今帰仁城(なきじんじょう)
今帰仁城の基本情報
通称・別名
- 今帰仁グスク、北山グスク
所在地
- 沖縄県国頭郡今帰仁村
旧国名
- 琉球国
分類・構造
- 山城
天守構造
- なし
築城主
- 湧川按司
築城年
- 13世紀頃
主な改修者
- -
主な城主
- 北山王、第一尚氏
廃城年
- 寛文5年(1665)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- 世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国史跡(今帰仁城跡附シイナ城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
伊江城(沖縄県国頭郡)[12.7km]
名護城(沖縄県名護市)[12.9km]
恩納城(沖縄県国頭郡)[22.5km]
根謝銘城(沖縄県国頭郡)[23.0km]
漢那城(沖縄県国頭郡)[24.3km]
伊是名城(沖縄県島尻郡)[25.1km]
伊波城(沖縄県うるま市)[31.9km]
山田城(沖縄県国頭郡)[32.4km]
安慶名城(沖縄県うるま市)[35.3km]
泊城(沖縄県うるま市)[35.7km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 98 今帰仁城
設置場所
- 今帰仁村グスク交流センター[地図]
今帰仁城の解説文
[引用元:Wikipedia「今帰仁城」の項目]
今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。国の史跡、世界文化遺産の一部に指定されている。
伝説と略歴
現地の伝説によれば、今帰仁世の主が築いたと伝わるが、伝説上の王統・舜天王統が始まるよりも遥か前の事だと言う。さらに利勇の反乱により世主は尽く滅亡したと伝わる。なお、現在まで発見された城郭跡は12 - 13世紀頃の築城である[1]。
『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、伝説王・舜天の兄(異母弟とも)、大舜とその子が城主となり、のち舜天二世・舜馬順煕の子、今帰仁世の主(義本王とは兄弟)が城主となる。なお、この代の今帰仁世の主の二世(不詳)の養子となり今帰仁城主を継いだのが英祖王の次男、湧川王子と伝わる。
湧川王子と子孫は代々城主を継ぐが、係累の怕尼芝に討たれ、それまでの城主係累は滅亡、離散する(その子孫に護佐丸がいる)。北山王国の始まりである。怕尼芝より前代は伝記と系譜だけで年代は分かっていないため伝説に近い。
明の洪武帝『明太祖実録』に北山王国の朝貢と今帰仁城の事が記述されている(現存する文献上、最も古い記録)。
1416年、北山王国は中山王尚巴志に滅ぼされるが、以後は北山監守が置かれた。1609年の琉球侵攻後、1665年(康熙4年)には廃止されている。以降は具志川御殿十世今帰仁朝義と係累が琉球処分まで監守跡を管理した。
概要
『おもろさうし』に見える今帰仁の古名は「みやきせん」と言う。今帰仁城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。
現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に今帰仁城跡として指定される[2]。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末 - 2月初めに開花する。本部町の八重岳などと並び、桜の名所として知られている。城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。
2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(98番)に選定された。
2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナ城跡へ改められた[3]。
史績、城域
南北350 m、東西800 m、面積37,000 m2。県内最大級の城(グスク)として名高い。複数の城郭により区切られ、本丸的な王邸、城主側近の武士の邸宅跡などが確認できる。城下も広く、ミームングスク、ターラグスクなどの出城もある。
出土品には14 - 15世紀頃の中国製陶磁器が多く、後北山の朝貢貿易の影響と見られ、中国の様々な文物がある。他には高麗青磁器、東南アジアや日本からの焼物もある。さらに武具類、祭祀品など様々なものも出土する。
附シイナ城跡
シイナ城跡は今帰仁城跡から南東6キロの今帰仁村字呉我山三謝原にあり、13世紀中に築城され短期間で廃城された。石垣跡が見られる。
