志布志城(しぶしじょう)

志布志城の基本情報

通称・別名

所在地

鹿児島県志布志市志布志町帖字松尾他

旧国名

日向国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

救仁院氏

築城年

保安年間(1120〜1124)

主な改修者

主な城主

救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝属氏、鎌田氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪[内城・松尾城・高城・新城]、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(志布志城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

蓬原城(鹿児島県志布志市)[7.4km]
松山城(鹿児島県志布志市)[12.3km]
櫛間城(宮崎県串間市)[12.4km]
恒吉城(鹿児島県曽於市)[22.3km]
高山城(鹿児島県肝属郡)[23.0km]
酒谷城(宮崎県日南市)[23.6km]
西原城(鹿児島県鹿屋市)[24.4km]
南郷城(宮崎県日南市)[26.0km]
都城(宮崎県都城市)[26.4km]
樺山城(宮崎県北諸県郡)[26.9km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)197 志布志城

設置場所

志布志市埋蔵文化財センター[地図

志布志城の解説文



志布志城(しぶしじょう)は、鹿児島県志布志市志布志町(日向国諸県郡救仁院志布志)[1]にあった中世の日本の城(山城)。国の史跡。

沿革 

南北朝時代からこの地が戦乱に巻き込まれたことに伴い次第に拡充されていったと考えられる。名前がはっきりしているところで12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏と次々と城主が変わった。守護大名・島津氏久が本拠としたこともある。

1577年(天正5年)、志布志は島津氏の直轄地となり、初代の地頭として鎌田政近が任命された。その後も外城として重要な役割を果たしたものの、1615年(元和元年)、一国一城令で廃城となった。しかし、建物が無くなっただけで石垣などは破壊される事は無かった。

1993年(平成5年)3月24日に内城(うちじょう)跡が鹿児島県指定史跡になり、さらに2005年(平成17年)7月14日に国の史跡に指定された[2]。志布志城主新納是久の娘島津常盤(梅窓院)がいる。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(197番)に選定された。

構造 

志布志市街地を囲む全ての山が志布志城と言っても過言ではなく、志布志小学校の裏山の「内城」、その西側の山にある「松尾城」、志布志中学校前の「高城」と「新城」という4つの城を総称して志布志城と呼ばれていた。「内城」は南北600メートル東西300メートル、6つの廓からなり、その間は空堀で遮る構造となっている。

本丸等一部を除き未整備で立ち入りが困難である。本丸等一部の郭には解説版が設置されていて、大手口にパンフレットが置かれている。

志布志城の口コミ情報

2025年05月22日 尼崎城因幡守一口城主
志布志城



[大手口〜矢倉場編]
志布志城メインの内城(うちじょう)へ大手口(写真①②)から入城。大手口の説明板(写真③)🪧字が小さく見えづらいかもしれないので、中段の<立地と環境>の項目の記載文を書いてみます🔍「内城は北東から南西に延びた細長い丘陵の先端部に立地しており、北東部のみ台地に繋がっているのでここに深い堀切を設け、大地と丘陵とを切り離している。そして細長い丘陵に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は互いに空堀によって区切られている。」とありました。実際に城内を散策してみたところ、説明文の通り一つ一つの曲輪は独立しているので、アップダウンを繰り返しての各曲輪を見学となりました💦入城時、見学を終えられた方とすれ違ったので感想を尋ねたところ「もう疲れたので途中で引き返してきました。怖かったですよ😨」とのことだったので気を引き締めて散策に出発✊
まずは大手口から一番近い曲輪の矢倉場(写真④)を見学。広い曲輪(写真⑤)で説明板(写真⑥)に「矢倉場と呼ばれるこの曲輪には防衛のための建物施設が存在したと推測されている」とありました🔍また、城主であった新納時久公の供養碑があるとのことで曲輪の奥の方に向かいました。写真⑦の中央部のお墓(標柱の左隣のお墓ではなく、そのさらに左側のお墓)が新納時久公のお墓🪦(写真⑧:新納時久公墓と刻まれています)でした。大手口の説明板(写真③)に時久公は「新納家始祖」とありました。島津氏関連の小説や歴史番組によく登場する新納氏の始祖のお墓参りが出来て感激でした。

