稲村城(いなむらじょう)

稲村城の基本情報

通称・別名

所在地

千葉県館山市大字稲字城山他

旧国名

安房国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

里見義実

築城年

15世紀後期

主な改修者

主な城主

里見氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(里見氏城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

館山城(千葉県館山市)[4.7km]
岡本城(千葉県南房総市)[8.5km]
勝山城(千葉県安房郡)[14.1km]
山之城(千葉県鴨川市)[16.9km]
造海城(千葉県富津市)[23.8km]
秋元城(千葉県君津市)[29.6km]
佐貫城(千葉県富津市)[29.9km]
三崎城(神奈川県三浦市)[30.4km]
浦賀城(神奈川県横須賀市)[31.7km]
新井城(神奈川県三浦市)[32.1km]

稲村城の解説文



稲村城(いなむらじょう)は、千葉県館山市稲(いな)(安房国安房郡)にあった日本の城。2012年(平成24年)1月24日に岡本城(南房総市)とともに「里見氏城跡」として国の史跡に指定された。

概要 

館山平野・鏡ヶ浦を見下ろせる標高64メートルの丘陵上に築かれ、東西・南北ともに500メートル規模を持つと推定される。また、主郭部分の東側を削り、西側の尾根を盛土した痕跡がうかがえる。

伝承では文明18年(1486年)に里見義実が築城し、延徳3年(1491年)に完成したとされるが、確証はない。ただ、築城が15世紀後半と推定されること、里見氏最初の本拠地とされる白浜城との間で道が整備されていたことが知られていることから、一次史料からは確認されないものの、稲村城が里見氏当主の居城であったこと、また同時代の人々にそう認識されていたことは間違いない事実と認定できる[1]

稲村城に本拠を構えることで里見氏のその後の飛躍を決定づけた。稲村城の立地は国府一帯を一望できる絶好の構えであった。このことから稲村への進出は、まさに守護の掌握する国衙領=守護領及び国衙機構への守護支配体制を継承する意味を持つといえる[2]。しかし、戦国時代には国衙機能が喪失されていることから、里見氏の稲村城進出が国府を意識したものだと捉えるのは不適切とする反論もある[3]。また稲村城は、古代以来安房国内で最も生産性の高い地域、およびその水系を管理・掌握する位置にあったと推測され、館山平野の農業生産構造における稲村城の位置を重要視するべきとする指摘もある。

天文2年(1533年)から翌年にかけて発生した天文の内訌が「稲村の変」と呼ばれているように、同城が舞台となっていた(ただし、伝承として伝えられている内訌の経緯と現存の文献などから推定される内訌の経緯は大きく異なっている。詳細は稲村の変を参照のこと)。この内訌で稲村城主であった4代当主里見義豊は、従兄弟である義堯に滅ぼされて家督を奪われて稲村城もそのまま廃城となった。