今帰仁の築城以前の中心拠点として、シイナ城に按司が住んだが、用水に不足し、今帰仁城に移ったと言う伝承がある。
現地情報
世界遺産登録以降、城跡は徐々に整備および修復作業の強化が行われた。また駐車場が城跡入口付近へ、場内に入る際のチケット販売所がグスク交流センターへ移設された。2005年(平成17年)9月1日、グスク交流センターや観光バス駐車場などの周辺設備の整備に伴い、今帰仁城跡のみの入場料が今帰仁城跡と今帰仁村歴史文化センターの共通料金となり、300円から400円に値上げされた。2023年4月から600円となっている。
観覧料
今帰仁村歴史文化センターと共通
- 大人:600円
- 中高校生:450円
- 小学生以下:無料
アクセス
- バス路線
- 今帰仁城跡バス停
- 四島線・やんばる急行バス
- 今帰仁城跡入口バス停(徒歩15分程度)
- 65番・本部半島(渡久地)線(琉球バス交通・沖縄バス)
- 66番・本部半島(今帰仁)線(琉球バス交通・沖縄バス)
- 名護バスターミナルからだと66番の方が早く到着でき、運賃も安くなる。
- 888番・やんばる急行バス
参考文献
- 『今帰仁村史』
- 『ぐすく グスク分布調査報告(I) - 沖縄本島及び周辺離島-』(1983年)沖縄教育委員会、沖縄県文化財調査報告書第53集
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今帰仁城の口コミ情報
2024年07月24日 猫田左馬頭黒毛右衛門
今帰仁城
今帰仁村グスク交流センターでの食事提供店は営業日に注意が必要。私は平日の訪問だったので営業していなかった。
有料エリアの手前にある茶屋では、その場でサトウキビを絞ったジュースを飲むことができる。希望すれば絞ってみることもできる。
雨の場合は石畳の道が滑りやすい。特に昔ながらの旧道は歩きにくい。
2024年03月01日 RED副将軍
シイナグスク[今帰仁城 周辺城郭]
今帰仁城の前身とも云われるグスク跡🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の詳細不詳。北山王統初期の湧川按司により築かれたとも云われますが定かではありません。
築城途中で湧水が涸れたとの理由で中止され、その後に今帰仁城が築かれたとの伝承があります。
発掘調査により13世紀後半の遺構であり、14世紀には廃城になっていることが判明しています。今帰仁城は14世紀の築城であるため、それ以前のものです。
見所
呉我山の標高約93mの丘陵上に築かれています。
北から南へと一の郭、二の郭、三の郭と連なり、西側に腰郭、北側に北の郭が配され、主郭部を中心に石積み遺構がよく残ります。
今帰仁城と同じ古期石灰岩を使用した野面積みですが、面石は粗割りなため目地の隙間が目立ち、高さは最大約2mで加工精度は低く古い石積みです。
国史跡に指定されていますが、あまり整備はされておらずルートを外れると激ヤブです。
行き方は、協和リサイクルセンターを目標に設定。センター入口近くの右手にシイナグスクへの道標が出ています。道標近くに1台くらいなら駐車可能なスペースがあります。
2024年01月07日 九日奈印崔武修理大夫
ミームングスク[今帰仁城 周辺城郭]
城の入口あたりに全体の昔の城(今帰仁城跡周辺)の模型がありました。実際に行ってみると復元模型とは違い、石垣がかなり崩れていて、草も生い茂っていました。築城年代や築城者は不明です。ミームングスクは今帰仁城の支城と考えられています。
2023年12月12日 ゆらキング⭐️左衛門佐信繁
今帰仁城
尚巴志(第一尚氏)による琉球統一前の山北王の居城で10の曲輪からなる連郭式の山城、高石垣を曲線状に積む琉球独自の技術が見られる。
沖縄本島の他のグスクで利用さらる琉球石灰岩でなく硬い古期石灰岩ぎ使われている。張り出した部分の石垣は下の方に上から石垣が積み増しされているのは、巾木石垣にあたるのだろうか?
分かる方がいれば教えて頂きたい。
外郭、主郭、志慶真門郭と巡り、一部石垣が崩れて断面が確認出来るところがあり、内部全て石で積まれており本土の積み方との違いを感じられた。
2023年10月16日 気分爽快陸奥守
今帰仁城
また今帰仁城に行ってしまった。裏の駐車場から行くといきなりの金属音。何かの工事かと思ったが、大島ゼミというらしい。カーザフが見える場所には、黄色の彼岸花。鍾馗水仙というらしい。新たな発見が2つありました。
①阿応理屋恵火之神の祠
②大隅の城壁を北東から
③旧道
④ここからの眺めは定番のようで
⑤オレンジ色に見えるが黄色の鍾馗水仙
⑥大隅の城壁を南西から
⑦志慶真門郭の南西
⑧ 志慶真門郭の入口なのだろうか?