2025年05月22日 尼崎城因幡守一口城主
志布志城



[矢倉場〜本丸]
矢倉場(曲輪1)見学後、元の来た道に戻って大手口から直進していくルートに戻ればいいものの、別ルートで掘底(写真①)に下り、巨大迷路(写真②)に迷い込んだような状態になってしまいました😨城内の所々に散策マップ(写真③)があったお陰で遠回りになったものの本丸に辿り着けました😅往時は散策マップなど設置してくれているはずもなく、城攻めに来たはずの攻め手の中には迷子になって知らず知らずのうちに城外に出てしまう兵もいたような気がしました😵‍💫
本丸(写真④)は、広大な曲輪で曲輪内にあったQRコードを読み取ると往時の建物や防御のイメージを動画▶️で見ることが出来ました。本丸の標柱(写真⑤)には<志布志城内城跡本丸 島津六代氏久公居城/側面:島津氏の六代当主島津氏久は志布志城に居城し城主の新納氏を率いて日向・大隅を治めた>とありました。続いて本丸跡の標柱の奥に見える祠が気になったので行ってみたところ、写真⑥の通り三宝荒神で<かまどの神とされるが火の神、軍人ともいわれる荒神。城の守り神として城主の居館の北東にまつられた>とありました。
次に本丸の一段下(曲輪3下段)に下りてみると説明板(写真⑦)があり「備前焼などの国産陶器のほか中国や東南アジアの製品、京都周辺で出土する土師器などが出土して国内外の様々な地域と志布志港を通じた交易を伺わせる」とありました。こちらの曲輪の木々の合間から港⚓️(写真⑧)が見えていました。私事ながら当日の夕方に乗船予定のさんふらわあが停泊しているのが見え、今回の九州東海岸城巡りもここで終了かと思うと九州との別れが名残惜しくなってきました⛴️

2025年05月22日 尼崎城因幡守一口城主
志布志城



[本丸〜中野久尾〜大野久尾]
本丸散策後、さらに奥の曲輪の中野久尾や大野久尾の見学に向かいました。まず、中野久尾(写真①)を見学。ここまで来ると城内散策する人を見かけなくなりました😅
大野久尾入口の▲現在地表記が薄くなっているコースマップ(写真②)を眺め最奥の曲輪への道(写真③)を進みました。大野久尾の広大な曲輪(写真④)に立ち、思わず達成感が込み上げてきてヤッホーと叫んでしまいました📣
帰路は分岐する道(写真⑤)もありましたが右の道を進むと田屋敷という所に出てしまうようなので直進して大空堀(写真⑥)経由で本丸の西側の空堀を通り大手口を目指しました。(※写真⑥の大堀切の左側の切岸(斜面)は写真に収まらない位の深さがあります😳)
大手口に戻る道中、シラスが削れた面(写真⑦右側)を見て、シラスは漢字では白州(白砂)と書くようで名前の通り白いんだということを実感🤔
往路では通らなかったから見落としたかもしれない標柱(写真⑧)を見て、側面に「堀底を進む兵は常に頭上からの攻撃にさらされる」とあり、まさにその通りの縄張りだったなぁと実感できました。
大手口から出城しようとした矢先、これから登城しようとする愛知県からの80代の夫婦に本丸への行き方を尋ねられ、まだ持ち時間に余裕があったので本丸までガイド💁🏻‍♂️本丸で夫妻の写真を撮ったら喜んで頂けて良かったです📷もう体力的に本丸だけの見学で満足とのことでお城談義に花を咲かせながら下城。お城仲間はつくづく良いものだなぁと人と人を結びつけてくれるお城パワー、魅力に感謝しました‼️

