石神井城(しゃくじいじょう)

石神井城の基本情報

通称・別名

所在地

東京都練馬区石神井台1-27

旧国名

武蔵国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

豊島勘解由左衛門尉

築城年

鎌倉時代後期?

主な改修者

主な城主

豊島氏

廃城年

文明9年(1477)

遺構

土塁、堀

指定文化財

都史跡(石神井城跡及び三宝寺池)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

愛宕山砦(東京都練馬区)[0.8km]
練馬城(東京都練馬区)[4.5km]
右馬頭屋敷(東京都練馬区)[5.1km]
成宗城(東京都杉並区)[5.4km]
牟礼砦(東京都三鷹市)[5.6km]
赤塚城(東京都板橋区)[6.7km]
和田山(東京都中野区)[7.1km]
金子氏館(東京都三鷹市)[7.3km]
烏山城(東京都世田谷区)[7.8km]
中野城山居館(東京都中野区)[8.0km]

石神井城の解説文



石神井城(しゃくじいじょう)は日本の城。所在地は東京都練馬区石神井台。東京都指定文化財史跡。

概要 

石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期の日本の城であり、長尾景春の乱で没落するまで同氏が拠った。

歴史・沿革 

石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。豊島氏は貞和5年(1349年)に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元年(1368年)の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2年(1395年)になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。

平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9年(1477年)のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生[1]・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫[2]・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。

その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田大学高等学院周辺)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29年(1896年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。

一部通説の変化 

近年、これまでの「通説」の一部が、史料の再検討により否定され始めている。以前の通説は、『太田道灌状』と『鎌倉大草紙』の記述を合わせて作られていたが、「『大草紙』の豊島氏関連記事は、後年『道灌状』を下敷きに、作者本人の解釈や想像、伝え聞きなどを付け加えて書いたものであり、信用性に欠ける」として、大半の史家が採用しなくなったためである。

太田道灌が最初に攻めた城について

  • (以前の通説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は平塚城
  • (新説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は練馬城

以前の通説は『太田道灌状』の「自江戸打出豊島平右衛門尉要害致矢入近辺令放火」と『鎌倉大草紙』の「江戸より打ち出で、豊島平右衛門尉が平塚の城を取巻外を放火」という記事を合わせたものとなっていたが、現在これを支持している研究者はほとんどいない。主な理由は以下の通りである。

  • (1)『太田道灌状』では、道灌が最初に攻めた城については「平右衛門尉要害」となっているだけで、これが「平塚城」である、とはどこにも記されていない。
  • (2)「平右衛門尉の城(要害)」は、道灌が石神井方向から自軍を追ってきた豊島方に対して「馬を返して(引き返して)」江古田原で迎え撃った、との記述が出てくることを考えれば石神井城と同方向にある「練馬城」とすべきである。『道灌状』の「兄勘解由左衛門尉相供石神井・練馬城自両城打出」も、通説のように「兄の勘解由左衛門尉が石神井城・練馬城の両城から兵を率いて攻撃に向かった」のではなく、「石神井城の兄・勘解由左衛門尉が、練馬城の弟・平右衛門尉と共に自城から出撃した」と解釈するのが妥当である。
  • (3)弟の平右衛門尉は江古田原で戦死しているが、「平塚城から出撃した」との記述がないにも関わらず戦闘に加わっている点をみても、平右衛門尉と従兵は練馬城より出兵したとみるのが自然である。
  • (4)平塚城近くにある豊島氏ゆかりの寺「清光寺」には同時期「荒廃していた」との寺伝が残されていることからも、豊島一族はその頃すでに拠点の中心を西方に移していた、と考えるべきである。
  • (5)『道灌状』には翌文明10年(1478年)1月に勘解由左衛門尉が「平塚と申すところに対城こしらえ」と記されており、前年の段階ではまだ平塚城は戦闘用の城郭ではなかった、と考えられる。
  • (6)道灌が最初に平塚城を攻めているのならば、翌年になって「平塚と申す所」という、あたかも初めて名前を出すかのような表現をするのは不自然である。
  • (7)道灌が江古田原合戦後、練馬城を無視して石神井城の攻撃に向かったことについても、「練馬城主・平右衛門尉が江古田原で戦死し、豊島方は練馬城の兵も含めて全て石神井城へ逃げ込んだため」と考えれば説明が付く。
  • (8)時間・距離・方向の点で前半と後半の記述が整合しない。道灌が最初に攻めた城が「平塚城」であれば、石神井城からの救援が到着するまでに道灌は江戸城に戻ってしまっているはずである。道灌が平塚城から「V字型」に進軍するというのも不自然。

豊島泰経の逃亡先について

  • (以前の通説)最後に泰経(勘解由左衛門尉)は丸子城(神奈川県川崎市)からさらに小机城(神奈川県横浜市)に逃亡
  • (新説)足立方面からさらに北に逃げ、以後は行方不明

