一宇治城(いちうじじょう)
一宇治城の基本情報
通称・別名
- 伊集院城、鉄山城、鉄丸城
所在地
- 鹿児島県日置市伊集院町大田
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 伊集院時清
築城年
- 建久年間(1190〜1199)頃
主な改修者
- 島津忠国
主な城主
- 伊集院氏、島津氏
廃城年
- 天文19年(1550)
遺構
- 曲輪[神明城・伊作城・中尾曲輪・釣瓶城・弓場城・護摩所・南之城・上平城]、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
市来鶴丸城(鹿児島県日置市)[5.1km]
南郷城(鹿児島県日置市)[7.9km]
郡山城(鹿児島県鹿児島市)[9.8km]
小山田城(鹿児島県鹿児島市)[10.3km]
川口城(鹿児島県鹿児島市)[10.8km]
伊作城(鹿児島県日置市)[13.1km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[14.0km]
串木野城(鹿児島県いちき串木野市)[14.4km]
川上城(鹿児島県鹿児島市)[15.7km]
鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)[16.1km]
一宇治城の解説文
[引用元:Wikipedia「一宇治城」の項目]
一宇治城(いちうじじょう)は、鹿児島県日置市伊集院町大田(薩摩国伊集院)にあった中世の日本の城(山城)。
沿革
鎌倉時代に伊集院氏によって築城されたとされる。その後、本家の島津氏を凌ぐと言われた伊集院氏の権力を背景に拡充されたが、1450年(宝徳2年)3月、島津忠国は伊集院一族を追放、以後、島津氏配下の城となった。
1545年(天文14年)、島津家中の統一を目指していた島津忠良・貴久親子は先祖代々の居城であったが薩摩国西部にあり不便であった伊作城から、薩摩国中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指す。北郷氏、樺山氏など島津氏の有力分家の支持を得た貴久は、この城で薩摩国・大隅国・日向国3カ国の太守となり、悲願であった島津家中の統一を果たすのである。
1550年(天文19年)12月、名実共に島津氏宗家当主となった貴久は拠点を鹿児島の内城に移し、この城は地頭の管轄下に置かれることになった。初代地頭は島津右衛門大夫孝久[1]。永禄年間には町田久倍が地頭を務めている。江戸時代には薩摩藩内でも重要な外城とされた。ただし、慶長以降には日常的に城を整備・管理していたという史料が無く、実質的には廃城になっていたと考えられている。
1549年(天文18年)9月に貴久とフランシスコ・ザビエルが対面し日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所として著名である[2]。また、島津義弘が鹿児島城築城を進めていた息子・家久に対して反対し、こちらの城を推薦していたことでも知られている。
概要
標高144mの城山という自然の山を利用して築かれている。
大小30個あまりの曲輪から構築されている。主な曲輪に「神明城」「伊作城」「中尾曲輪」「釣瓶城」「弓場城」「護摩所」「南之城」「上平城」があり、それぞれの曲輪は独立性が高い点は畿内の近世城郭と異なる点である。しかし、本丸にあたる「神明城」を中心とした曲輪は「神明城」を中心として守るように土塁を再構築した跡がある。
現状
現在「城山公園」として整備されており、整備に伴い部分的に遺構が破壊を受け、また遊具が設営されているが、比較的良好な保存状態にある。しかし説明版はほとんど無い。
JR九州鹿児島本線伊集院駅から700m程の所にあり、整備もされているので、南九州の中世城郭としては比較的見学しやすい城である。「神明城」跡にはフランシスコ・ザビエルとの会見を記念する石碑が建っている。また伊集院駅前には島津義弘の銅像が立つ。
補注
参考文献
- 木島孝之『城郭の縄張り構造と大名権力』 九州大学出版会 ISBN 487378672X
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一宇治城の口コミ情報
2024年10月29日 RED副将軍
一宇治城
島津忠良・島津貴久父子の薩摩平定の本拠地🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。建久年間(1190年〜1199年)に伊集院時清により築かれたと云われます。