参考文献 

  • 【書籍】「すべてわかる 戦国大名里見氏の歴史」
  • 【書籍】「千葉県の地名」

稲村城の口コミ情報

2024年02月13日 千葉相模守早雲
稲村城



里見氏の内訌により廃城となりましたが、本丸のある城山から伸びる尾根や斜面にも郭が展開されており、規模の大きい城郭です。

特に南尾根には大きめの郭群が設けられ、東西に伸びる水往来が登城路となっています。岩盤を削って作られており、房総の城の特徴が現れています。

本丸には土塁を巡らせ、また2ヶ所の虎口を設けて、その外側には城山を独立させるように堀切で尾根を切っています。こちらも見どころです。

南尾根の中郭で不意に猪と遭遇しました😱何事もありませんでしたが、リア攻めの際にはご注意ください。

1.東水往来。
2.中郭。ここで猪と遭遇。
3.西水往来。
4.尾根道。
5.本丸。
6.本丸土塁。
7.本丸東側の虎口。
8.本丸東側の堀切。

2023年06月06日 RED副将軍
稲村城



里見氏を二分した内紛である稲村の変の舞台⚔

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1486年に里見義実により築かれたと伝わりますが定かではありません。
里見氏は、源義重の庶流であり、妾との子であった新田義俊が分家して上野国碓氷郡里見郷を与えられ里見氏を名乗ったことが始まりです。
その後、様々な諸説がありますが、享徳の乱の際に関東管領上杉憲忠の殺害に関与した里見義実は、上杉氏の支配がおよばない安房国白浜を拠点に勢力をひろげ、房総里見氏の祖となりました。その際に拠点として築いたのが稲村城とされ、三代当主の里見義通の時代に白浜城から稲村城に本拠地が移されました。
1533年、家督を継いだ里見義豊は当主の座を脅かそうとする叔父の里見実堯とその側近である正木通綱を誅殺した稲村の変が勃発。背景には小田原の北条氏綱が上総侵攻のために里見実堯や正木水軍を掌握していた正木通綱に近付いており危機感を覚えたことにあったとされます。
しかし、里見実堯の子である里見義堯と、正木通綱の子である正木時茂・時忠兄弟は仇討と称して造海城で謀反の兵を起こし、里見氏を二分する内紛となりました。
小田原北条氏の援助を受けた里見義堯は、真里谷氏の元へ逃走しようとした里見義豊を討ち取り家督を奪ったとされます。
里見氏は庶流の義尭の系統となると滝田城または宮本城に本拠を移したとされ、稲村城は廃城となった様です。

見所
比高30mほどの切り立った台地上の主郭を中心とし主郭の南から東にかけて高さ3mの土塁が巡ります。虎口も東と西の2ヶ所に開口し桝形を伴います。
南尾根には「正木様」と呼ばれる祠の建つ部分があり、その南下には東西に切通しが付けられており、岩盤を垂直に掘削したもので房総特有の見事なものです。

2023年04月12日 マタローちゃん大宰少弐
稲村城



カーナビを便りに国道128号から南に入り、内房線の踏切を越えて農道を進むと案内板が出現。さらに進むとまたも案内板があるが、車はここまで。ちょうど車二代分くらいの空き地があった。恐らく個人の私有地ではない。そこから徒歩で進むと直ぐ二又になっていて右の道を山に向かって登って行く。途中にも案内板が幾つもあるが木々が邪魔して見えにくいかも。それを見落とさなければ確実に本丸にたどり着ける。本丸はそれなりの広さがあるものの案内板があるだけ。しかし、昔の山城としての見応えはある。

2023年03月12日 信濃守学堂
稲村城

車を使わずあの辺りまで行くと内房線も1時間に1本なので、時間配分に要注意なのですが、館山駅のレンタサイクルで電動ママチャリ、2時間500円を借りてひとっ走り(笑)。道はかなりフラットなので、便利でしたよ(笑)。

2023年01月16日 国府左京大夫城介
加茂城[稲村城  周辺城郭]



正木時通との関連があるかもしれない城

【歴史】
築城者・築城年代共に不明。

【遺構】
稲村城から東北東4.5kmにある独立した台地(比高20m程)に築かれている。
主郭部分は畑になっているが、北側に向けて複数の腰曲輪が置かれている。また、東側には物見台に適した高まりがある。また、櫓台から主郭方面に向け石積みの土塁があるが、神社を建てた時に造られた可能性がある。
また、地名として「城ノ越」「堀ノ内」「堀切」という名前が残る。

城の西側には、正木時通が再興した日運寺があり、正木時通と弟の頼忠の墓所がある。

【感想】
城自体は古いタイプなのか、房総系の城郭の特徴である岩盤堀切や垂直切岸はなく、ただ主郭周りに腰曲輪を複数配置しているだけである。主郭周りは畑?っぽいようなので、あまり奥までは入らず、遠くから眺めるだけではあったが、複数の曲輪が段々に配置されているのが分かります。地元の人によると、城としての認識はあるが、どちらかというと砦のイメージを持っているようです。

城の西側にある日運寺は、正木時通と頼忠の墓所があることから、正木氏にとっても何らかの重要な場所だったのかなと思っています。また、城の東端には物見台らしき高まりもあり、館山へ入るための街道を見張る役目を担っていた可能性もあります。

【アクセス】
①南三原(みなみはら)駅から徒歩で約35分。
②館山駅から「亀田病院」行きに乗車し、「加茂坂下」で降車し、徒歩2分。
③車の場合、日運寺の駐車場が利用可能。

【写真】
①遠景
②物見台への登城口
③神社と物見台らしき高まり
④石積みの土塁
⑤主郭の腰曲輪

2023年01月13日 国府左京大夫城介
大井城[稲村城  周辺城郭]