以前の通説では上記前者のようになっていたが、現在はこれも大半の研究者によって否定されている。主な理由は以下の通りである。

  • (1)『道灌状』には、「泰経を足立まで追いかけたが、遥か遠くへ逃げ去ってしまったので、諦めてその晩江戸城に戻った。翌朝、川崎の丸子に陣を張り丸子城を攻撃したところ、敵は小机城に逃げてしまったので、そのまま追いかけ陣を張った」となっているだけで、丸子城からさらに小机城に逃げ込んだのが豊島氏である、とはどこにも記されていない(伊禮正雄・葛城明彦は、これを「『鎌倉大草紙』作者の速読による誤解」としている)。
  • (2)足立から「遥か北」へ逃亡した泰経が翌朝川崎に現れるはずがない。
  • (3)泰経が、道灌と同盟関係にある吉良氏の領地・世田谷付近を通り抜けて丸子城に向かうことは不可能である。
  • (4)足立の北側から丸子までは直線距離で約30キロ。足立の「遥か北」まで逃亡したのち敵地を避けて迂回し、丸子まで向かうとなれば、その移動距離は40~50キロとなる。また、道灌は追跡を断念して夜に江戸城に戻り、翌朝丸子に向かっているのであるから、丸子城に籠もっていたのが豊島氏だとすれば、豊島方はひと晩にうちに40~50キロの距離を移動し、道灌もその逃亡先を明け方までに突き止めた、ということになる。理論上これは完全に不可能である。

構造 

石神井城は石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状台地上に位置する。ただし、同時期の他城郭とは異なり、台地の先端ではなく基部に占地し、堀切を用いて東西の両端を遮断している。

現在城域一体は開発が進み旧態は失われているが、土塁と空堀を廻らせた内郭が僅かに残っており、発掘の結果、折れを伴った堀・土塁によって城内が複数の郭に区画されていたことが判っている。この城の最終形が完成したのは太田道灌との緊張関係が高まった15世紀半ばで、同時期に江戸城への「対の城」として大掛かりな増・改築が行われた可能性が高い。

城は西から東へ延びる約1キロの舌状台地の西端から中央部にかけて築かれており、全体像は未だ不明である。中心部規模は南北約100〜300メートル・東西約350メートルで、面積は約3万坪。北は三宝寺池、南・東は石神井川という“天然の水堀”によって守られていた。中心部内郭が、台地の先端では無く中央部付近に築かれたのは、豊富な水量を持つ三宝寺池に接する位置の方が、生活利便の上でも防御面においても優れていたためであったと思われる。なお、人工の防御は全て西向きに造られており、これは北・南・東からの侵入が物理的に不可能であったことを示すものと考えられている。台地の付け根部分は、幅約9メートル、深さ約3.5メートル(土塁頂部との高低差推定7メートル)、延長約300メートルにも及ぶ「大濠」によって断ち切られており、その先は小規模な空堀と土塁が内郭に至るまで連続する構造となっていた。『新編武蔵風土記稿』には、「櫓ノアリシ跡ニヤ、所々築山残レリ」とあるが、現在もその名残りとして、大濠内側の地表に若干の高まりが見られる(かつての規模は頂部25×15メートル・径40メートル・高さ0.8メートル。昭和32年の調査では、柱穴が検出されたほか、陶磁器片2片が出土)。また、大濠の西、内郭の東にも外城や城に付随する何らかの施設があったと考えられている(東側には「大門」の小字あり)。

内郭部分等では、これまでにもたびたび発掘調査が行われており、近年においても1998年から2003年にかけて6年連続で実施されている。この時には、内郭の空堀が「箱堀」で、深さ約6メートル・上幅約12メートル・下幅約3メートルであることが判明、人為的に一部が埋められた跡も確認された(道灌に対して一旦降参した際の痕跡とする説が有力)。土塁の基底部幅は16.3メートル、高さ約3メートル(城が存在していた当時の高さは推定約6メートル)。また、内郭の土塁内側からは1間×1間の掘立柱建築物、3間以上の総柱または庇付建物の可能性が伺える柱穴が検出された。そのほかには直径約4メートル、深さ約3メートルの巨大な地下式坑が検出され、これは食料貯蔵庫の跡と推定されている(地下式坑は昭和42年調査では計3か所検出)。内郭への出入りは、土橋がない状態であっても西側に「折(おり)」(真横から矢を射掛けるための構造)が存在することから、木橋によって行われていたとみられる。また、土塁中からは道灌との合戦時期に近い15世紀頃の常滑焼片が出土しており、内郭は戦闘に備えて急遽増築されたものとも考えられている。内郭からは遺物として、12世紀以降の陶磁器、かわらけ、瓦、小刀、砥石など(以前の調査では灯明皿、石臼片、焼米、鉄釘、墨等も記録されている)が出土。陶磁器は日常品が少なく、白磁四耳壷・青白磁梅瓶・褐釉四耳壷などの威信材が目立つ。これについては、「戦闘前に貴重品を内郭に運び込んでいたため」とする説もある。全体的には生活痕が乏しく、そのため近年では「内郭は生活の場ではなく、非常時の籠城用施設であった」とする見方が有力となっている(城主の平時の居館の位置については、「三宝寺裏山付近」とする説が有力。※内郭部に隣接する場所で、近年まで土塁・空堀がみられたこと等からの推測)。なお、土塁南側には切れ込みが観察されるが、これは虎口ではなく、近世に入ってから造られた通路である。