2025年05月20日 尼崎城因幡守一口城主
大慈寺(楡井頼仲公墓所)[志布志城  寺社・史跡]



続100名城スタンプ設置の志布志埋蔵文化センターを訪れた際、館内で見た紹介動画の中で信濃源氏の楡井氏のお墓🪦が大慈寺にあることやセンターの方から廃仏毀釈を免れた県内では貴重なお寺だから是非、志布志城に行く前に寄ってみて下さいとのことでお参りしてきました。
まず、本堂(写真①※昭和初期に建てられたとのこと)にお参り。本堂内には内閣総理大臣を2度務めた松方正義氏の書がありました🖌️
本堂横の大慈寺書院(写真②)の由緒書き(写真③)通り慶応元年(1865)建立の江戸時代の貴重な建築とのことでした。
続いて信濃源氏の楡井氏のお墓🪦をお参り。墓所が分からなかったのでお寺にいらっしゃった方に尋ねると出口の矢印(写真④)に沿って下ると下り切った右側の墓地の中にあるよと教えてもらいました。アドバイス通り下っていくと垣根が途切れた所(写真⑤)に墓地の入口があり、墓地内の一角に楡井頼仲公のお墓(写真⑥⑦)がありました。南北朝時代の争いの中で正平十二年(1357)当寺で自刃した武将とのことでした。お墓付近には長野県須坂市の方々が昭和61年(1986)に植樹された楡の木(写真⑧)やくまの杉🌲がありました。死後600年以上の時を経て故郷の方々が長野からはるばる鹿児島まで楡井氏を偲んで木を植樹しに来られていることに楡井氏の生き様、奮戦の様子が後世まで語り継がれていることが伺えるようでした。

2025年05月20日 尼崎城因幡守一口城主
志布志城(松尾城)跡[志布志城  遺構・復元物]



[進軍&登城前半]
志布志城は志布志まちあるきマップ(写真①)のMAP上部の緑色(山・台地)エリアに記載のある通り右からメインの内城、松尾城、高城・新城跡に大まかに分けられるようです。
当日は志布志埋蔵文化財センターで見た動画から宝満寺跡の隈田原兄弟仁王像と信濃源氏の楡井氏の石碑が建っている松尾城が気になったのでまず先に仁王像(写真②)を見学。仁王像付近から前川越しに志布志城の山城群を撮影(写真③:写真①のMAP通り、右から内城、真ん中の山が松尾城、左側が高城・新城)
松尾城の登山口には案内と石碑<南朝忠臣楡井頼仲卿居城址松尾城入(口)>(写真④)がありました。真っ直ぐに進んで行きたいところですが、坂道を進むとすぐ右側に行くよう道標(写真⑤)があり道標通りに入城。往時は守備側も親切に道標など設けるはずがないので攻め手
もかなりの兵が城内で迷子になったような気がします💦
埋蔵文化財センターの方からの松尾城はあまり整美されていないですよとの話通り、進路は🌱写真⑥🎋の状態でしたが歩くスペースはあったので突破‼️ただ脇道(写真⑦)探検はやめておきました😅落ち葉は多いものの写真⑧の通り階段(遊歩道)を設けて下さっているのでそれを頼りに進めば無事に本丸へ辿り着けます。

2025年05月20日 尼崎城因幡守一口城主
志布志城(松尾城)跡[志布志城  遺構・復元物]