安房では珍しい台地上に築かれた連郭式の城

【歴史】
築城者、築城年代(戦国期ではあるが)共に不明。

城主として、里見義弘の子・薦野神五郎頼俊の可能性がある。
薦野氏は多々良氏の一族で、薦野時盛の娘が里見義弘の側室となり、その子が頼俊となる。里見家が改易後は、水戸藩に仕えている。一方で、改易時に抵抗して戦死したとも伝わる。

【遺構】
稲村城の東に約2.5kmに位置する台地(比高25m)に連郭式の城郭として築かれている。
三つの郭が連続しており、その間を堀切によって分けている。北郭が最も広く堀切に面する場所に神社が建てられている。中央郭が他の郭と比較すると若干高い位置にあることから、主郭とも考えられるが、物見櫓跡という伝承もある。また、各郭は垂直切岸による整形が行われており、腰曲輪から容易に登れないようになっている。
堀切は3つあり、北郭と中央郭の間は幅広だが浅い。中央郭と南郭の間は土橋が架けられており、両脇は竪堀として落ちている。南郭の南側には、尾根を切断した岩盤堀切がある。

【感想】
安房というより、里見系の城郭では極めて珍しいタイプの城で、低い台地上に築いた連郭式の城郭です。里見系の城郭は山の高低差を利用した縄張りが多いのですが、この大井城はそういった里見系城郭の中ではかなり異質な城となります。縄張り的に珍しいですが、岩盤堀切や垂直切岸などといった個々のパーツは里見系らしさが満載です。
館山城や稲村城を訪れたのであれば、この大井城も是非訪れてみてください。夏場は分かりませんが、冬場であればほぼ藪もなく、良好な状態の遺構を堪能することができます。

登城口はスポットを作成したので参照としてください。登城口から登っていくと墓地がありますが、そのまま突っ切っていけば城域に達します。なお、この登城道は後世のものだと思いますが、岩盤を削った道で房総らしい造りになっています。

【アクセス】
①九重駅から徒歩30分。
②館山駅から「亀田病院」行きに乗り、「九重大井」で降車し、徒歩2分。

【写真】
①遠景
②岩盤堀切
③土橋と堀切
④土橋東側の竪堀
⑤中央郭東下の堀切
⑥北郭中央郭の間の堀切
⑦北郭の土塁と神社
⑧北郭下の垂直切岸

2022年11月27日 国府左京大夫城介
石堂城(石堂寺)[稲村城  周辺城郭]



喜連川頼氏が幼少期を過ごした地

【歴史】
築城年は不明だが、丸氏によって、石堂寺がこの地に本堂が再建された永正10年(1513)以降と推測される。
築城者は丸氏若しくは里見氏。

石堂寺は元々「石塔寺」といい、神亀3年(726)に行基上人によって創建されたと伝わる。
平安時代後半からこの地の豪族である丸氏の氏寺として繁栄していたが、文明19年(1487)に夜盗の災火により全山焼失してしまった。丸氏の援助により、20年近くかけて復興された。
天文7年(1538)に、国府台合戦で小弓公方である足利義明が戦死すると、その子の頼純や孫の頼氏(初代喜連川藩主)が、里見氏の庇護のもと、幼少期養育された。その縁もあり、頼氏の幼名である「石堂丸」に因んで、寺名を「石堂寺」に改めた。

【遺構】
石堂城は石堂寺の東側にある山(標高126m)に築かれている。主郭は広くはないが、急傾斜の地形に加え、北側と南側に土橋と堀切が残っている。石堂寺から繋がる尾根には、竪堀が残っている。

石堂寺は所謂城郭寺院であり、周囲から切り立った台地上に築かれている。曲輪や土塁、堀切などの遺構が明瞭に残っている。基本的に北から東にかけて土塁が築かれていることから、東側が大手にあたると思われる。
更に石堂寺の西側の台地上は、かつては尾根続きであった石堂原城(現在は畑)もある。

【感想】
石堂寺、石堂城、石堂原城を合わせて一つの城郭であり、主郭としての機能は石堂寺に、東西の出城として石堂城、石堂原城が役目を担っていたのだと思います。岩盤を削った堀切や切岸もあり、寺院ということで破城は免れているため、残存具合は極めて良好です。また、石堂寺の管理下にあるため、綺麗に整備されているので、遺構はとても見やすいです。

