右馬頭屋敷(うまのかみやしき)
右馬頭屋敷の基本情報
通称・別名
- 屋敷山、栗山城?
所在地
- 東京都練馬区練馬2
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
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右馬頭屋敷の解説文
右馬頭屋敷の口コミ情報
2025年07月22日 マグロ常陸介祐平
右馬頭屋敷
練馬城から東に約500m、開進第二中学校付近が城跡とされています。遺構は残っていませんが、台地の縁に位置しています。日本城郭体系では「屋敷山」として、明治の頃まではまだ泉水・築山や井戸などが残っていたといわれているが、右馬頭屋敷といい伝えられるだけで、それが何者なのかすらまったく不明であると解説しています。
風土記稿の記述は、下練馬村の項で屋敷跡として「村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へす、今陸田となり御殿・表門・裏門等の小字あり、礎石など掘出す事ままありと云」としています。右馬頭の官途と御殿・表門・裏門の小字名から連想されたものと思われますが、この屋敷を徳川綱吉の将軍就任前の屋敷とする説も存在します。東京府北豊嶋郡誌では、「徳川五代将軍綱吉がまだ右馬頭であつた頃、たまたま脚気を患い、医療を加えたが容易に治癒せず、陰陽頭に占わせたところ、城の西北にあたる馬の字のつく土地に転養することがよいという。そこで練馬の地に御殿を建てさせ数年滞在したが、病は次第に癒え、つれずれを慰めるため大根の種子を尾張から取りよせ、ためしに字桜台に栽培させたところ、結果はたいへんよく重さ三貫、長さ四尺にも達する見事な大根がとれた。綱吉は、帰城後も村の旧家大木金兵衛に命じて栽培させ、年々献上させた。」と紹介しています。この話は、練馬名物である練馬大根の起源のひとつとされています。練馬御殿の碑は、東武練馬駅近くの北小学校に建ちますが、こちらは鷹狩の宿舎として建てられた御殿もので、長期滞在型のものではありません。練馬区のサイト「練馬大根誕生伝説」では、徳川実紀に将軍世子の病気や療養、屋敷の拝領などの記載が無いため懐疑的です。そもそも綱吉が一時的に称した「右馬頭」の官途が「右馬頭と称せるもの住すといふ」とは伝わらないと思われます。
綱吉の練馬大根発祥説を紹介する大正7年発刊の「北豊嶋郡誌」ですが、豊島景村が練馬城の出丸を栗山に築造し、旗下の長臣志野某をして留守せしむとの記述があります。上練馬村の項での記載ですので、場所が異なるかもしれませんが、栗山の地名からするとこの地の可能性もあるように思われます。
城址とされる開進中学校付近(栗山遺跡)の発掘調査では、旧石器・縄文・弥生・古墳・平安時代の遺構・遺物が発見されたものの、中世の遺構や遺物は検出されていません。長々と書き込みましたが、本当にこの地にお城が存在したのかは、謎のままです。
2022年09月05日 號号権大納言虎右衞門
右馬頭屋敷
跡地は中学校になっていますが、裏側は石神井川の段丘になっているので、防御も兼ね備えてそうです。
2022年03月14日 宮内大輔てつ
右馬頭屋敷
現在は開進第二中学校となっており、遺跡は特に見当たりませんでした。
2022年01月31日 maki156
右馬頭屋敷
学校となっており見どころとしてはいまひとつ。他の場所の通過経路としての訪問だった。
2021年07月10日 おかっぴき
右馬頭屋敷
折角、夜中に行ったけど遺構は見当たらなかった。残念です。せめて説明板や石碑だければあればと思います。
2017年09月17日 土支田大膳大夫
右馬頭屋敷
昔はこの辺り(この城跡を含めた練馬二丁目周辺)の土地を「栗山大門」と言い、周辺には「御殿」「裏門」「表門」という地名があったそうです。
さらに、開進第二中学校を作る前までは井戸が残っていたそうです。
新編武蔵風土記稿によると、たまにこの城跡から礎石が出てくることがあったそうです。
そして、この土地は栗山遺跡という縄文時代の遺跡と場所が被るので、練馬区がここを発掘調査しましたが、城郭関連遺構は出てきませんでした。
しかし、調査した場所は遺跡の一郭なので、他の場所から遺構が出土するかもしれません。
2016年11月26日 ⛩️パコ⛩
右馬頭屋敷
中学校横の道を北上するとすぐに下り坂。石神井川が削った河岸段丘のヘリに建てられていた事がよくわかりますー
2012年04月09日 アソベ
右馬頭屋敷
春の並木はちょっと有名かな
また、練馬城の出城であった栗山城も同じ場所であるとされている。
現在、一帯は練馬区立開進第二中学校の敷地となっている。