梁川城(やながわじょう)

梁川城の基本情報

通称・別名

鶴ヶ城、鶴岡城

所在地

福島県伊達市梁川町字鶴ヶ岡

旧国名

岩代国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

伊達朝宗

築城年

13世紀中期?

主な改修者

須田長義

主な城主

伊達氏、蒲生氏、上杉氏

廃城年

寛文4年(1664)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

国史跡(伊達氏梁川遺跡群)、県史跡(梁川城跡及び庭園)

再建造物

復元庭園、碑、説明板

周辺の城

阿津賀志山防塁(福島県伊達郡)[5.4km]
石母田城(福島県伊達郡)[6.2km]
懸田城(福島県伊達市)[8.0km]
桑折西山城(福島県伊達郡)[8.9km]
遠倉館(宮城県伊具郡)[11.2km]
霊山城(福島県伊達市)[11.4km]
地蔵院館(宮城県白石市)[12.6km]
大波城(福島県福島市)[13.2km]
大鳥城(福島県福島市)[15.4km]
丸森城(宮城県伊具郡)[15.6km]

梁川城の解説文



梁川城(やながわじょう)は、福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡にあった日本の城(平山城)。国の史跡に指定されている(指定名称は「伊達氏梁川遺跡群」)[1][2]

概要 

鎌倉時代初期に築城された。鶴ヶ城と呼ばれることもあるが、現在ではこの呼称はほとんど知られていない[3]

梁川中心市街地の東側にある茶臼山から西北西方向に張り出した高台の上に築かれており、城下町である平地との標高差は10数メートルになる。梁川城の北側には曲輪や堀が築かれ(中井戸)、西側は段丘の急斜面、南側は広瀬川と広瀬川の浸食によって作られた断崖、そして東には金沢堀と茶臼山という天然の要害となっている。

前史(江戸幕府以前) 

伊達氏の時代

一説には文治5年(1189年)に伊達氏の伊達郡入りとともに築城されたともいうが、文献上明確なのは室町時代の応永33年(1426年)以降である。一方、発掘調査で発掘された遺物の最も古いものは、伊達氏3代伊達義広(1185年 - 1256年)または4代伊達政依(1227年 - 1301年)のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられる。

伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって17代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[4]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった[5]。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)、あるいは南奥州の要として栄えた。

伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。

なお伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。

蒲生氏の時代から関ヶ原

奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)によるものと考えられる。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、蒲生・上杉時代にはかなり大きな改修があったと推測できる。北三の丸の高い土塁、広い堀などもこの時代の増築と考えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに絡んで、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止して北目城へ帰った。

== 沿革 ==

上杉氏の時代

江戸幕府成立後も伊達郡は引き続き上杉氏領となり、梁川城には上杉氏の家臣(須田氏など)が置かれた。

梁川城(及び信夫郡の福島城)の下には、奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏などが置かれ[6]、上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した[7]

天領および梁川藩の時代

寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子に迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領(約20万石[8])となった。この時、梁川城は廃城となった。しかし、本丸や北三の丸の櫓および城主館をふくめ、城の一部はその後も梁川藩松平氏などの陣屋として使用されている[9]

江戸時代中期以降の梁川は天領となったり、2度にわたって梁川藩(松平氏、松前氏)となったり、あるいは会津藩や磐城平藩や松前藩の飛び地となったり、めまぐるしい。そのため、梁川に関する江戸時代の資料は他藩に残されているものも多い。 また、かつて梁川城が統治した伊達郡のうち11村は刈谷藩(土井氏)の領地となり、幕末まで湯野に陣屋が置かれた。

現状 

梁川城趾には本丸跡に平成27年3月まで梁川小学校があった。本丸を北・東・南に取り囲む二の丸のうち、東二の丸跡に浅間神社と伊達市立梁川幼稚園と伊達市立梁川中学校、南二の丸跡に福島県立梁川高等学校がある。本丸の東から二の丸の北までを取り囲む三の丸は江戸時代に陣屋などに使われたが、現在は住宅地となり、個人宅や市営住宅が建ち並ぶ。現在の梁川小学校正門(西側から旧本丸跡の小学校校庭に進入するクランク型の坂)は、江戸時代までの現存する図面には存在せず、比較的新しい道と思われる。梁川城当時の大手門は、現在梁川小学校の裏門となっている北側(三の丸側)にある清水町からの登坂路であった。