石堂寺の社務所にある「波の伊八」の彫刻(拝観料500円)があります。「波の伊八」は、葛飾北斎の富嶽三十六景神奈川沖浪裏に影響を与えた人物です。躍動感と立体感がすごく、本当に木を彫って作ったのが信じられないくらいのものです。

【アクセス】
館山駅からバス(日東交通)で「川谷・細田」行きに乗り、「石堂寺前」で下車。
バスの本数は少ないので、事前にHPで要確認。
駐車場あり。

【写真】
石堂城
①主郭
②北側の堀切
③尾根の竪堀
石堂寺
④本堂
⑤切通
⑥薬師堂と土塁
⑦東側の堀切
⑧石堂原城を望む

2022年02月27日 JA1Z安房守
堀切[稲村城  遺構・復元物]

水往来からこの堀切に至る道は、狭い尾根上の一本道で、面白い構造です。

2022年02月27日 JA1Z安房守
切岸[稲村城  遺構・復元物]

見事な切岸です。この先に横穴墓があるためか、石仏がいくつか置かれています。

2022年02月27日 JA1Z安房守
本丸[稲村城  遺構・復元物]

稲村城本丸からの眺めは絶景です! 安房国が一望に見渡せます。ぜひ訪れてご覧下さい。

2022年02月27日 JA1Z安房守
水往来(堀底道?)[稲村城  遺構・復元物]

かつて水を取るために往来した道なのでしょうか。周囲から見えないように見事な切り通しの道が作られています。

2022年02月27日 JA1Z安房守
水往来登城口(西)[稲村城  遺構・復元物]

わかりにくいですが、道から右上に上る溝のような登城口です。

2021年12月05日 相模守愛洲久忠
稲村城



先人の書かれた口コミ情報をもとに、防火水槽横のスペースに駐車させて頂き登城しました。

城跡までは防火水槽前から左手に向かって歩きます。道路はまず最初に左90度に曲がると、直進と左折の交差点にさしかかりますのでここを直進して下さい。いかにも民家の入り口のように見えて躊躇ってしまいそうですが、ブラインドの右カーブのすぐ先に稲村城の案内板が現れますからご安心を。

この地点からが東水往来という登城道です。余湖様のサイトを参照するとここがかつて城の大手だったようです。苔の付着した岩盤地質で、わずかですが流水があり滑りやすくなっていますので上り下りには細心の注意をお願いします。


写真① 東水往来頂部の削平地
写真② 腰郭
写真③ 主郭部から見た館山市の眺め
写真④ 主郭部南側の土塁
写真⑤ 主郭部西側の虎口
写真⑥ 東水往来虎口
写真⑦ 主郭南側堀切
写真⑧ 東水往来切り通し

2021年09月10日 陸奥守新九郎
稲村城



なかなかに登り口がわかり難いお城でした(^_^;)
行かれる方は、九重駅からの場合は南側から登るイメージで、看板がある貯水槽をひだりへ。館山駅側から行かれる方は「稲」の交差点の手前の踏切から道標が付いていますε-(´・`) フー
それでも主郭まで登り、これが里見の本城🏯かと感慨深く見学させて頂きました✨

2021年09月08日 カネゴン大膳大夫
稲村城



前期里見氏の居城です。九重駅を出たら館山方向に10分ほど歩きます。途中、踏切が見えて そこからも行けますが…さらに進んでからのが案内板も見えて、わかりやすいです。遺構としては堀切・虎口・土塁など良好です。

2021年04月05日 装鉄城大膳大夫乱怒
稲村城



外房線九重駅から館山方面へ道路を進み、最初の踏切で左折。そのまままっすぐ進むと傍の山への登り口があります。大体入口から主郭まで10分くらいでした。

2021年01月03日 国府左京大夫城介
山本城[稲村城  周辺城郭]



