大洞城(おおぼらじょう)
大洞城の基本情報
通称・別名
- 一柳城、津保城、町村城
所在地
- 岐阜県関市富之保大洞町一柳
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇佐見左衛門尉?
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- 一柳直末
主な城主
- 宇佐見氏、一柳氏、斎藤氏、森長可、稲葉氏、遠藤慶隆、金森長近
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、竪堀、堀切、櫓台
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
加治田城(岐阜県加茂郡)[10.8km]
小倉山城(岐阜県美濃市)[10.9km]
堂洞城(岐阜県美濃加茂市)[12.1km]
関城(岐阜県関市)[14.8km]
金山城(岐阜県可児市)[16.7km]
郡上八幡城(岐阜県郡上市)[18.6km]
猿啄城(岐阜県加茂郡)[19.4km]
明智長山城(岐阜県可児市)[20.0km]
久々利城(岐阜県可児市)[22.6km]
大桑城(岐阜県山県市)[22.9km]
大洞城の解説文
[引用元:Wikipedia「大洞城」の項目]
一柳城(ひとつやなぎじょう)は、岐阜県関市(旧美濃国武儀郡)富之保一柳にある日本の城跡(山城)。
別名、大洞城、津保城、町村城。
位置
郡上八幡城と加治田城(加茂郡)の中間地点にあり、重要な位置にあり重視された。濃尾平野最北端からまだ津保川を上流へ向かうと、山に囲まれた盆地に位置する。一柳城(大洞城)は武儀町一柳の山頂付近に築かれており、西を武儀倉川、東を津保川が流れ、二つの川は下流で合流して三方を川に囲まれた地形にある。
概要
築城年代は明応年間(1492年から1501年)までの間とされ、美濃国守護土岐氏の家臣と伝わる宇佐見丹波守弘房が大洞城を築城し先谷八幡宮を造営した。[1]天正12年(1543年)には宇佐見左衛門尉という人物が先谷八幡宮へ大般若経600巻を寄進している。[2] その後美濃を攻略した織田信長は、郡上八幡城の遠藤慶隆の南下に備えて、大洞城を一柳直末に命じて改修させる。その際大洞城から一柳城と改称する。その後、加治田城主の美濃斎藤氏利治の領土となり支城となる。斎藤利堯病死後、加治田城(廃城後)に次ぐ重要拠点となる。森長可が小牧・長久手の戦いで討死後の1587年、豊臣秀吉は遠藤慶隆を転封し、一柳城(大洞城)に稲葉貞通を入封。稲葉貞通は郡上八幡城を中心とし、中でも大洞城は加茂郡から郡上八幡に至る重要な位置にあり重視された。
1600年、関ヶ原の戦いの際、遠藤氏は東軍に属して郡上八幡城、一柳城を攻めた。戦後、稲葉氏は豊後国臼杵城主として転封され、一国一城令に基づき、一柳城は廃城となった。
現在
- 主郭、腰曲輪、小曲輪、土塁、竪堀、堀切、櫓台、石垣、虎口跡の石積が残り城郭遺構が現存している。
- 主郭には小さな祠が建っており一柳神社がある。
- 城跡より、周りの盆地を見渡すことが可能で小さいながらも城下町が残る。
資料
- 「源平の戦いの後、甲斐国から命を受けた大和守昌知が大洞に仮小屋を造り大洞城と名付け、この地一帯の荘園の管理をした。(荘司ヶ洞に宇佐見丹波守が居城を構えた)その後、美濃が信長の領地となり一柳伊豆守直末(殿様)が愛宕山に新たに築城し後に一柳城と名付けられた。」()より。
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大洞城の口コミ情報
2021年01月09日 とんかつおやじND
小萱城[大洞城 周辺城郭]
標高238mの山城 真下に飛騨川や飛騨街道が通る交通の要衝
通称城ケ洞
「[七宗町史通史編]によれば「最後の城主は飛騨の金森家で、その基地は樫原にあり、城は見張り場所の役をしていたらしい。……」
なお、[七宗のあゆみ]によれば、城跡に金の茶釜やその他の宝物、金森氏の軍用金が埋まっていると言う伝承があると記載している。
中世城郭報告書より抜粋
コンパクトですが楽しめました
2020年12月29日 とんかつおやじND
野原城[大洞城 周辺城郭]
1573年、東濃制覇を目指す苗木遠山氏に攻められて陥落した城の跡地。この城の城主、安江光庵基政は、江戸時代に大山白山神社を再興し、安江氏はこの地域で繁栄した。
河東(かとう)の野原(のわら)に城あとがある。この城にまつわる悲しい物語である。
今から凡そ四百年前、天正年間織田信長が京都の本能寺で、明智光秀に倒され、天下は乱れて、東濃の風運も急をつげ、兼山城主の武蔵守長可(ながよし)は、東濃地方を手中に押さえようとして、次々に城を攻め落とし、この野原城(のわらじょう)にも駒を進めてきた。