[城内散策後編]
城内に設けて頂いている道標や遊歩道に沿って本丸を目指していくと本丸付近に堀切(写真①②)が見られました。山頂付近ではロープ🪢(写真③)を頼りに迷子になっていないなと👍思いながら進み、本丸(写真④)に到着。山城入口から本丸まで、私の足で約5分で辿り着けました。本丸には信濃源氏の楡井頼仲卿之碑(写真⑤)がありました。石碑の裏側に説明文(写真⑥)があり昭和三年十一月十日に楡井氏が正五位を贈られたことや昭和十年二十五日に碑が建てられたことなどが刻まれていました。今年が昭和が始まって100年の節目の年なのでこの石碑は90年経っているんだなぁとしみじみ眺めると同時によく山城の上に石碑を運び上げたなぁと先人方の苦労に頭が下がる思いでした。石碑付近の祠(写真⑦)は誰が祀ってあるのか不明でしたがおそらくかつての城主の楡井氏ではないかと思い手を合わせました。
下山時、山城のほぼ垂直と言ってもいいくらいの切岸(写真⑧)に気付きました。もし戦で乗り込んでいたらほぼ真上から攻撃され、下からの反撃は高低差もあり、よじ登るのも無理なので防御力抜群の山城だったことが伺えます🤕

2024年10月13日 かめ蔵人頭ゆみ
志布志城

山歩きに慣れている方向きの城です。ぬかるみ多く整備もそこまで十分でないので、サンダルとかでは行ってはいけません。十分な装備で。

2024年08月21日 勘解由長官カンチュリー
志布志城



規模は大きく、遺構がはっきりとしていて見どころ満載でした♪しかし、道が一部荒れているので、行く時はそれなりの装備をする必要があると思います⭐︎

2024年05月09日 ᴿᴱᴰ 副将軍
志布志城(松尾城)跡[志布志城  遺構・復元物]



志布志城の築城当初の主城🏯

続日本100名城

内城・松尾城・高城・新城の四つの城郭で構成される志布志城のひとつ。

築城年代は不詳。
志布志の歴史は古く、1026年に平季基により開かれた大荘園島津荘の港として発展したのが始まりとされます。
1189年より救仁院氏が当地を治めており、救仁院氏による築城とされます。
南北朝時代には楡井頼仲が南朝方として日向国から大隅国にかけての志布志城、大姶良城、加瀬田城を領有したとされ、この頃の志布志城は既に松尾城と内城が存在していた事が分かっています。
しかし北朝方より派遣された畠山直顕と禰寝氏との争いに敗れて落城。楡井頼仲は胡麻ヶ崎城へと退くも自害し楡井氏は滅亡。
その後、1358年に畠山直顕は穆佐城で菊地氏に敗れて衰退。志布志城は島津元久が領有し家臣の新納実久が入城しました。
1458年、新納忠続は伊東氏の南進に備えるために飫肥城へと移りましたが、その後に伊東氏に飫肥城を奪われると志布志城の城主に復帰。
1538年、新納忠勝は都城城の北郷忠相、串間城の島津忠朝の侵攻により降伏。新納氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となるも、1562年には肝付兼続が志布志城を落として所領としました。
1577年に肝付氏が島津氏に降伏すると志布志城には島津氏家臣の鎌田政近が入城。
1615年の一国一城令によって廃城となりました。

見所
前川河口部のシラス台地先端に位置し、内城の西側にある標高50mの台地上に築かれています。
内城が最も規模が大きく主城であったと思われますが、当初は松尾城が主城であったとされます。
南北に伸びる尾根上に築かれており、城内に入って直ぐにシラス台地を削った切り通し道が続きます。
数段の小郭を経て、最高所の主郭に連なります。
主郭は南北二段で北側背後に土塁と深さ10mの大堀切を設けて遮断。楡井頼仲の碑が立っています。
北側には更に二郭、三郭と続く様ですが、激ヤブであり進む事が出来ませんでした。

