石神井城(しゃくじいじょう)
石神井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都練馬区石神井台1-27
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 豊島勘解由左衛門尉
築城年
- 鎌倉時代後期?
主な改修者
- -
主な城主
- 豊島氏
廃城年
- 文明9年(1477)
遺構
- 土塁、堀
指定文化財
- 都史跡(石神井城跡及び三宝寺池)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
愛宕山砦(東京都練馬区)[0.7km]
練馬城(東京都練馬区)[4.5km]
右馬頭屋敷(東京都練馬区)[5.1km]
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石神井城の解説文
[引用元:Wikipedia「石神井城」の項目]石神井城(しゃくじいじょう)は日本の城。所在地は東京都練馬区石神井台。
【概要】
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期の日本の城であり、長尾景春の乱で没落するまで同氏が拠った。
【歴史・沿革】
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。豊島氏は貞和5年(1349年)に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元年(1368年)の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2年(1395年)になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9年(1477年)のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29年(1896年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。
【一部通説の変化】
近年、これまでの「通説」の一部が、史料の再検討により否定され始めている。以前の通説は、『太田道灌状』と『鎌倉大草紙』の記述を合わせて作られていたが、「『大草紙』の豊島氏関連記事は、後年『道灌状』を下敷きに、作者本人の解釈や想像、伝え聞きなどを付け加えて書いたものであり、信用性に欠ける」として、大半の史家が採用しなくなったためである。
~太田道灌が最初に攻めた城について~
・(以前の通説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は平塚城
・(新説)道灌が最初に攻めた豊島方の城は練馬城
以前の通説は『太田道灌状』の「自江戸打出豊島平右衛門尉要害致矢入近辺令放火」と『鎌倉大草紙』の「江戸より打ち出で、豊島平右衛門尉が平塚の城を取巻外を放火」という記事を合わせたものとなっていたが、現在これを支持している研究者はほとんどいない。主な理由は以下の通りである。
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石神井城の口コミ情報
雑賀様[2017年11月01日]
開放期間終了が迫りましたので、改めてこちらにも情報を載せておきます。
11月5日までの期間限定で城址の見学が可能。毎年恒例『東京文化財ウィーク』の特別公開の一環です。
都内区部では大変珍しい貴重な土塁や堀を味わって下さい。
発掘調査時(1998年)の写真パネル展も期間に合わせ開催されます。
なお、城址入口フェンスは16時30分閉門になります。ご注意ください。
東雲様[2016年11月27日]
遺構がよく残り、レストランやトイレ
もあり、施設も充実❗
レストランのオバチャンが優しい❗
三宝寺池を一周回るだけで
結構な運動量。
ダイエットにぴったり❗
絶好のウォーキングエリア。
城内には公園があり、
子供と来るのもオススメでしっ。
以上。石神井城の口コミでした。
而今まつまゆ【猫組】様[2016年10月29日]
吉祥寺駅からとれました。
でも公園まで是非足を伸ばして。とても見ごたえのある公園です。
主計頭ぽーさん様[2016年06月08日]
23区内の城郭としては良く遺構が残っている貴重な城跡だと思います。フェンスの外からでも折れのある空堀が楽しめますが、是非とも東京文化財ウィーク(11月頃と記憶)の時に本郭に入ってみてください。
外からは分かりませんが今でも重厚な土塁が取り巻いていて一見の価値有りです。かつては堀底から土塁上まで10㍍もあったとか。
石神井城は大まかに言うと、三宝寺池に面したこの本郭(内郭)と外郭の二重構造をとる梯郭式の城だったと思われます。外郭の堀は埋まっていますが一部車道となっているようです。
道灌も内郭までは攻略できなかったのではないか、とどなたかの文章で読んだことがあります。あの静かな武蔵野の緑の中で、かつてどんな攻防が繰り広げられたのでしょうか…。
柏木マサカド様[2016年05月28日]
2016年の「照姫まつり」は5/29(日)10:00~15:30に開催中です。また、豊島泰経の娘・照姫が入水したとされる「三宝寺池」は今の時期、カキツバタの群生も見所です。
ぎっちゃん様[2014年11月04日]
普段はフェンス越しに
見るしかない石神井城
ですが東京文化財ウィークの時期に公開しますよ。思った以上に広い
郭内、高い土塁、必見!
野舘宮内少輔サラマンダー様[2013年11月13日]
2013年11月6日14時50分(85分)
石神井公園の西側の一部分が石神井城址となっております
駐車場は公園の東側にあるようで、少し離れています
私は公園中央を分断する井草通り沿いのパーキングに停めました
先ずは公園西側の野球場そばにあるサービスセンターで、パンフ等を頂きました
このパンフは試作らしく、今後は本格的な物を作るそうです
トイレはこの近くにあります
南下すると三宝寺池に出ます
橋を渡ると石神井城址です
石碑や説明文が幾つかあります
そして、城址は柵に守られています
一周10分位しか城址が無く、パッと見、素人の私には遺構が良く分からずちょっとガッカリです
あと池の北側にある殿塚・姫塚を訪ね、御参り
此方は『太田道灌状』を元にした『照日松』に書かれており、殿塚は豊島泰経、姫塚はその娘の照姫の石碑だそうだが、フィクションである可能性も…との事
物語は道灌に攻められ、泰経が家宝の黄金の鞍を載せた白馬とともに三宝寺池に身を投じ、照姫も身を投じた…との事
いおぎ宮内少輔こうた様[2013年01月27日]
愛宕山から歩きました。