名護城(なごじょう)

名護城の基本情報

通称・別名

名護グスク

所在地

沖縄県名護市名護(名護城公園)

旧国名

琉球国

分類・構造

平山城

天守構造

なし

築城主

名護按司?

築城年

14世紀?

主な改修者

主な城主

名護按司

廃城年

遺構

曲輪、堀切

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

今帰仁城(沖縄県国頭郡)[12.9km]
漢那城(沖縄県国頭郡)[13.6km]
恩納城(沖縄県国頭郡)[16.8km]
根謝銘城(沖縄県国頭郡)[21.5km]
伊江城(沖縄県国頭郡)[23.5km]
泊城(沖縄県うるま市)[23.9km]
伊波城(沖縄県うるま市)[25.5km]
安慶名城(沖縄県うるま市)[27.1km]
山田城(沖縄県国頭郡)[27.4km]
勝連城(沖縄県うるま市)[30.9km]

名護城の解説文



名護城(なんぐすく)は、沖縄県名護市字城にある城跡(グスク)である。城跡一帯は「名護中央公園」として整備されており、日本さくら名所100選の1つとして「名護城公園」が選ばれている[1]。名護按司の居城だったと伝えられる。

名護按司の歴史 

名護城およびその城主たる名護按司は、伝説時代の北山世主・前北山の天孫氏の代から有力豪族として伝説があり、利勇の簒奪による伝説王朝・天孫王統の滅亡など、琉球の王統の代替わりごとに強い影響を受けてきたとされる。

概ね中北山の頃、国頭地方の豪族諸按司は皆ほぼ親族と呼べるほど近縁であり[2]、三山時代の終焉まで親族骨肉相い食む抗争が繰り広げられた。中北山中興の祖は、仲昔中山英祖王の次男湧川王子であり、北山諸按司と縁戚を結び、名護按司、羽地按司、国頭按司などの諸按司はその係累一族で占められた。史書における名護按司の祖は、湧川王子の孫[3]今帰仁城主仲昔今帰仁按司丘春の実弟(丘春の父、世主今帰仁按司の次男)と伝わり、羽地・国頭按司らも兄弟と伝わる。

(一説には羽地按司の)怕尼芝が内訌にて丘春を討ち後北山・北山王国を興すと、新しい北山王には面従腹背の姿勢を取り敗れ落ちた昔北山の一族を密かに庇護した。北山王の権勢は名護按司ら国頭諸按司にとっても存立の危機を覚えるほど強大であった。中山尚巴志が後北山を攻めると国頭諸按司一族はこぞって中山側につき、終には本部平原の内応により後北山・怕尼芝王統は終焉を迎える。

北山滅亡後、尚巴志は北山監守を置き兵乱に備えた。第一尚氏が尚円によって滅ぼされると、第一尚氏由来の監守家も離散するが、今度は名護按司ら国頭諸按司によって門中と雖も見殺しにされた。

第二尚氏・尚真王の代に王国の按司が首里に全て集められた。

城跡の地勢 

名護城は天孫伝説時代からあったと伝わるが、現在遺構が残っているのは、名護市中心部を北西に見下ろす標高100mほどの山地[4]に14世紀頃築かれたものである。「二重の堀切」と呼ばれる防御施設が残っている。他のグスクの例にもれず、ノロ殿内、根神、掟神、神アサギなどの拝所跡など御嶽的施設跡も見つかっている[5][6]。大がかりな土木建築の遺構は残っておらず、後北山時代までは茅葺と竹垣程度で築かれた城や拝所だったと推定されている(当時、中山の城でも瓦はほとんど使われていなかった時代である)。

また、出土品は14 - 15世紀の中国製陶磁器やグスク時代の土器が多い。

名護の中心部落も当初は名護城近くの山崖にあったが、後代尚真王の代に中央集権化により按司が全て首里に移ると軍事的機能は衰退し、換言すれば軍事的緊張が緩み平和が訪れたため、住民はこぞって平野部に移住し、山中には城郭、御嶽と伝説が残された。

周辺など 

城を下って中腹には名護神社があり、首里に移った名護按司を氏神として祀ったものである。神社には神アサギが置かれている一方で大和風の鳥居まで置かれており近代以降の設置と見られる。記録では1928年(昭和3年)に大規模な改築があった[7]

参考文献 

  • 名護市「名護600年史」

  • 『ぐすく グスク分布調査報告(I) - 沖縄本島及び周辺離島-』(1983年)沖縄教育委員会、沖縄県文化財調査報告書第53集

外部リンク・出典 

  • 名護市役所-名護城(http://www.city.nago.okinawa.jp/1/144.html)

名護城の口コミ情報

2024年06月21日 RED副将軍
名護城



琉球では珍しい堀切を敷設した土のグスク🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。14世紀に山北今帰仁城主の弟(または次男とも)が名護按司となり名護城を築いたと伝わります。
1322年、羽地城の怕尼芝が今帰仁按司を滅ぼして北山王となると、怕尼芝は今帰仁城を本拠地とし名護城は羽地城の支城となったとされます。
名護按司は、第2尚氏王統3代尚真の頃(1477年~1526年)に首里に移ったため名護城は廃城となったとされます。

見所
標高102mの山陵に築かれており、山頂部は広く削平された主郭が広がり、西側に数段の腰郭が連なります。
周辺のグスクと違い石垣や石積みは使用されておらず、琉球では珍しい堀切で主郭背後の東側が堅められています。しかも二重堀切であり内側の堀切は大規模なものです。

現在は、名護城公園として整備されており中腹に駐車場もあります。

2023年06月29日 MACHT征夷大将軍
名護城



名護の市街地からほど近くにあり、名護城公園として整備されているためアクセスは容易で、駐車場やトイレも備えてあります。ただ遺構といえるようなものがあるかと言われればあまり見られなかったかという所です。

主郭は大きな平地状態ですが特に石垣や土塁のようなものはみられず、主郭の東側に二重堀切があるようですが、なにせ高湿度の亜熱帯気候地域であるため草木が生い茂り、そこにアクセスするのはなかなか大変なのではと思います。クモや虫等も多いので主郭以外のところを散策しようとするのなら冬場の方がいいのではと思います。

名護城の周辺スポット情報

 名護城跡説明板(碑・説明板)

 仲尾次上城(周辺城郭)

 親川城(周辺城郭)

 名護神社(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

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