梁川城趾および周囲には土塁や堀の跡、城下町ならではの見通しの悪いクランク型の道なども残っているが、宅地造成や再開発で急速に失われつつある。一方で、地名には見附(みつけ)、元陣内(もとじんない)、右城町(うしろまち)、大町、中町、内町、町裏など、城下町の名残となる地名が多い。

1978年(昭和53年)から1981年(昭和56年)にかけて旧本丸跡である梁川小学校校庭の発掘調査を実施した。校庭の一角に中世庭園「心字の池」を復元し、校庭は埋め戻した。伊達氏が室町幕府と結びつきを強めていた時代のもので、一説によると東日本で唯一の中世庭園と言われる。また、福島県会津若松市の福島県立博物館には梁川城の復元模型が収蔵されている。

東二の丸跡にあった梁川中学校は、1998年(平成10年)7月から二の丸の東隣の茶臼山山麓に新校舎の建築が始まり、2000年(平成12年)1月に新校舎に移転した。二の丸跡の旧校舎は解体され、現在は埋め戻して中学校グラウンドとなっている。この校舎改築にあたっては、調査・工事中、梁川城の遺跡が発見されて校舎改築計画に大きく影響した。

本丸跡には明治以降梁川小学校があったが、2011年(平成23年)の東日本大震災で校舎が損壊し、使用できなくなった。梁川小学校は梁川中学校や梁川高等学校の施設に間借りしたり、300mほど離れた梁川中学校隣の敷地にプレハブ仮設校舎を建ててしのいでいたが、2015年(平成27年3月)、1kmほど離れた梁川町北本町に新校舎が完成し、梁川小学校は移転した。梁川小学校跡地である本丸跡には、伊達市の歴史資料館の建築を検討中である。

支城 

  • 大枝城(陸奥国信夫郡) - 袖ヶ崎城とも呼ばれる[10]。伊達氏の一族であった大枝氏によって築かれた。三ノ丸の北側には堀があり、本丸への案内板が立っており、両脇が切り通しの通路。本丸は南北に細長い郭で、20m×100mほどの規模がある[11]。先端部は阿武隈川方面に突き出した位置にあるので、非常に眺望が利いている。ここから梁川城(城址)や市街地がよく見える。

考古資料 

遺構

  • 本丸跡(本丸の物見櫓跡の石垣や北三の丸の高い土塁など、上杉(もしくは蒲生)統治時代の遺構が残る)
  • 庭園「心字の池」(復元)
  • 福島県立博物館(会津若松市)に梁川城の復元模型を所蔵

関連作品 

  • 政宗ダテニクル

梁川城の口コミ情報

2024年02月01日 みっこん岩代守
梁川城



梁川町を見下ろす丘陵上に位置しており先の口コミ情報通り庭園跡、石垣残っています。周囲は学校が有りますが、それでも尚、広大な敷地面積が残っていました。令和5年3月に地元教育委員会様が整備された説明看板を見ますと伊達家領有時代と上杉家領有時代では、この城の目的、規模が違う事が良く分かります。

説明看板に記載されていないので補足説明になりますが、関ヶ原合戦時に福島城下に攻め込んだ伊達政宗公の軍勢に梁川城から出撃した上杉家の須田長義公が背後から奇襲、福島城から出撃した本庄繁長公と挟撃撤退させた事は有名です。

 

2023年09月19日 あきくん
梁川城



梁川高校前に駐車場があります。石垣が一部残っており、小さな庭園風で、ほとんどが芝生です。

2023年06月18日 主馬首せんべい
梁川城

復元された庭園の奥に石垣があります‼️☺️

2022年12月21日 陸奥守新九郎
梁川城



段丘を利用した名城で、土塁と堀も圧巻の姿を見せてくれました。本丸には庭園が残ります。でも、庭園背後の石垣は伊達・上杉よりも少し時期が新しいのではないでしょうか。。。