2023年01月25日 陸奥守新九郎
今帰仁城
良いグスクで見応えがあります。ただ、主郭などはもう少し樹木整理などが必要な気がします。公有地でないところが多いようなので、その辺がネックなのかもしれません。今回は寒緋桜も咲き始めていました。桜の時期の週末は、駐車場が混むので要注意ですよ。
2023年01月23日 ようこ姫
今帰仁城
ちょうど桜まつりの期間の日曜日で、賑わっていました。駐車場も混雑していました。城跡としてだけでなく、楽しみました。
2022年12月19日 雲如露絶兎
今帰仁城
石垣しか残っていませんが、本土の城とはまた違う石垣が迫力ありました。
2022年12月03日 まー
今帰仁城
中城や首里城とは違ったかたーい石でできた石垣が綺麗に残っていて、見応えありました。工事中で一番奥までは行けません
2022年10月22日 虹雷 大宰大弐 サンダー
今帰仁城
那覇空港から高速を使って2時間弱、少し距離はありますが、万里の長城を思わせるような優美な石垣は一見の価値あり、ぜひ訪れていただきたい城跡です。主郭からは、晴れていればコバルトブルーの海とのコントラストが楽しめると思います。近くには沖縄そばのお店もちらほら、記憶に残る訪問になること間違いなしです。無料駐車場あり、入場券発売所近くの第1、第2駐車場が便利です。
2022年05月16日 RED副将軍
今帰仁城
偶には世界遺産のグスクを口コミ。堅牢な城壁は琉球最大規模です。
13世期頃の築城で、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城と考えられています。1416年に、北山王国は中山王の尚巴志により滅亡。城郭は堅牢でしたが、北山王の側近を賄賂で寝返らせ、内通者により搦手の志慶真門より侵入し落城させた様です。志慶真門を突破したのは琉球の英雄 護佐丸です。以後は北山監守が置かれ北部統治の拠点となった様です。1609年に薩摩藩の琉球侵攻により落城。そのまま廃城となりました。
見所
堅牢な城壁が1.5kmも波状に続き、万里の長城を彷彿とさせます。どこを切り取っても絵になるフォトジェニックな名城です。
2020年10月29日 ぶらなおき
今帰仁城
台風で崩れた石垣は、綺麗されていた。もとに戻るのに、5年は、かかるとの事。
2019年04月30日 征夷大将軍 びゅ~てぃみみ
今帰仁城
芸術的な石垣で目と心を魅了するグスク。異国に来たとさえ錯覚する。崩れかかっていようともそれは歴史を重ねてきた証拠。個人的にはそういう姿も好き。
今帰仁城は検出された遺構や遺物より大きく4期に区分され、最も栄えたのは3期の14世紀後半~15世紀前期で中国との貿易が行われていたそうです。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
度々失礼しました。護佐丸は、尚巴志軍に従軍した1416年は、中山所属では無くて北山所属でした。1414年に尚巴志が豊見城城を攻略した事を知って、保身の為に尚巴志の道先案内をしました。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
1416年に尚巴志が攻略した後の、今帰仁城の城主は、北山監守と呼ばれます。北山監守は、1416年から1421年迄は、護佐丸です。1422年から1439年迄は、尚巴志の次男で、尚巴志の崩御後の1440年に第一尚氏第三代尚忠王として、琉球国中山王に即位する尚忠です。1440年以後、1609年の島津家久軍の琉球征服で、再び落城するまでは、王族である歴代の今帰仁王子です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
千代金丸は、地元の漁師が尚巴志に謙譲した伝承がありますが実際は、信長が桶狭間の戦いで、今川義元から強奪した、義元左文字と同じく、尚巴志はが今帰仁城攻略後の際に、樊安知から強奪した物です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
尚巴志の謀略で、腹心の本部平原に裏切られた樊安知は、所持していた刀(国宝、千代金丸)で、本部平原を討った後に、今帰仁城城内の御嶽に守護神として、祀っていたイビという石を、千代金丸で叩き切ったそうです。その石は、受剣石と呼ばれて今も今帰仁城に有ります。樊安知は、千代金丸で切腹しようとしたけど、何度も試しても千代金丸では、切腹出来なかった為に千代金丸を志慶真川に投げ捨てた後に、別の刀で切腹したと言う伝承があります。その後、夜に怪しい光を発する志慶真川を捜索した、地元の漁師が千代金丸を発見して尚巴志に謙譲したと言う伝承もあります。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