現在、内郭は遺構保護のためフェンスが設けられており、無許可で立ち入ることは出来ない。

考古資料 

現在 石神井公園近くの石神井公園ふるさと文化館の二階において出土品を見る事が出来る。 無料

遺構

内郭の空堀及び土塁が石神井公園内に残る。また、三宝寺池西南端付近に空堀の痕跡、その南側住宅地内に物見櫓跡の痕跡(円形の高まり)が認められる。

愛宕山城

愛宕山城は、石神井川をはさんだ対岸の小高い岡(現・早稲田大学高等学院・中学部)にあり、石神井城のある岡から約700m離れている[3]。平成4年に学校施設建て替えのために発掘調査が行われ、コの字形の堀が発見された。石神井川源流や南方台地を監視するために石神井城の支城として築かれたと考えられ、のちに石神井城を包囲した太田道灌の陣城として再利用したと推測される[4]

参考文献 

  • 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
  • 石神井城跡2019年12月8日閲覧(https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b007.html)
  • 【書籍】「江戸名所図会」|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=3|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之四 天権之部 石神井城址|pages=60-63|ref=}}
  • 【書籍】「鎌倉大草紙」|ref=}}
  • 【書籍】「 「太田道灌状」に見る城郭戦 」
  • 【書籍】「 豊島氏の城郭についての覚書 」

石神井城の口コミ情報

2022年05月31日 うさ左近衛中将
石神井城



石神井城址をひと回りし(遊歩道あり)、在りし日の姿を空想しながらよい時間をすごせました。ボートも借りられるので散策にオススメですよ。

2022年05月12日 江戸っ子左衛門佐
石神井城



徒歩で丸1日を要しますが大体の空堀跡を廻れます。三宝寺池の松の下に金の鞍が沈んでいるとの伝説があるのでその松?を写してみました。

2022年01月09日 陸奥式部卿至宏
石神井城



氷川神社側から行きましたが、敷地には入れなかったです。どっか入れるところがあったのかな?

2022年01月07日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
根古谷[石神井城  関連施設]

明治初期に製作された地図に見える地名。この付近は池淵遺跡の範囲内で、池淵遺跡の発掘調査の結果、方形に区画された溝が発見された。この結果と「根古谷」の地名から、この辺りは石神井城の"根小屋"だったのではないかと推測されている。

2021年08月12日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
パティスリーカシュカシュ[石神井城  御城印]

石神井城には御城印が「通常版」と「太田道灌版」との2種類ある。それら2つの御城印はこのパティスリーカシュカシュで購入できる。1枚300円(税込)

2021年05月04日 不破益麿
石神井城



竹藪の中に空堀と土塁が良好な状態で確認できますが、史跡としてぐるっと柵で囲われていて、位置情報の城跡には近づけません。

2021年04月12日 フジチャン山城守
石神井城

遺構は少ないですが、三宝寺池、石神井池といった都会の喧騒から離れた静寂さを感じられます。
練馬区立ふるさと文化館において、石神井城の企画展を開催しています。
https://www.neribun.or.jp/event/detail_f.cgi?id=202103041614860642

2021年04月04日 左近衛少将てつ
石神井城

今は石神井公園となっており、近所の人達の憩いの場になっています。

2021年01月24日 【城郭道】尾張守たっきー
池淵遺跡[石神井城  寺社・史跡]

石神井城主郭東方300メートルにある遺跡。発掘調査では13から14世紀の溝が検出。豊島氏に関する初期の防御施設もしくは居館遺構と考えられ、池淵史跡公園として整備されている。
築城者、築城時期は不明。

2019年06月08日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
物見塚[石神井城  寺社・史跡]

この辺りにはかつて「不動塚」と「物見塚」があり、この物見塚は豊島氏の時代の関所の番所か見張所だと考えられている

2019年04月24日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
道場寺[石神井城  寺社・史跡]

豊島氏の菩提寺です

2019年04月23日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
石神井ふるさと文化館[石神井城  関連施設]

西側の道路に面した所に石神井城の土塁を模した盛り土がある。

2019年04月23日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
堀跡[石神井城  遺構・復元物]