2022年11月04日 左近衛少将ゆういちろう
梁川城

遺構は庭園の一部分が残っている程度です。ただ、さすが伊達の本拠地だけあって、本丸跡等は広大です。

2021年05月18日 ファン掃部助トム治郎
梁川城



貝田駅から新奥の細道コースを経由し、阿武隈急行梁川駅までハイキングしました。約6時間くらいです。伊達郡の広大な土地を実感しながら3つの城をリア攻めできます。梁川城は本丸跡が旧梁川小です。西山桑折城にうつるまで伊達家の本拠地でした。

2021年03月19日 kurobuta
大枝城[梁川城  周辺城郭]



伊達家の家臣、大枝氏の居城です。伊達市の北部にあり阿武隈川を挟んで梁川城と対になる立地です。国道349を伊達市から宮城県丸森町に向かって走行し県道320号を伊達郡国見町方面に進むとため池の先に手作りの看板が現れますのでそこから入ります。

本丸入口まで🚗で進めますが砂利道で両脇から枝や雑草が張り出して傷が付く恐れがありますから本丸入口の看板が見えたらその後ろに駐車して徒歩で進むのがよいかと思います。15分ほどで本丸に到着出来ます。途中、土塁や空堀を見ることが出来ます。本丸からは阿武隈川を一望出来ます。

規模としては近隣の梁川城、石母田城よりもやや小振りな感じです。城主の家中での序列があらわれているのかも知れません。近くにお越しの際は是非寄って頂きたいです☺️

2020年12月21日 副将軍こうちゃん播守
梁川城



阿武隈急行線の「やながわ希望の森公園前」駅から徒歩10分程で行けます☝️車で行かれる方、ガレージ有ります!

2020年08月08日 征夷大将軍香曾我部
梁川城

会津若松市の福島県立博物館の常設展示コーナーに梁川城のミニチュアがあります。


2015年09月23日 陸奥守仙臺むすび丸JUN
梁川城

 9月30日(水)まで東日本大震災復興祈念として梁川八幡神社では、特別拝観が実施中。お祓い料500円かかりますが、今回一般公開初となる御本尊(応神天皇[誉田別尊])の特別開扉で、連日午前9時〜16時30分まで随時受付。お祓いを受けたのち、神社の由来や本殿の構造の説明を受けながら本殿の扉前から御尊像を拝顔して祈願。とても小さな木造騎馬像ですが、傍に様々な角度から撮られた写真がモニターで見られます。記念品として特別参拝ご朱印がいただけます。御朱印帳にご朱印を書いていただく場合は別途料金がかかります。  梁川八幡神社は梁川城本丸跡の心字の池から約1㎞北にあります。平安中期に創建され、約600年前に伊達氏11代持宗が梁川城に本拠を移しました。伊達氏初代朝宗が高子が岡に鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊した亀岡八幡宮をこの地に移し合祀し、繁栄しました。
 仙台を開府した17代伊達政宗が初陣のときに必勝祈願で参詣したり、政宗の正室愛姫が輿入れの際に田村家から伊達家へ引き渡しが行われた場所でもあります。

2015年09月22日 陸奥守仙臺むすび丸JUN
梁川城

梁川城跡に行くには、阿武隈急行の梁川駅より梁川希望の森公園前下車が便利です。9月30日まではレンタサイクルが無料で貸りられます。駅から北西の方向、徒歩5分程の「やなぎや商店」で貸りることができます。時間は確か10時〜16時までだったと記憶してします。
梁川城跡の主な遺構は、本丸庭園である心字の池、本丸東側土塁(浅間神社〜梁川幼稚園)、北三の丸土塁、外堀など。城域のほとんどは現在住宅地になっていますが、城下町特有の屈曲している道が多く、往時を感じられます。少し足をのばせば、梁川八幡神社や梁川天神社、上杉家臣須田氏の菩提寺・興国寺や、仙台にもある龍宝寺、輪王寺跡など見所多そう。
なお本丸があった旧梁川小学校に通じる西側の坂道は途中で木柵とトラロープで進入禁止になっているのでご注意を!