伊集院氏は紀貫之で有名な紀氏一族とされ、1026年に郡司として伊集院郡に赴任し伊集院氏を称しました。紀性伊集院氏は四代に渡って当地を支配しますが、1320年に伊集院時忠で血脈は途絶え、島津氏一族の伊集院久親が代わって伊集院氏を称しました。
島津性伊集院氏は七代続き、島津宗家を凌ぐほどに勢力を拡大しましたが、1450年に七代当主の伊集院熙久は島津忠国に侵攻を受け一宇治城は落城し滅亡します。
代わって一宇治城は島津宗家から島津忠良・島津貴久父子に与えられ伊作城から移ります。約5年に渡り居城とし、薩摩統一の拠点としました。
1549年には島津貴久とフランシスコ・ザビエルが一宇治城で対面。日本で初めてキリスト教の布教許可を正式に出したことで有名です。
1550年に島津宗家を相続した島津貴久は内城を築いて移り、一宇治城は使用されなくなったとされます。
見所
三方が断崖で囲まれたシラス丘陵に築かれた天然の要害です。
主郭にあたる神明城・上平城・中平城・下平城・釣瓶城・中尾城・南之城・伊作城・阿多城などと名前の付いた郭群が連なる巨大山城です。
現在は城山公園として整備されており、歩きやすい反面、公園化により大きく改変を受けています。
2024年10月26日 薩摩安房守義弘維新斎
一宇治城
JR伊集院駅から徒歩10分程度で登城できます。日置市の比較的中心部に位置する城山公園は標高142mの小高い山で、展望台、遊具などが整備されてます。また、車ならば駐車場が整備され、駐車スペースがたくさんあるので問題ありません。
公園の駐車場からの階段には、一宇治城と書いてある石碑があって、一目で城跡と分かります。公園内には、各曲輪への案内板が設置され、それを頼りに各曲輪へ行くと説明板があって、どんな曲輪かが分かります。
城跡からは、眺望がよく市街地や桜島が望めます。公園内には、たくさんの桜の木が植林されているので、3月から4月の季節は桜が綺麗と思います。
なお、この城は、島津義久、義弘、歳久の3兄弟が幼少時に育ったところでもあり、ザビエルが布教活動の許可を得るため、訪問した歴史あるところです。
2024年05月04日 赤鷺ノ宮右兵衛佐武尊
一宇治城
山城としては珍しく場内が公園や遊具🛝が設置されており家族連れが多かったですが、土堀は険しく堅固な要塞の雰囲気は現存しており見事にコラボしてます。何方でも楽しめますよ。
2023年10月15日 気分爽快豊後守
一宇治城
市民憩いの公園として綺麗に整備されています。シラス台地の城を整備しすぎるとこんなにも見易くなるものかと思いながら、見学してきました。
ザビエルさんもここを訪れたようで、へぇ〜と思いました。
①段々の郭と本丸の展望台
②釣瓶城の内枡形か?
③南の城の入口なのだろうか?
④南の城から見た中平城
⑤伊作城の土塁は石塁のようにも見える
⑥神明城(本丸)西の横堀
⑦土橋にも見える本丸の南
⑧神明城東の横堀
2023年03月28日 たまちゃん
一宇治城
車で城域まで登れます。神明城には展望台があり街中まで見渡せます。公園になっており気軽に行ける城跡です。伊集院駅前には島津義弘公の像があります。
2021年10月21日 つか征夷大将軍ぽ
徳重神社[一宇治城 寺社・史跡]
元々は妙円寺でしたが廃仏毀釈により徳重神社に改号されてます。妙円寺は島津兄弟が幼少期に教育を受けたとされてます。また義弘は自ら妙円寺を菩提寺として定めてます。御祭神として義弘公が祀られてます。
義弘死後に殉死した13名の地蔵塔を島津家久が建ててます。
2020年12月27日 織田上総介晃司
一宇治城
城山公園駐車場は広いうえトイレもあります。
遊具のある公園となってますが散策すると城跡とわかる遺構があります。
島津家とも関わりがあり、フランシスコ・ザビエルとも会見した場所です。
2020年10月11日 ( *¯ ³¯)っ旦
一宇治城
しらす大地の素晴らしい深い堀切り、深い空堀の城です。ここは伊集院駅からも近いので機会があれば是非、寄っていただきたいです。
2019年06月29日 ふるさと歴史探索
一宇治城
城山(じょうやま)公園になっていますが、城跡としても十分に楽しめます。公園なので、装備などもいらずむしろ登城しやすいです。
広い場所には草スキー場や遊具が設置されていますが、土塁、堀切、井戸跡なんかの遺構は残され、案内板も充実していて感動しました^_^
2012年05月07日 鳳雛SASlov優彩
一宇治城
城下の伊集院駅前に島津義弘公の銅像が有ります