この道が堀の跡。この道の東側にはかつて土塁があったという。地図に示した地点のちょうど東側には櫓台もあった。

2017年11月01日 雑賀
石神井城

開放期間終了が迫りましたので、改めてこちらにも情報を載せておきます。

11月5日までの期間限定で城址の見学が可能。毎年恒例『東京文化財ウィーク』の特別公開の一環です。

都内区部では大変珍しい貴重な土塁や堀を味わって下さい。

発掘調査時(1998年)の写真パネル展も期間に合わせ開催されます。
なお、城址入口フェンスは16時30分閉門になります。ご注意ください。



2016年11月27日 天宇受売琉球守
石神井城

遺構がよく残り、レストランやトイレ
もあり、施設も充実❗
レストランのオバチャンが優しい❗
三宝寺池を一周回るだけで
結構な運動量。
ダイエットにぴったり❗
絶好のウォーキングエリア。
城内には公園があり、
子供と来るのもオススメでしっ。
以上。石神井城の口コミでした。


2016年10月29日 而今まつまゆ【猫組】
石神井城

吉祥寺駅からとれました。
でも公園まで是非足を伸ばして。とても見ごたえのある公園です。

2016年06月08日 修理大夫本舗游斎
石神井城

23区内の城郭としては良く遺構が残っている貴重な城跡だと思います。フェンスの外からでも折れのある空堀が楽しめますが、是非とも東京文化財ウィーク(11月頃と記憶)の時に本郭に入ってみてください。
外からは分かりませんが今でも重厚な土塁が取り巻いていて一見の価値有りです。かつては堀底から土塁上まで10㍍もあったとか。
石神井城は大まかに言うと、三宝寺池に面したこの本郭(内郭)と外郭の二重構造をとる梯郭式の城だったと思われます。外郭の堀は埋まっていますが一部車道となっているようです。
道灌も内郭までは攻略できなかったのではないか、とどなたかの文章で読んだことがあります。あの静かな武蔵野の緑の中で、かつてどんな攻防が繰り広げられたのでしょうか…。



2016年05月28日 柏木相模守マサカド
石神井城

2016年の「照姫まつり」は5/29(日)10:00~15:30に開催中です。また、豊島泰経の娘・照姫が入水したとされる「三宝寺池」は今の時期、カキツバタの群生も見所です。


2014年11月04日 ぎっちゃん
石神井城

普段はフェンス越しに
見るしかない石神井城
ですが東京文化財ウィークの時期に公開しますよ。思った以上に広い
郭内、高い土塁、必見!

2013年11月13日 野舘宮内少輔サラマンダー
石神井城

2013年11月6日14時50分(85分)

石神井公園の西側の一部分が石神井城址となっております
駐車場は公園の東側にあるようで、少し離れています
私は公園中央を分断する井草通り沿いのパーキングに停めました
先ずは公園西側の野球場そばにあるサービスセンターで、パンフ等を頂きました
このパンフは試作らしく、今後は本格的な物を作るそうです
トイレはこの近くにあります
南下すると三宝寺池に出ます
橋を渡ると石神井城址です
石碑や説明文が幾つかあります
そして、城址は柵に守られています
一周10分位しか城址が無く、パッと見、素人の私には遺構が良く分からずちょっとガッカリです
あと池の北側にある殿塚・姫塚を訪ね、御参り
此方は『太田道灌状』を元にした『照日松』に書かれており、殿塚は豊島泰経、姫塚はその娘の照姫の石碑だそうだが、フィクションである可能性も…との事
物語は道灌に攻められ、泰経が家宝の黄金の鞍を載せた白馬とともに三宝寺池に身を投じ、照姫も身を投じた…との事

2013年01月27日 いおぎ宮内少輔こうた
石神井城

愛宕山から歩きました。

石神井城の周辺スポット情報

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 石神井公園(遺構・復元物)

 石神井城址石碑(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 南の館(周辺城郭)

 北の館(周辺城郭)

 立野の館(周辺城郭)

 善福寺城(推定地)(周辺城郭)

 伝・亀ノ尾城(周辺城郭)

 金山郭(周辺城郭)

 前原先代官屋敷(周辺城郭)

 氷川神社(寺社・史跡)

 道場寺(寺社・史跡)

 姫塚(寺社・史跡)

 殿塚(寺社・史跡)

 池淵遺跡(寺社・史跡)

 禅定院(寺社・史跡)

 関所(寺社・史跡)

 物見塚(寺社・史跡)

 パティスリーカシュカシュ(御城印)

 多機能トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 ワンパーク石神井公園第3(駐車場)

 ワンパーク石神井公園(駐車場)

 石神井ふるさと文化館(関連施設)

 石神井公園サービスセンター(関連施設)

 根古谷(関連施設)

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