2015年09月22日 陸奥守仙臺むすび丸JUN
梁川城

伊達市は『伊達氏の発祥の地、伊達氏ゆかりの地』として積極的にPRしています。「伊達氏歴史めぐりマップ」(商工観光課発行)と「ポケット伊達市歴史シリーズ1 中世伊達編」(教育委員会発行)のガイドブックには、伊達市と隣の伊達郡(国見町・桑折町)の伊達家ゆかりの城館跡や寺社などが紹介されています。自分は政宗にぎわいひろばと梁川八幡神社でもらいました。これがあれば伊達氏の歴史をポイントを絞って学べるとともに、伊達氏ゆかりの地を訪れるのに役立ちました。→


2015年08月16日 ああ福島県大膳大夫城弾正
梁川城

本丸址にあった梁川小学校は移転し、旧校舎は解体されました。話を聞いた所、今後、発掘調査を実施し史跡公園として整備するとのこと。ゆくゆくは、発掘調査で明らかになっている主殿建築など(福島県立博物館に復原模型展示)を復原したいとのことです。城の東側にあった金沢堀は、南側は堀底に阿武隈急行が通り、巨大な堀の面影が見てとれます。北側は梁川中学校グラウンドになり堀は埋められましたが、道路際のフェンスとの高低差(金沢堀の城外側の淵)に名残があります。

2015年05月21日 まさ宮内卿猛虎
梁川城

伊達政宗は、1567年米沢に生まれ、幼少期から禅宗の名僧の教育を受け育った。
仏法・漢詩・大将に必要な心構え、ものの見方を教え込まれた。
政宗が指揮を執った合戦数は、歴代武将と比べて多く不利な闘いも引き分けにする能力も高かった。
歌・詩・書・能・茶道を身に付け、深みを増す為、京の文人共交流を重ねた。秀吉とは、茶や能を通じ交流している。
挑戦出兵出陣式では、煌びやかさに、見物人や秀吉も歓声を上げたという。金色の尖った陣笠をかぶり、銀箔の太刀を腰に付けた足軽、黒鎧を纏い金色の半月の兜を被った騎馬隊は、武具を虎や豹の毛皮で飾る拘りよう。派手好みの秀吉に、他の武将との違いをアピールした。
政宗には、《伊達三傑》の忠臣がいた。幼い政宗に武芸を仕込み、外交・献策で支えた片倉景綱、戦で先陣をきり武功も多い伊達成実、親子2代で仕え、奉行衆として行政面を支えた鬼庭網元である。家督相続の際、先代輝宗も能力を知る三傑が周囲を固め、輝宗時代の忠臣が伊達家を支えた。輝宗は、信頼出来る優れた家臣を統制し、41才で隠居し次代の政宗に引き継いだ。

2011年11月27日 さくら主膳佑にゃ〜
梁川城

2011年12月11日(日)13:30〜発掘調査現地説明会が行われる様です。
久しく脚を運んでいない地域なだけに参加したいけど…現説含めて週末にイベントラッシュだ〜 そんなに土日ばかり休んでたら怒られる

2010年11月20日 伊達雅楽助あいり
梁川城

心字池が再現されています。学校敷地内ですが、幼稚園のところから中に入って大丈夫のようです。近くには伊達政宗公が初陣の際に戦勝祈願した梁川八幡宮もあります。

梁川城の周辺スポット情報

 三の丸(遺構・復元物)

 三の丸大手口枡形(遺構・復元物)

 梁川城史跡 見取り図(碑・説明板)

 大枝城(周辺城郭)

 梁川城主 須田長義の墓(寺社・史跡)

 伊達政宗嫁取りの地(寺社・史跡)

 梁川浅間神社 伊達氏祖 伊達朝宗公創建(寺社・史跡)

 駐車場(中学校)(駐車場)

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