今帰仁城は、北山王の居城ですが1416年に、佐敷の小按司こと、鬼鷲、尚巴志が攻略します。尚巴志軍は、護佐丸や、先中城按司、知花按司(もしかして、おもろさうしのイケメン按司?)等の中山に所属する部隊三千の兵で遠征します。対する北山王、樊安知の兵は、一千です。今帰仁城は、要害であったので尚巴志軍が、三日三晩総攻撃をかけても持ちこたえたそうです。そこで、尚巴志は軍を二手に分けた上に、忍者を使って内通工作を仕掛けます。樊安知の腹心であった、本部平原(むとぅぶてーばる)の懐柔に成功した尚巴志は、籠城していた樊安知を野戦に誘き出すのに成功します。そして、樊安知を本部平原と共に挟み撃ちにします。さらに、二手に分けておいた軍勢の内の少ない方の部隊を、急峻な崖の為に守りが手薄だった志慶真川方面から奇襲を掛けて、今帰仁城を落城させます。
2018年06月15日 後中城按司 知名朝安
今帰仁城
今帰仁城の城主として、中城城の城主であり、座喜味城の城主でもあった、護佐丸の名もあげるべきです。彼は、尚巴志の北山攻略に従軍しています。そして、一番の軍功を上げた褒美として、北山監守に任命されています。尚巴志が、北山を併合した1416年から、1421年迄は、護佐丸が、今帰仁城の城主です。実は、護佐丸は、尚巴志と共に、沖縄本島に有る五つの世界遺産の城、全てに関係している凄い人物です。
2017年10月30日 KAZ右大臣正勝
今帰仁城
那覇市のホテルから朝8時到着目指して
6時に出たら、ちょーどでした(^O^)/
(高速道未使用です)
待ちに待った今帰仁城!!
いやー!チケット売り場から見ただけで…
あの石垣のカーブは横矢用っすかね?
めっちゃ美しいっす\(^o^)/
台風後で道をホウキで掃除されてました
『足元気を付けてくださいねー』って
感謝!感謝っす!
城跡全周→歴史センター→ミームングスクで、1時間半滞在でした(^O^)/
一つだけ心残りが出来てしまいました。
御嶽は『偶像』では無いんすね!
訪問前の勉強不足でした(>_<)
説明看板はあるけど…神さま?ん?ん?
って、感じでした(>_<)
この後訪問した中城城のガイドさんに
教えてもらって…後悔です(T ^ T)
ミームングスクは…
蛇が居そうで…ガクブルでした
:(;゙゚'ω゚'):
普通の人はミームングスクとかハンタ道には行かずに1時間くらいの滞在らしいっす
(//∇//)
あと…志慶真城郭の後ろが崩れてるのは
意味有りそうで…帰り道…
いや!今も!ずーっと気になってます
(≧∇≦)
2016年12月03日 本番楽しみな征夷大将軍クララ姫
今帰仁城
熊木杏里さんの『桜』(コブクロ原曲)PV映像の舞台になっています。カラオケの映像などでも見られますよ!
2016年02月13日 本番楽しみな征夷大将軍クララ姫
今帰仁城
2016.2.8に訪れました。寒緋桜の桜祭り(ライトアップ等)は7日まででしたが8日時点で、まだ八分咲きでした。勿論、その年の寒暖差によって寒緋桜の開花時期はズレますが、訪問時期の参考にしてください。
2014年12月01日 柳生兵庫助如雲斎
今帰仁城
今帰仁城跡のバス停から徒歩で一キロですが割とキツい坂道なので要注意。
2010年06月09日 ️
今帰仁城
大蛇のうねりのような石垣が印象的な今帰仁城、いつ訪れても旅の記憶に残ることは間違いありませんが、1月下旬~2月初旬にはカンヒザクラが満開を迎えます
ちゅら海のコバルトブルーと石垣のグレーのコントラストにカンヒザクラのマゼンタが加わり、文字通り彩りと華を添えてくれます
オリオンビール一番桜缶もこの時期だけ(^-^)b
今帰仁城の周辺スポット情報
御内原(うーちばる)(遺構・復元物)
大庭(遺構・復元物)
志慶真門郭(遺構・復元物)
主郭(遺構・復元物)
旧道(遺構・復元物)
カーザフ(遺構・復元物)
大隅郭(遺構・復元物)
平郎門(遺構・復元物)
大隅の城壁(遺構・復元物)
外郭(遺構・復元物)
ソイツギ(城内下之御嶽)(遺構・復元物)
ノロ殿内火の神祠(遺構・復元物)
旧道入口(碑・説明板)
説明板・模型(碑・説明板)
シイナグスク(周辺城郭)
ミームングスク(周辺城郭)
チケット売場(御城印)
今帰仁村グスク交流センター(スタンプ)
今帰仁村歴史文化センター(スタンプ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
第2駐車場(駐車場)