志布志城(松尾城)跡
志布志城(松尾城)跡([志布志城 遺構・復元物])
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志布志城(松尾城)跡の口コミ情報
2024年05月09日 RED副将軍
志布志城の築城当初の主城🏯
続日本100名城
内城・松尾城・高城・新城の四つの城郭で構成される志布志城のひとつ。
築城年代は不詳。
志布志の歴史は古く、1026年に平季基により開かれた大荘園島津荘の港として発展したのが始まりとされます。
1189年より救仁院氏が当地を治めており、救仁院氏による築城とされます。
南北朝時代には楡井頼仲が南朝方として日向国から大隅国にかけての志布志城、大姶良城、加瀬田城を領有したとされ、この頃の志布志城は既に松尾城と内城が存在していた事が分かっています。
しかし北朝方より派遣された畠山直顕と禰寝氏との争いに敗れて落城。楡井頼仲は胡麻ヶ崎城へと退くも自害し楡井氏は滅亡。
その後、1358年に畠山直顕は穆佐城で菊地氏に敗れて衰退。志布志城は島津元久が領有し家臣の新納実久が入城しました。
1458年、新納忠続は伊東氏の南進に備えるために飫肥城へと移りましたが、その後に伊東氏に飫肥城を奪われると志布志城の城主に復帰。
1538年、新納忠勝は都城城の北郷忠相、串間城の島津忠朝の侵攻により降伏。新納氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となるも、1562年には肝付兼続が志布志城を落として所領としました。
1577年に肝付氏が島津氏に降伏すると志布志城には島津氏家臣の鎌田政近が入城。
1615年の一国一城令によって廃城となりました。
見所
前川河口部のシラス台地先端に位置し、内城の西側にある標高50mの台地上に築かれています。
内城が最も規模が大きく主城であったと思われますが、当初は松尾城が主城であったとされます。
南北に伸びる尾根上に築かれており、城内に入って直ぐにシラス台地を削った切り通し道が続きます。
数段の小郭を経て、最高所の主郭に連なります。
主郭は南北二段で北側背後に土塁と深さ10mの大堀切を設けて遮断。楡井頼仲の碑が立っています。
北側には更に二郭、三郭と続く様ですが、激ヤブであり進む事が出来ませんでした。
行き方は、志布志城の駐車場から西へ歩いて約100mに入り口の標柱が立っています。比高は30mほどです。