行き方は、志布志城の駐車場から西へ歩いて約100mに入り口の標柱が立っています。比高は30mほどです。

2024年05月09日 ᴿᴱᴰ 副将軍
志布志城



登録地である内城についての口コミです。

全国屈指の大規模な空堀が見事な日向と大隈の境目城🏯

続日本100名城

内城・松尾城・高城・新城の四つの城郭で構成される志布志城のひとつ。今回は最も規模の大きい内城の投稿です。

築城年代は不詳。
志布志の歴史は古く、1026年に平季基により開かれた大荘園島津荘の港として発展したのが始まりとされます。
1189年より救仁院氏が当地を治めており、救仁院氏による築城とされます。
南北朝時代には楡井頼仲が南朝方として日向国から大隅国にかけての志布志城、大姶良城、加瀬田城を領有したとされ、この頃の志布志城は既に松尾城と内城が存在していた事が分かっています。
しかし北朝方より派遣された畠山直顕と禰寝氏との争いに敗れて落城。楡井頼仲は胡麻ヶ崎城へと退くも自害し楡井氏は滅亡。
その後、1358年に畠山直顕は穆佐城で菊地氏に敗れて衰退。志布志城は島津元久が領有し家臣の新納実久が入城しました。
1458年、新納忠続は伊東氏の南進に備えるために飫肥城へと移りましたが、その後に伊東氏に飫肥城を奪われると志布志城の城主に復帰。
1538年、新納忠勝は都城城の北郷忠相、串間城の島津忠朝の侵攻により降伏。新納氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となるも、1562年には肝付兼続が志布志城を落として所領としました。
1577年に肝付氏が島津氏に降伏すると志布志城には島津氏家臣の鎌田政近が入城。
1615年の一国一城令によって廃城となりました。

見所
前川河口部のシラス台地先端に築かれています。
内城が最も規模が大きく主城であったと考えられており、6つの郭を巨大な空堀で区切っています。
シラス台地に深く掘られた空堀は全国屈指の規模であり、堀底は迷路の様な切通し道として機能。搦手の空堀は特に深く鋭いので必見です。
本丸北側背後には土塁が盛られ櫓があったとされ、現在は最高所に三宝荒神を祀られています。

国史跡に指定されており、専用駐車場が完備され、登城路も整備されています。

2024年03月25日 reipin
志布志市埋蔵文化財センター[志布志城  御城印]

ここでも御城印を買うことができます。(志布志駅の総合観光案内所にも同じものがあります)

2024年03月25日 reipin
志布志市総合観光案内所[志布志城  御城印]



主な歴代城主家紋入りの㈱宙の駅製御城印は、ここで入手可能

2024年03月08日 下総守あかね局
志布志城



車は小学校手前の観光用駐車場に停められます。トイレもあってかなり広めです。内城でしたら本丸付近を回っても1時間から1時間半程かかります。主要な所は看板があるので迷子にはならないと思います。

2024年01月02日 左近衛大将さとー
志布志城



正月休み中は、続100名城スタンプが、志布志市役所志布志支所の警備員室前に設置されてます。

2023年08月26日 薩摩相模守義弘維新斎
志布志城



志布志城址(内城)
志布志城址は、内城、松尾城、高城、新城の4つの城郭です。車で行くと志布志小学校の片隅に駐車して、内城の登城口へ。
ちょうど台風通過後でもあって足下が悪いため、内城のみを攻略。
登城道を行くと急勾配で湿っており、歩くのが大変ですが、沢ガニがたくさんいて微笑ましいです。
登城道には、ちゃんと案内板が設置されているため、難なく内城を攻略できます。
しかし、登城口付近には民家の廃屋が何軒も放置されているのには驚きました。行政の方で何とか解体できないものかと思います。
鹿児島の城跡で散策するには、城跡の規模が大きいので興味深くオススメします。

2023年05月01日 noble権大納言弥勒菩薩
志布志城



ザ.シラス台地空堀なり。小田原城も感激したけど、ここも大感激!

