恒吉城(つねよしじょう)
恒吉城の基本情報
通称・別名
- 日輪城
所在地
- 鹿児島県曽於市大隅町恒吉囲他
旧国名
- 大隅国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 恒吉大膳亮
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 恒吉氏、山田氏、島津氏、肝付氏、北郷氏、伊集院氏、寺山氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀群
指定文化財
- 市史跡(恒吉城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
西原城(鹿児島県鹿屋市)[5.8km]
廻城(鹿児島県霧島市)[12.2km]
松山城(鹿児島県志布志市)[12.7km]
黒棚城(鹿児島県曽於市)[15.4km]
蓬原城(鹿児島県志布志市)[16.2km]
龍虎城(鹿児島県曽於市)[17.6km]
都城(宮崎県都城市)[20.0km]
垂水城(鹿児島県垂水市)[21.3km]
国分城(鹿児島県霧島市)[21.4km]
志布志城(鹿児島県志布志市)[22.3km]
恒吉城の解説文
恒吉城の口コミ情報
2022年10月30日 気分爽快陸奥守
恒吉城
立札は「空堀」ですが、単なる崖です。この壁を登るのは、シラス台地ということもあり不可能で、上から攻撃されたら逃げ場がありません。
2019年07月30日 織田上総介晃司
恒吉城
恒吉地区公民館に駐車できます。
Ⅰ群が日輪城。総じて恒吉城となります。
前日来の大雨の為、土砂崩れが発生してるので全部を見ることはできませんでした。
でも凄さは堪能できました。
土砂崩れと夏草が伸びて曲輪は藪化。山ビルの襲撃未遂事件もあり、命優先で深追いせず撤退。
(2019/7/26現在)
恒吉城(日輪城)をリア攻めされるかたは水分は勿論の事、暑くても長袖、革手または軍手の準備はした方がいいです。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
恒吉城(日輪城)跡[恒吉城 碑・説明板]
恒吉城跡の駐車場周辺です。ここにはかつて、恒吉郷の地頭仮屋がありました。画像の山が、1群(日輪城)です。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
4群と畝状竪堀群の間の大空堀[恒吉城 遺構・復元物]
4群と畝状竪堀群の間の大空堀。シラスの侵食地形を利用したものです。廃城後は道として使用されていました。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
多重横堀と連続多重堀切[恒吉城 遺構・復元物]
畝状竪堀群から、多重横堀、連続多重堀切と連動していますが、現在は土砂等に埋もれ、うっすらとしか分かりません。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
畝状竪堀群[恒吉城 遺構・復元物]
恒吉城跡の特徴の一つである畝状竪堀群。慶長4年(1599)の庄内の乱の際に、伊集院氏が導入したものといいます。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
3群西側の土塁[恒吉城 遺構・復元物]
恒吉城の西側(3群)の一番外側の防御施設です。画像では分かりにくいですが、大きな土塁と横堀があり、壮大な囲みを見ることができます。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
5群の主郭の一部[恒吉城 遺構・復元物]
林道側の縄張り図の看板の後ろの山は、5群の主郭の一部で、ミニサイズの畝状竪堀群や横堀、土塁、曲輪が確認できます。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
縄張り図の看板(林道側)[恒吉城 碑・説明板]
林道側から入ったところにある縄張り図の看板です。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
3群の主郭[恒吉城 遺構・復元物]
3群(通称:西高城)の主郭です。周囲には、虎口、土塁、切岸も確認できます。また、向かい合って、4群の主郭も見ることができます。当時、この二つの主郭から、一斉に攻撃されたらと想像すると恐ろしいです。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
3群と4群間の堀切[恒吉城 遺構・復元物]
3群(西高城:画像左側)と4群(東高城:画像右側)の間の堀切。元々は一つの山だったものを堀切って、二つの主郭を形成しました。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
4群の主郭[恒吉城 遺構・復元物]
4群(通称:東高城)は雛壇状に曲輪があります。途中、ロープをつかみながら登ると、虎口や櫓台、土塁のある主郭に辿り着きます。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
4群の土塁[恒吉城 遺構・復元物]
4群の土塁と看板です。土塁の外側には大空堀があります。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
1群(日輪城)の主郭の下[恒吉城 遺構・復元物]
1群(日輪城)主郭の下(二重空堀の内側)です。周囲には、堀切、切岸、櫓台のような小曲輪もあります。なお、1群主郭は立入禁止です。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
1群(日輪城)の二重の空堀[恒吉城 遺構・復元物]
1群(日輪城)の二重の空堀の内側。人工の堀で、外側は天然の堀(侵食谷)になっています。なお、1群主郭は立入禁止です。
2019年04月27日 肝付肥後守省釣
縄張り図[恒吉城 碑・説明板]
縄張り図のところに散策用マップがあります。
2017年06月13日 榎晴信肥後守
恒吉城
日輪城(恒吉城)には恒吉地区公民館に車をとめ登城できます。登ってすぐの曲輪に案内図があり、恒吉城縄張り図のパンフレットもありました。要所に矢印と案内図があり、迷わず進めました。ただ所々で道が悪い場所や滑りやすい所もあったので気をつけて。なおⅠ群(日輪城)は現在立ち入り禁止になっております。
恒吉城の周辺スポット情報
1群(日輪城)の二重の空堀(遺構・復元物)
1群(日輪城)の主郭の下(遺構・復元物)
4群の土塁(遺構・復元物)
4群の主郭(遺構・復元物)
3群と4群間の堀切(遺構・復元物)
3群の主郭(遺構・復元物)
5群の主郭の一部(遺構・復元物)
3群西側の土塁(遺構・復元物)
畝状竪堀群(遺構・復元物)
多重横堀と連続多重堀切(遺構・復元物)
4群と畝状竪堀群の間の大空堀(遺構・復元物)
縄張り図(碑・説明板)
縄張り図(碑・説明板)
縄張り図の看板(林道側)(碑・説明板)
恒吉城(日輪城)跡(碑・説明板)
駐車場(駐車場)
天文14年(1545)山田久時が領主の時、肝付兼続の攻撃で落城したのを契機に度々領主が入れ替わるようになり、文禄4年(1595)には伊集院幸侃(こうかん)の所領となる。
慶長4年(1599)の庄内の乱(庄内合戦)では、都城を本城とする十二外城の一つとして機能し、伊集院宗右衛門が守将として入った。同年6月22日島津図書忠長、樺山権左衛門久高、柏原将監公盛が3,000人を率いて恒吉城を攻撃したが、城壁堅固で容易に落ちなかったという。同月25日、久高の説得により開城、宗右衛門は都城に退去した。開城後、寺山四郎左衛門久兼が入城し、乱終結後、久兼がそのまま恒吉郷の初代地頭となった。