野原城は、安江長政の子 正常が守っていたが、勇名高い森の軍勢に攻め立てられ、もろくも落城し、城主正常は城を捨てて程近い岩くつに逃げ延びた。
この時、奥方は、一旦逃げ出したものの、荒くれ軍兵に追われ、手向かうこともできず、たちまち捕らえられて、その場で荒武者に切り裂かれて、飛騨川に投げ込まれた。この場所は、宇津尾(うとう)の谷川が、飛騨川に流れ込む天神平と云うところである。
それから三日後、お方さまの傷だらけの死体は、流れにもまれてその下手の岩にひっかかって、晒されていた。里人は、このむごたらしいさまを見ても、敵のとがめを恐れて手をくだすこともできなかった。
いく日か過ぎて、お方さまの腐り果てた死体は、はげしい飛騨川の流れにもまれて、ちぎれちぎれになって、流れ去ろうとしたが、お方さまの執念が、こりかたまったかのように付近の岩にしがみついて、岩にひっかかったまま残っていたという。
体が、二つに分かれた岩が「二つ岩」、七つに分かれてひっかかった岩が「七つ岩」、腕が引っかかった岩が「腕岩」、股(もも)がひっかかった岩が「股根岩(ももねいわ)」と今でも残っている。
それらの岩々は、戦国の悲しい物語として、野原城の真下まで、飛騨川一千米の間に点在して、今でも里人に語り伝えられている。
「ふるさと白川 創刊号」より
飛騨川橋梁の絶景が見られます
2020年12月21日 青コアラ美濃守
山麓居館跡[大洞城 遺構・復元物]
稲荷(一柳)神社の駐車場のすぐ横の平場が、城主の平時の居館跡とされています。ただ現在は深い藪となっていて、散策は困難です。東側に後世のものかも分かりませんが、石垣の痕跡が見られます。
2020年12月20日 青コアラ美濃守
駐車場[大洞城 駐車場]
稲荷(一柳)神社に2、3台停められるスペースがありますが、車高の低い車は下を擦る恐れがあるので、少し離れますがこちらを利用されるといいでしょう。神社まで徒歩5分ほどです。
2020年12月20日 青コアラ美濃守
大洞城
稲荷(一柳)神社から登るのが一般的なルートですが、城山の南西麓の水無神社方面から林道を利用して登る事もできます。
水無神社の裏の道を上がるとすぐにグラウンドに出ますが、その先は荒れていて車では行けないので、林道入口の脇に停めてあとは徒歩になります。途中の分岐は右へ、15分ほどで山頂に着きます。
稲荷神社からのルートより距離は長いですが勾配は比較的緩やかなので、多少楽に登れるかと思います。ただどちらのルートも足元は悪いので、出来ればトレッキングシューズが望ましいでしょう。
どちらから登っても同じ南西の曲輪跡に出ますが、この曲輪は林道の建設によって破壊されてしまっています。遺構を壊してまで造った林道も今は放置されていて、何だかなぁという気持ちになります。
ちなみに稲荷神社からのルートの、山頂に着く手前辺りで左上を見上げると、かろうじて破壊を免れた石垣を僅かに見る事ができます。
2019年04月28日 ライ
大洞城
主郭付近の石垣!
稲荷神社側から登りましたが、倒木が激しい。倒木の枝を掻き分けながら登りました。
2017年05月17日 あきおこ
大洞城
【アクセス】関市富之保県道63号線沿いのスーパーマルマンと住宅の間に神社への道路が登城路です。トイレはありません。駐車場は無いので神社の空き地か路肩スペースに駐車することになります。
【見どころ】神社左横は居館跡と思われる削平地があります。ここから城跡までは約10分。竪堀状の虎口を経て左側が郭を破壊した空き地がありその先の藪の中に破壊を免れた土橋を伴う堀切があります。虎口右側が主郭側で城の見どころともいえる立派な櫓台石垣が現れます。破城痕なのか一部崩れています。櫓台横の狭路には鏡石が置かれ虎口となっています。帯郭を経て桝形虎口を通ると主郭に至ります。虎口付近は石垣が残存します。主郭北尾根には堀切があります。北帯郭周辺は樹木が刈られて眺望がいいです。未完成な感もある小城ですが、この奥美濃山中に織豊期の石垣が見られるのは感動ものです。
2015年09月30日 ゆう
大洞城
以前 神社の脇から登りましたが 頂上から見下ろすと車で上れるような工事をしてました。
完成してるか どなたか教えてください。
2013年02月24日 三河守コーキしゃん
大洞城
地図のピンの位置より南側(県道63号線)にスーパーがあり、スーパーの脇の路地を北に進むと一柳神社があります。
一柳神社の裏の山が大洞城です。
神社に3台程クルマを置けるスペースがあり、トイレはありません。
山の谷間をひたすら登ると、途中で竪堀になります。
主郭部には石垣があり、南側の櫓台にも石垣が残っていています。
登城道に当たる谷間は道がないので登る際は注意が必要です。