2023年05月01日 みーしか備前守
志布志城

月曜日で埋蔵文化財センターが休みなので市役所で職員さんに尋ねたところ、休館日でもスタンプは押せるとのことでした。城郭符(御城印)は駅の観光案内所で販売しています。

2023年04月26日 契丹
志布志城



百名城スタンプのある場所から城跡までは少し距離があります。整地が十分にされていないところがあります。

2022年12月02日 源山城守ポンコ2…㉓
志布志城(内城)跡[志布志城  遺構・復元物]



志布志小学校に隣接する公衆トイレ付駐車場に駐車しました。

そこから平山氏庭園沿いを北に進むと、志布志城(内城)跡入口の標識があります。比高は目測で30㍍ほどかと。この付近が大手口で、廃屋の間の通路を抜けた先の志布志内城散策コースマップを撮影して臨みました。パンフは見つけられずでした。

坂道は木のスリップがありますが所々外れてたりしており、またスリップなく落ち葉を踏みしめ滑りやすいところもあるので、仕事後のため革靴でいきましたが、足元はそれなりの用意があったほうがよいです。季節柄、草や虫は心配不要で、登城に適してます。

大手口から最寄りの曲輪は矢倉場で、矢倉場の切岸の鋭さが草の間から見えるシラスとともに感じられます。虎口から矢倉場に入ると、隣接の小学校から児童の声が聞こえました。
矢倉場を下り横堀へ。高さ10㍍はありそうな深さの横掘で、圧倒されました。
横堀を進みT字路右折、虎口から本丸に上がると、本丸に曲輪下3段の案内板があり、案内板は下段で周囲に土塁が残っており、下段より少し高い部分が上段、三宝荒神がある矢倉台と思わしき高さや規模の土塁があります。三宝荒神前を倒木が塞いでたため、上がりませんでした。

本丸を下り、横堀を中野久尾のほうに進むと、岩盤を下まで切り取ったような、かなりの高さがある竪堀が目に入り、思わず息を吞みました。深い横堀の堀底道もさることながら、岩盤を切り下げた切岸など、これ直登ムリやなと心理的な圧迫感を感じました。
本丸と中野久尾との間の堀切で、バサッときっており、これは中尾久尾と中野久尾、中尾久尾と大野久尾の間でも見られるため、曲輪を切って切って連ねてというのが築城主の思想のようです。中野久尾には、L字の折れの虎口となっており、桝形のようでした。

大野久尾は堀切のみで上がらずに退散しましたが、所要時間1時間ちょっとでは全て回れなかったのが残念無念また来年で、足腰が元気なうちに今回行けずの松尾城など含め、また再訪したいと思わせる城址でした。
深い横堀にシラス岩盤むき出しの切岸、途中途中に散策コースマップがあるものの、自分がどこにいるのかわからない迷路のようか感覚で、常陸小幡城とは似ているようでまた違う凄みを感じました。

2021年10月29日 たか加賀守astro
志布志城(内城)跡[志布志城  遺構・復元物]



比較的によく手入れされていて本丸他まで入ることができます。が足元は悪いですので、しっかりした足回りのほうが良いでしょう。

2019年11月05日 raven
志布志城

志布志城の城郭印が数日前から販売開始されてます。
販売場所は志布志駅の観光案内所です。
11/3に購入した時点で、まだ2人目ということでした。

2019年07月28日 織田上総介晃司
志布志城

志布志小学校の横に観光者用の駐車場とトイレがあります。

内城、松尾城、高城、新城をまとめて志布志城といいます。今回、メインの内城をリア攻め。

案内板は至るところにありますが草も生えているのもあって迷いやすいので方向音痴のかたは2人以上で団体行動をしてください。

前日来の大雨で一部切岸が崩れてる箇所もあり全ては見ることができなかったですが、凄さは体感できました。松尾城は土砂崩れのため、立入禁止でした。(2019/7/26現在)

志布志城をリア攻めされるかたは水分は勿論の事、暑くても長袖、革手または軍手の準備はした方がいいです。

2019年04月30日 書き込み制限王
志布志市埋蔵文化財センター[志布志城  スタンプ]

