懸田城(かけだじょう)

懸田城の基本情報

通称・別名

掛田城、茶臼城、茶臼館、桜館、古城山

所在地

福島県伊達市霊山町掛田字古城山

旧国名

岩代国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

高松定隆

築城年

建武2年(1335)

主な改修者

主な城主

懸田氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、空堀、堀切

指定文化財

市史跡

再建造物

碑、説明板

周辺の城

大波城(福島県福島市)[6.7km]
霊山城(福島県伊達市)[7.5km]
梁川城(福島県伊達市)[8.0km]
桑折西山城(福島県伊達郡)[11.3km]
阿津賀志山防塁(福島県伊達郡)[12.0km]

懸田城の解説文

懸田城(かけだじょう)は、陸奥国伊達郡懸田(現在の福島県伊達市霊山町掛田)にそびえる茶臼山の山頂付近にあった中世期の城。掛田城・茶臼城(ちゃうすじょう)とも表記する。

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて高松定隆の支配下にあった。定隆は正中2年(1325年)に杉目郷(現在の福島市)に高松城を築いて拠点としていたが、建武2年(1335年)に北畠顕家の命を受けて懸田に新城を築いて拠点を移した。その子孫は懸田氏を称し、伊達氏に従って南朝方の将として活躍した。懸田氏は大江氏の末裔とされるが、定隆の曾孫である懸田詮宗の代に伊達氏から養子を迎えた。戦国時代に発生した伊達氏の洞の乱において、懸田俊宗は伊達稙宗の娘婿であった関係から稙宗を救出して懸田城に迎え入れて伊達晴宗と対抗した。天文12年3月25日(1543年4月28日)には、父・稙宗救出のために懸田に入った亘理綱宗が兄・晴宗に討たれている。乱は晴宗の勝利に終わり、晴宗は懸田氏に対して懸田城の破却などの過酷な講和条件を課した。このため、天文21年(1552年)に懸田俊宗は息子の義宗とともに単独で反乱を起こすが、伊達晴宗に攻め滅ぼされたという。後に永禄9年(1566年)に中目長政が懸田城に入り、関ヶ原の戦いの際にも上杉景勝に対抗するために伊達政宗の軍が懸田城に進出している。その後間もなく廃城となった。

参考文献
『日本歴史地名大系 7 福島県の地名』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-49007-7 P704-705

懸田城の口コミ情報

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