[41.5km]
鶴ヶ城(和歌山県田辺市)[47.5km]
京城の口コミ情報
2023年12月20日 RED副将軍
京城
竪石累や岩盤堀切、畝状竪堀群が見事な堀内氏が築いた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
1588年に堀内氏善により築かれたとされますが、それ以前に榎本氏により築かれていたとも云われます。
堀内氏は、熊野水軍を擁して紀伊国新宮を支配した有力土豪。織田信長から知行として熊野社領分を与えられ従属。織田信長が没すると羽柴秀吉に属しましたが、紀州征伐に対して抵抗。しかし1585年には降伏して本領を安堵され、その後は熊野水軍を率いて小田原征伐や文禄・慶長の役にも参陣しています。
1588年に北山一揆を鎮圧するために築いたのが京城とされます。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて堀内氏善は西軍に属し、東軍に属した和歌山城の桑山一晴により本拠の新宮城は落城。その際に京城へ落ち延び、その後に加藤清正を頼って肥後国へ移りました。
見所
相野谷川と支流の相野川が合流する北岸の標高74mの丘陵上に築かれており、熊野地方では赤木城、鬼ヶ城に次ぐ居館と詰め城が一体となった大規模な山城です。
城域西側の丘陵上が詰め城で、ピークに主郭を置き、南に堀切で区切られた二郭、東側面に土塁のついた帯郭で構成されており、虎口や土塁に石積みが点在しています。
主郭北側は岩盤掘削の多重堀切で遮断されており、北西下には畝状竪堀群が敷設されています。南側面には石積を用いた竪土塁が認められ見所が多数あります。
東尾根の削平地が居館であり、北東部の詰め城への登り口には桝形が配されています。また居館部の北側面にも見事な石積みがあり、東端にも畝状竪堀群が認められます。
技巧的な縄張りは織豊系のテイストもあり、京城も赤木城を譜勢した藤堂高虎による改修があったのかもしれません。
行き方は、県道35号から南麓の東泉寺跡を目標に設定。東泉寺跡に駐車可能で比高は約70m程度で整備が進み散策しやすかったです。
2023年08月14日 宇治ひろの勘解由長官ふくやん
京城
赤木城と新宮城のついでにリア攻め。麓に墓地があり、そのついでかしっかり草刈してありました。また地元の方か行政なのかはわかりませんが、樹々の伐採が進んでおり、非常に歩きやすくなっていました。コンパクトですが石垣も見ることができます。
2021年01月18日 近江守フロクニ
京城
近くのふるさと資料館にこの城の調査資料が掲示して有りました。ここで予備知識を入れてから現地に行くと良いかも。
2020年09月24日 まるき〜陸中守
京城
大和、北山への本街道にある
そんなに広くもないがアドベンチャー感満載のお城。行きは勢いで登城口の案内から急坂をトラロープを頼りに上がって行くだけで主郭まで行けます、ただ道が悪く倒木が多い、また平坦地の地面は柔らかい。
主郭や堀切などを一通り散策して主郭下の郭より帰り道
「トラロープ見失います」
思いもよらぬ急坂のせいでしょうか?郭の端から端を歩いても来た道のトラロープがわからず迷子になりましたのでご報告
物忘れが酷いのかアホなのか?かなり探しましたが結局わからず、仕方なく直降しようと道無き道、朽ちた倒木踏んで腰まで落ちてすり傷作って帰還した私
アドバイスとしては来た道を何度もチェックして登った方が良いです。そんなに広くないのにナメてかかるとえらい目に合いますって言う暗くて怖くて久しぶりにドキドキした城攻めでした(=゚ω゚)ノ
2019年05月25日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
京城
見張り曲輪。各曲輪や主郭は10人規模の広さ。長期籠城には不向きな山城。100人位の団体勢力の使用かと想像しました。ここ登城用ロープなければ登れません。キツいよ。
2019年05月25日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
京城
石垣上からの虎口···想像ですが、武士の城ではなく山賊か海賊の秘密基地の役目の城の感じがする。山を森を味方にした武士になれなかった男の城かな?
2019年05月25日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
京城
虎口。登城はロープを掴んで三点支持を確認しながらの大変な上り坂。ここの両サイドの石垣上に見張り番が居たのではないかな。想像力逞しくして周囲散策開始。
2019年05月25日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
京城
苔むす石垣。地面は枯れた枝や葉で足裏に地面の在り処が分からない歩き辛い城。
2016年05月09日 橘若狭守次郎吉
京城
2016年5月に登城しました。蚊と籔がすごかったですが、所々にある石垣や堀切がありました。また、しっかりと残っているの土橋も確認できました。
ただ、先人が仰っているように登城口や道筋が分かりずらいですし、粘土質の土と苔で足元が滑りやすいので慎重に主郭まで行くことをおすすめします。
もう少し整備してくれたら、もっと良い城跡になると感じました。
2016年05月03日 宮内卿あさよし
京城
きこりんさんの口コミ大いに役に立ちました。黄色い小さい看板。本当に小さい。2往復してやっと見つけましたが、とても行けそうに無い藪とこれ道?って感じの小道でした。諦めてまた冬にでもチャレンジします。
2016年04月11日 日高守きこりん
京城
素晴らしい堀切や、探せば色んなところに見つかる石積など、見どころは多いのですが、登城路がわかりにくいのが難点です。私も道がわからず、強引に藪漕ぎして尾根にたどり着いて、帰りに道を見つけた次第でした。
麓の集落にある説明板の所から登っていくと、石仏や塔が並ぶ東泉寺跡の平場に着きます。そこから墓地へと登っていくコンクリ舗装の急勾配の歩道の途中、左手斜面に「京城跡」と書かれた黄色い小さな札と、踏み跡があります。途中、倒木で歩きにくいところもありますが、途切れることなく続いています。
車で行く場合に駐車場はありませんが、集落にある橋のたもと、コミュニティバスのバス停の向いに、車を置けるスペースがあります。
2013年03月16日 北川幸人
京城
京城跡
所在地 紀宝町大里羽山
現状 大里と井内の境にあり東西約450mにおよぶ縄張りがある。熊野地方では鬼ヶ城跡に次ぐ規模の城跡である。別名 要害山 ともいう。
説明 天正16年(1588年) 豊臣秀吉の検地に反対した北山方面の住民が起こした一揆を後の津城主藤堂佐渡守が北山 入鹿 尾呂志一帯を掃討した。のち大和 北山への本街道であったこの地にへ新宮城主堀内安房守が築城したとされている。本丸跡は30m四方あり、わずかの石垣と北側尾根2ヶ所に堀切が残っている。本丸の東南下に東泉寺跡があり、そこも館の一部であったろう室町中期と見られる宝篋印塔4基とヒメ様とよばれる小さな地蔵がある。いずれも地方史研究には価値のある遺跡である。
紀宝町教育委員会
県道沿いにあった看板(投稿写真)の全文
2012年07月02日 ポリタンク大和守
京城
北の堀切は岩を断ち切ったもので、付近の西斜面に登り石垣があります。
現地で想像した見学ルートは、お墓付近の西にある小さな表札から入って、平面部を横断して北東奥まで、そこから北に向いて北の堀切に至る、という感じでした。
藪がきついので、規模の割には気合いはいります。
2011年05月01日 三河守コーキしゃん
京城
藪が酷くて主郭部までたどり着けませんでした