4月30日、文化埋蔵センター休館です、志布志市役所支所の半地下受付にスタンプあります


2018年11月22日 
志布志城

昔に比べて(昔がだいぶ昔ですが)案内板とか散策路とかかなり整備されてて廻りやすくなってます。志布志小学校の手前にトイレ、駐車場もあるとは。
先の台風による西側の大空堀一帯の立入り禁止はまだ解除されてません(覗いた感じ大丈夫そうだけどちゃんと従います)が、東側の切岸底通路などは通行可なので内城から大野久尾まで通して歩けますし大空堀も見学可能です。足元スニーカーで充分ですが、ひっつき虫は噂通り凄いので上下の素材、綿や毛糸は避けたほうがよいかと。

2018年10月27日 ぴろり相模守
志布志城

覚悟はしてましたがここまでとは!登城口の廃屋に圧倒されて思わず笑ってしまいました。観光ではなく、探検登山の装備で臨むべし。

2018年10月24日 みやび姫
志布志城

某は川口浩探検隊!という気持ちで臨めば本丸までちゃんと行けます!!文化財センターのお姉さんのおすすめコースを歩きましたが(プリントいただけます)、90分もかかりませんでした。が、倒木や朽ちた木を通り越さねばならないので、それなりの服装だけでなく軍手着用を強くお勧めします。直接行かれる方は、ナビを志布志小学校に。その脇に無料の駐車場が有ります。施錠無し。トイレも有ります。自販機は道挟んだ目の前に有ります。

2018年10月22日 式部卿PINKGIN
志布志城

スタンプは埋蔵文化センターが休みでしたが職員の方が隣の事務所にいるので押させてもらいました。城の方は至るところに倒木や薮があるので見て回るのに時間と体力が消耗します。あとは種子が下半身に嫌になるくらい沢山付きます(>_<)

2018年10月18日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
志布志城

↓追記( 服装アドバイス )

うちの田舎では"かんじん"と言ってましたが、虫ではないのに"ひっつき虫"と呼ぶらしいですね
服やバッグや靴や靴下とありとあらゆるものに総攻撃を受け、刺さって取りにくかった種!
サラサラのナイロン素材の服装で行きましょう〜

2018年10月17日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
志布志城

続100名城15城目にして、トップクラスの難関城に挑んでしまったのか…?!

台風24号の影響で倒木だらけ、スズメバチ注意の看板、蜘蛛の巣、足元が見えない……怖〜っ

整備されてないので『女、子供、方向音痴』は一人での観覧は控えた方が良いかと、、、
約二時間歩き回って、半分程しか観れなかったわ。
あと半分は足腰丈夫なうちにまた観に行かねば♪

2018年10月08日 フー甲斐守
志布志城

志布志城は見所一杯ですね。整備されていませんが、茨城県の小幡城に似た感じがありました。更に整備されてない良さもあります。
残念な事はやはり台風の影響で内城の一部が立ち入り禁止になっています。
まぁ何処が立ち入り禁止なのか、整備されてないので分からず、後から考えると私も結構踏み込んでたようですが(笑)戻って来れたので良しとしましょう。
案内板は至る所にありますが、分かりにくいので、迷子になりやすい方は一人では登らないように。帰って来れなくなりますよ。

2018年05月07日 馬秀のすけ
志布志城

4月28日に登城。志布志駅は無人だが、横の観光案内所でマップをもらってスタンプのある埋蔵文化財センターへの行き方教えてもらった。

城跡と反対方向なのが残念。埋蔵センターの女性の説明が良かったです。センターから内城までは徒歩30分。城内に看板があるので迷わないが、迷路ですわ。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
志布志城

新城とか内城とか何個か城が沢山あり、全てを含めて志布志城です。

町に駐車場がありそこに城の配置が書かれた看板ありますので、それを見て駐車場から歩いて書く城に行きましょう。

一つは中学校になっていたり、一つは草ぼうぼうだったり、内城は少し整備されてます。

2015年12月01日 カーネル
志布志城

志布志駅から内城へ。20分ちょい歩きます

市街地から城域に入ると雰囲気が一変。多くの曲輪と堀が圧巻です
道は入り組んでますが、要所に案内図があるので迷うことはないです。が全部見ようとすると、なかなかの距離を歩くことになりました