里見氏の重臣・山本氏の居城か

【歴史】
詳細不明。里見家家老の山本清七の居城の可能性もある。

【遺構】
稲村城の南西1.2kmの所にあり、竜渕寺と館野小学校の間にある台地上にあります。
竜渕寺の本堂脇から登城することを推奨します。(もう一つは民家の脇を通っていくので)
単郭の城で、北側の尾根側を分断するかなり大きな堀切があります。
その堀切がある北側の土塁はやや厚めで、東と南側にも土塁があります。
竜渕寺の登城口から更に奥へ進むと、おそらく腰曲輪と思しき場所に行くことができる。
その途中には、虎口らしき遺構も確認できるが、倒竹が激しく遺構の確認は厳しい。

【感想】
主郭は地元の人が定期的に整備しているのか、かなり綺麗で遺構の状態は見やすいです。
この城の一番の見所は、主郭北側にある堀切で、城の規模からしてもかなりの大きいです。
この堀切は、北側の尾根からの侵攻を防ぐ目的で掘られています。山本城の北に何があるかというと稲村城があります。ひょっとすると、稲村城と敵対していた頃に築城されていたのかなと…あくまでも想像ですが。

【アクセス】
①館山駅からバスで、国分寺前バス停で下車し、徒歩5分程。
②稲村城から徒歩で約30分。

【写真】
1:竜渕寺(左側の台地が山本城の先端部分)
2:東登城道(竜渕寺側から
3:西登城道(民家側から)
4:主郭
5:堀切
6:腰曲輪の虎口?

2020年11月08日 大竹安房守
稲村城

稲村城、11月現在、倒木が多くありましたが、主郭まで登城することができました。
貴船神社脇、坂道から登城。

2020年10月24日 あーさん
稲村城

立ち寄って見ましたが10.24現在も入れないようです

2020年03月22日 国府左京大夫城介
稲村城

R2.3.22現在、稲村城の登城口が土砂崩れのため、立ち入り禁止となっています。

2019年04月06日 えんちゃん
稲村城

夕暮れに登城しました。主郭からは夕焼けと鏡ヶ浦、その後の夜景がとても綺麗でした。ここから里見殿も見ていたのでしょう。2回の内紛があった場所、今は静かにたたずんでいます。眺めは綺麗ですが夕方は足元が見づらく、やはり日中の登城をお勧めします。

2018年02月22日 雑賀
稲村城

駐車スペースについて

館山市役所のホームページより抜粋
『稲村城跡の見学者は稲村城跡案内看板の付近に駐車してください』とのことです。3、4台分ほどのスペース有り。登城口までは徒歩3分程度の距離になります。

2015年09月20日 STRADA
稲村城

線路を越えて矢印の先に『駐車場が無くてゴメンナサイ』の看板。繁忙期で無ければソコに停められる?突き当たりは右かな。

2015年08月31日 ⛫武蔵の越前守の謙
稲村城

国道128号線、稲交差点(スーパーマーケットおどや九重店が目印)を県道187号線千倉方面に曲がると直ぐに踏切がある。それを渡り、最初の交差点(ここに案内有り)を右折し、少し進むと稲村城の案内板が有る。

案内板のそばの防火水槽の周りに車三、四台の駐車スペースがある。

2014年12月30日 三日左馬助落人
稲村城

里見氏の壮絶な内紛劇「稲村の変」の舞台となった城です。

城跡は感動の一言。農地利用されてる部分が多いようですから探索には配慮が必要ですが、ほとんど遺構地形をそのまま利用しているようで、戦国前期の遺構がほぼ完存と言えるんじゃないでしょうか…

特に主郭部からの眺め、大土塁や虎口などは必見。ただ、駐車場はなく、登城口も入り組んだ宅地を入ったところにあります。農地への配慮とあわせて注意が必要です。

時間があれば、犬掛という所にある「里見氏の墓」と「犬掛古戦場」を併せて見学されると理解が深まるように思います。



稲村城の周辺スポット情報

 水往来登城口(西)(遺構・復元物)

 水往来登城口(東)(遺構・復元物)

 水往来(堀底道?)(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 本丸虎口(遺構・復元物)

 切岸(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 中郭(遺構・復元物)

 平松城 説明板(碑・説明板)

 平松城 標柱(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 山本城(周辺城郭)

 平松城(周辺城郭)

 石堂城(石堂寺)(周辺城郭)

 大井城(周辺城郭)

 加茂城(周辺城郭)

 館山市立博物館本館(御城印)

 館山城(八犬伝博物館)(御城印)

 駐車可能スペース(駐車場)

 登城口(その他)

 大井城登城口(その他)

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