時間もあるので松尾城へ。平山氏庭園の前を西へ。松尾城入口の標識があるので登ります
こちらは、一本道で本丸へ。内城に比べるとさびしい感じ
下山後は、新城と高城跡である志布志中学校を不審者と思われないようにチラ見しながら、1周して駅へ向かいました。普通の学校でした

全部で2時間半で志布志駅に戻りました

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2015年09月16日 コロ助
志布志城

志布志駅から内城大手口まで徒歩20分。

写真で一目惚れし、ずっと行きたくて勝手に期待を膨らませていましたが、実物は期待を軽々越えました。
素敵過ぎて溜め息ばかり。堀底から見上げる、絶壁の曲輪がカッコイイ!

2週間前に行ったのですが、中野久尾曲輪辺りに倒木、矢倉場辺りに倒竹?が多く、階段も流れた土や落葉で半分程埋まっていました。
小さな物ばかりですが、最近崩れた様な部分が数ヵ所。大野久尾曲輪は、私の肩ぐらいまで草がノビノビ。
何故か沢蟹がたくさん、踏まない様に注意。

内城と松尾城を回るつもりが、4時間弱で埋蔵文化財センターと内城だけ。
センターは志布志駅から徒歩15分(無料)。内城復元模型が立派なので時間があれば立ち寄ってもいいかもしれません。

コインロッカーは無いですが、観光案内所で預かって頂けます(17時まで)。
案内所の方は、17時ギリギリに荷物を取りに駆け込んだ、汗と雨と泥でグチャグチャの汚い私に「急いで受取りに来てくれたんですね。ありがとうございます。」と笑顔で仰る超いい人。お世話になりました。また伺いたいです!

2014年05月28日 【隠者】史学会帰新参
志布志城

国道220号線沿いの志布志高校の向かいに志布志市埋蔵文化財センターがあり志布志城の模型や資料を展示している。

志布志小学校の隣、平山庭園のそばに観光用の駐車場が整備されている。
トイレもある。
城内は木が生い茂った場所は昼間でも少し暗かった。各曲輪と曲輪間の空堀がよく残る。


2011年02月13日 June02
志布志城

内城は、4城のうち志布志城の主郭を成しています。
内城においては、各分岐点に案内板、遊歩道として整備されていますが、各廓間の空堀の為、起伏のある散策路となっています。本丸跡は、木々が乱立?、その他廓は平場で奥行があり、1時間強程で結構楽しめる城郭でした。
写真は、内城の大空堀趾です。
松尾城は、投棄ゴミの散乱により、他2城は時間の都合上、それぞれ断念しました。
また、城下の武家屋敷地区の武家門には風情を、湧水群には情緒を感じられます。
志布志駅観光案内所で、無料で自転車を借りれます。

志布志城の周辺スポット情報

 志布志城(松尾城)跡(遺構・復元物)

  志布志城(内城)跡(遺構・復元物)

 志布志城(高城)跡(遺構・復元物)

 矢倉場(遺構・復元物)

 曲輪3下段(遺構・復元物)

 大空堀(遺構・復元物)

 内城跡入口(碑・説明板)

 内城跡説明板(碑・説明板)

 安楽城(周辺城郭)

 尾野見城(周辺城郭)

 陣岳塁(周辺城郭)

 夏井城(周辺城郭)

 新納時久公の墓(寺社・史跡)

 三宝荒神(寺社・史跡)

 大慈寺(楡井頼仲公墓所)(寺社・史跡)

 志布志市総合観光案内所(御城印)

 志布志市埋蔵文化財センター(御城印)

 志布志市埋蔵文化財センター(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 麓地区駐車場(駐車場)

 天水し庭園(その他)

 松尾城入口(その他)

 搦手口(その他)

 薩摩藩夏井番所(その他)

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